第19話
数分後、未だ船は動かない。ただ、凍った海の上に置かれ、海岸に繋がれた船が、乗り込む四五〇人でその胎内を満たそうとしているだけの時間。その間、冷たい風と白い流氷、そして船から漏れる黒い煙の中で、明美はくるくると回っていた。
体型を覆い隠す長いダウンコートの裾が揺れる。丈の長い服など、一年前の彼女は絶対に着なかった。いつだってそのグラマラスな体型を強調するようなズボンとシャツを着込み、不自然なほど使い込まれた業務用の長靴を履いていた。その靴底の滑り止めは擦り切れ、いつか転倒事故を起こすと言われていたのは、花崗には懐かしい思い出だった。二人と南雲の指導教官であった四島は、来月には新しい長靴が届くと言っていた。だが、結局のところ、明美がその新品の長靴を履くことは無かったということも、花崗は知っていた。
「コートの裾を踏むと危ないですよ」
花崗は目の前で裾を広げる明美に、そう声をかけた。もっと言いたいことも、問いただしたいこともあったが、その全てを胃に押し込んだ。
聞くだけなら船を降りた後だって出来る。身体の軽そうな今の彼女を抱えて船を無理矢理降りることは、花崗にはそう難しいことではなかった。しかし、どうにも花崗は、彼女の腕を引く勇気が無かった。
握れば折れてしまいそうな程に細い腕と指。どう立っているのかもわからない足。それでも前に出ている腹の膨らみのアンバランスさが、一瞬でも触れれば殺してしまいそうな気がしていた。
花崗がその場を動けずにいた理由は、他にもあった。
視線があるのだ。目が、こちらを見ている。明美ではない。明美以外の、甲板に立つ目。数えるのも億劫になるほどの眼球が、明美と花崗を舐め回すように見ていた。大量の視線を眺めれば、そこには女ばかりが立っていた。同じ甲板の上、船の窓。監視と言うには刺さるような敵意を持って、それらはジッと花崗を見ている。そのうち数個の目と、花崗は視線を重ねたが、そのどれもが応答を返すことはなかった。
「大丈夫だって、一ヶ月これで一度も転んだことないんだよ?」
遠くを睨む花崗に、数秒遅れて明美は笑った。
「一ヶ月もこんな寒い思いを?」
花崗が問うと、明美はピタリと足を止めた。彼女は壁に背を置いて、肩をすくめた。
「中に入ればそう寒くはないのよ」
開いた扉を指差して、明美はそう呟いた。丸く小さなその特徴的な扉からは、時折、中国語や韓国語を話す観光客達がゲラゲラと笑う声が聞こえた。複数言語のアナウンスと、汽笛が鳴った。人間の声の混ざったエンジン音に、明美は声を大きく上げて「入りましょう」と赤い唇を開いた。
一歩、船内に足を入れれば、花崗は湿度と熱気で目がくらんだ。零下三十度の海上に直接触れていた甲板と異なり、船内は暖房とヒトの熱に満たされていた。
花崗は汗ばむ首に、冷えた己の指先を這わせた。隣では明美が分厚いコートを脱いでいた。
ダウンコートの前を割って、明美は細い首筋と大きく発達した鎖骨を見せた。骨と皮になろうとも色香を漂わせる首元に、花崗は唾液を飲んだ。だが、彼の注目は数秒でその下部へと向かう。
丸いボールでも入っているような、下腹部。肋骨の最先端と骨盤の間に張り出したそれが何であるかを、花崗は理解していた。
「まあ」
そう感嘆を上げたのは、花崗でも明美でもなかった。二人の前で、口を覆っていたのは、品の良い老婦人だった。彼女は真っ直ぐ伸びた背筋をそのままに、黒い瞳で二人を足の先から髪の先まで視覚で舐めると、ポッと頬に熱を帯びた。そうして、老婦人はくるりと二人に背を向けると、ヒトで満ちた座席の内の一つに、声をかけた。老婦人と似た上質なコートを羽織っていた老夫は、老婦人に声をかけられると、明美を見つめた。暫くして、彼は何かハッと気付いたかのようにして、立ち上がった。
「どうぞ座って、奥さん」
老婦人がそう言って、明美の手を引いた。何一つ戸惑うことなくその言葉に応える明美と、狼狽える花崗は、ただ言われるがままに老夫婦の座っていた座席に腰を下ろした。老いた人間の低い体温でも、冬の冷えた椅子よりは幾分かマシであった。
明美の腹に手を振る老夫婦を見て、花崗はただ吐き気を催していた。
「こうやって優しくしてくれる人もいたから、全然平気だったのよ」
一転して、明美はそう冷たく呟いた。落ちた彼女の言葉を、花崗はただ無言で聞き入っていた。
「特にね、女の人たちはみんな優しいの。学校に行けなくなった私を一年も匿ってくれたのは、みんな女の人。お腹にいる赤ちゃんのことも大事に思ってくれた。お母さんたちの骨を貰いに行くときも、みんな手伝ってくれたの」
彼女の言う「みんな」が誰なのかを、花崗は聞くことも出来なかった。だが、その「みんな」が遠野明美と同じ信仰を持つことは、花崗にも理解出来ていた。
「明美さん」
花崗は一つ、声を置いた。明美が嬉しそうに「何?」と首を傾げた。その表情に、狂気は無かった。故に、花崗は一際低く響く声で、彼女に問いを置いた。
「今までずっと網走にいたんですか」
花崗が出した問いの意味を、明美は理解していた。彼女は薄ら笑いを浮かべて、花崗と目を合わせた。
「そうよ。ずっといた。
明美がそう言うと、花崗は一瞬、迷いを口の中に溜めた。彼がその溜め込んだ言葉を吐こうとしたとき、明美は「だって」と置いた。
「貴方じゃ助けてくれるとは思えなかったから。だって貴方、南雲さんの言うことは絶対に聞くでしょう。南雲さんが取り戻して来いと言ったら、あの仔を私から奪うでしょう」
「そんなことありませんよ」
食い気味に答える。しかし花崗は、薄ら笑いの中で眉を下げる明美の表情を見て、肩を落とした。
「貴方、信用無いのよ。私から」
明美はそう言って、柔らかに頬を持ち上げた。その表情は正しく、正気の中にあった。
暖色に満たされた船内の光が、淡く明美を照らす。細い手指で、彼女は己の腹を撫でた。
「でも今日はちょっと見直したかも」
ぽこんと動いた腹の上、指をなぞって、明美は笑う。その口元が、僅かに歪んだ。僅かに上がった口の端に、花崗は一瞬肩を振るわせた。
花崗はこの表情を知っていた。彼女が一年前にも見せた笑顔。子守歌を歌うその姿は、確かにあの遠野明美だった。
明美から褒められたことを、喜べば良いのか、それとも嘆くべきかは、花崗にはわからなかった。
「うちの妹をちゃんと連れてきてくれたでしょ、冬くん」
腹を撫でる手を止めて、明美はそう笑った。細く落とした目尻に、瞳が移動する。明美の細いその視線の先に、花崗もまた視線を重ねた。眼球の中央で、花崗は一人の少女を捉えた。
「花崗さん」
艶やかな黒髪を湛えて、美沙は半開きの扉の前に立っていた。彼女の背後には、青い顔の女が、荒い息と共に立っていた。その女の顔を、花崗は見た覚えがあった。一年前と、つい最近。パニックになる女学生達の一人。そして、失踪したという女学生の顔写真。
「園崎さん、良かった。ちゃんと乗れたのね」
明美はそう言って、その青い顔の女に微笑んだ。園崎ロアン。彼女は、荒い息と共に涙を流して、縋るように明美と花崗を睨んでいた。彼女の唇はぶるぶると震え、口の先からは唾液が垂れる。何度も噛んだのだろう唇には、前歯の痕がついていた。
様子がおかしい。花崗がそう感じた先は、園崎だけではなかった。
「花崗さんは座っていても目立ちますね」
終始穏やかな美沙は、目のあった花崗にそう微笑みかけた。その会話が成立しない鈴を鳴らすような声は、確かに明美とそっくりだった。高校生の頃の明美が目の前にいれば、きっと美沙と双子だと思われてもおかしくはなかっただろう。
「お姉ちゃん、私ね」
小さな唇から、美沙はフッと小さく笑って見せた。彼女は静かに足を前へ出した。座席へ進んでいく。園崎は引っ張られるようにして、ふらふらと美沙の背後について歩いた。そんな園崎に気を遣うこともなく、美沙は歩の進みを早めた。
「ん゛――――!」
曇った声で、園崎は叫び声を噛んだ。園崎と美沙の二人が近づく度、異臭が鼻にちらつく。それは他の乗客も同じだったようで、距離が迫った客の一部が、逃げるように席を立った。花崗の隣に空いた一つの座席に、美沙は躊躇無く腰を下ろした。それに併せて、園崎はまるで紐で操られているかのように、椅子の上に腰を勢いよく落とした。彼女は分厚いコートを脱ぐこともなく、ただだらだらと汗を流す。そんな彼女のコートの裾を、美沙は左手で掴んでいた。否、彼女の左手には、園崎のコート以外にも何かゴムの塊のようなものが握り込められていた。ぶかぶかのコートにおさまったままの右手から、赤く鈍い反射光が漏れた。花崗は、美沙と花崗に挟まれて、息を止めた。甘い香水と苦い煙草の香りに包まれた明美の匂いと、美沙の纏った血潮の香りがぶつかって、吐き気を誘発させる。息を止めても、鼻腔には僅かな香気が入り込む。それだけでも、花崗はウッと胃から何かこみ上げるものがあった。
「私、流氷が見てみたかったの。すぐ近くで、シャチとか、鯨とかも」
明るく、女子高生らしさを纏って、美沙はそう言った。彼女の無邪気さの裏で、園崎がガタガタと震える。彼女は両手で口を押さえて、首を振っていた。珠のような汗と、引いていく血の気。爪が、頬に食い込んでいく。訴えかけるような彼女の目が、花崗を捉えた。
花崗は、自らの両隣を塞ぐ遠野姉妹から目を離した。園崎の奇妙な視線の歪みへ、意識が向かう。
そうして、花崗は園崎の足下を見た。
「シャチとかナガスクジラは夏じゃないと駄目よ。今観察できるのは鳥類かアザラシばっかりだから」
園崎に向かって捻った花崗の身体を盾に、明美は美沙へそう囁いた。コロコロと鈴を鳴らすような声が、両耳から聞こえた。美沙もまた、コロコロと喉を鳴らしていた。そんな二人を退けて、花崗は静かにその腕を園崎に向けた。彼は長い腕の中に美沙を抱えると、手の先を園崎の腹部へ置いた。コート越しに柔らかな女の腹へ触れる。
「ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛」
唾液と胃液を、両手の隙間から漏れ出して、園崎は手の中に叫んだ。彼女の漏れた胃液が手の甲を滑る。花崗は狼狽えたまま、コートの隙間から園崎の腹に触れた。水分を伴った熱。時々触れる、弾力のある管。その感触には、花崗も覚えがあった。故に、それに触れたことを、花崗はただ航海するしかなかった。
「園崎さん、私言ったじゃない。うちの妹は他人からモノを盗むのが得意なのよって。私のお財布とか、彼氏とか、貴方の包丁とかもね、簡単に盗むわ」
明美がそうクスクスと声を殺して笑った瞬間、出航の汽笛が鳴った。船が、大きく揺れる。その揺れに押されて、美沙は上半身を大きく反らした。園崎の裾を握っていた左手開いた。花崗の胸に頭を置くと、右手に握っていた包丁を、花崗の太ももの上に落とした。刃先がバウンドして、床に落ちる。カランと音を立てる直前、包丁の刃が音も立てずに花崗のふくらはぎの上を滑った。幸いにして、ズボンの表面を一文字に切るだけで、そこから花崗の肉や血液が見えることは無かった。
ただ、園崎はその場で、声を上げることもなく、息を止めていた。
開かれた美沙の左手から、人間の腸がだらんと落ちる。その両端は園崎の着るコートの中身に納まっていた。
船が揺れる度に、コートから漏れる園崎の小腸は、ゆらゆらと温かな船内で揺れて、乾いていった。
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