第20話

 時間を経るごとに、船内から乗客が消えていく。皆、甲板や展望エリアへと向かっているようだった。しかし、花崗達だけは、その席から身体を起こすことも叶わなかった。ロープで縛り付けられたように、皆がそこでただ座っていた。船の上など慣れていないであろう美沙ですら、涼しげな顔で波と共に揺れる。青い顔の園崎の腹を、花崗はただ掴んでいた。

 船体の揺れから逃げるようにして、花崗は震える園崎の隣に席を移した。そんな彼を見つめる美沙の瞳は、変わらず冷ややかだった。何処か侮蔑を含んだその視線を重ねて、花崗は唇を噛んでいた前歯を開いた。

「美沙さん、その包丁を置いてください。危ないですから」

 囁く花崗を見上げて、美沙はその刃先を花崗の脇腹に置いた。花崗に、痛みは感じられなかった。しかし、今、船体が激しく横揺れでも起こそうものなら、己の腸が床に落ちていくだろうことは察せられた。

「美沙さん」

 懇願するように声を上ずる花崗は、美沙の目を見る。だが、彼女は花崗に一つの興味も無いようだった。彼女は目を見開く花崗から視線を逸らした。ブレない手首をそのままに、顔だけを一人の女に向けていた。

「お姉ちゃん」

 美沙は明美をそう呼んで、空いた彼女の隣に腰を落とした。花崗が放り出した、自らの父母の骨を、包んだ箱ごと掴み取る。そこに動く心は無いらしい。彼女はカラカラと鳴る箱の中身に耳を当てると、「中身は減っていないのね」と呟いた。

「お姉ちゃんなら、二人の骨を食べるくらいはすると思ってたのに」

 淡々とそう言って、美沙は箱を明美の膝に置いた。

「返してくれるの?」

 明美はそう笑って、妹の艶やかな髪に指を差し込んだ。美沙は舌打ちを鳴らしながら、姉の指を払い除けた。

「こんなの、好きにすれば良い。海に沈めるんでしょ。良いじゃない。墓仕舞いをする手間が省ける。それに、今までずっと海の中にいたんだから、その海の場所が変わるだけ」

 酷く淡々とした言葉で、彼女は言う。その態度は何処か南雲を彷彿とさせた。意図した無礼は、一種の可愛らしさすら垣間見せる。そんな美沙の頬に、明美は薄い掌を叩きつけた。

「海じゃないよ」

 歯を食いしばる美沙に、明美はそう微笑んで見せた。困ったように眉を下げて、美沙の前髪を掴む。そうしてまた掌を左右交互に叩きつけていく。

「ここは海じゃない。湖」

 何度も言っているじゃない。と、明美は溜息を吐いた。徐々に、明美の肩が上下していく。フッと息を吐いては、スッと音を立てて息を吸う。遠野明美から冷気が失われていく。温度が、上がっていく。それは暖房のたかれた船内空間の熱気ではない。明美の内から滲む異質な怒りと高揚だった。

「お母さんのお腹の中みたいな、優しい湖よ。だから、父さんも母さんも、

 そう言って、明美は美沙の頭を床に叩きつけた。美沙の小さな頭蓋が、バウンドする。咄嗟に、花崗は園崎から手を離した。蹲る園崎を背に、花崗は震える手で美沙の頭を抱える。花崗の手に、温かな体液が漏れる。それが血液であるという証拠は、心拍によって勢いが変わる熱の動きだけだった。漂う鉄錆の匂いは、園崎の腹から漏れているそれと混ざって、わからなかった。

「園崎さんも見たもんね! 死んだ人が、骨だった人が、赤ちゃんになって戻ってきて、人魚になって、産まれ直すの!」

 狼狽える花崗を置いて、明美は再びくるくるとその場で回った。楽しげな彼女の足下が、濡れていた。血液ではない。その水溜まりが羊水と言われる液体で出来ているのだということは、花崗も理解出来た。

「貴方たちだって見ているはずよ。網走監獄の囚人の人だったかな。あの人、何度も産まれ直しているの。何度死んでも同じ姿、同じヒトとして、いつも早苗さんを探しているわ。記憶も全部死んだときのまま戻ってきてくれる証左よ」

 ね。と、明美は園崎の顔を見た。青白かった顔は、既にただ白いだけになっていた。あれだけ出ていた汗ももう乾いている。冷えた頭で、彼女はうつらうつらと眠たそうに頭を上下させていた。

「お母さん達が戻ってきたら、きっと驚くでしょうね。私がこんなに大きくなって、孫まで出来ているんだもの」

 最早、死んでいないだけの園崎を抱きしめて、明美はそう穏やかに言った。ぼんやりとした視界を瞳にうつす園崎の目は、ガラス玉のようだった。明美の肩に置かれた顔が、花崗に向いていた。彼女は一瞬、花崗と目を合わせると、フッと小さく笑った。そうして、上下していた肩の動きが止まると、園崎は腹を抑えていた手を、だらりと明美の膝に落とした。彼女の白い指と、ピンク色の腸が、同じリズムで揺れていた。

 そんな園崎を、明美はそのまま抱き上げる。

 ずるずる、ずる。と、園崎の足が濡れた床を滑る。羊水と血液を潤滑液に、明美は鼻歌交じりで園崎の身体を扉まで運んだ。

 彼女が何をしようとしているのか。それくらいは花崗でも直感的に理解出来ていた。彼が床に伏していた膝を持ち上げると、同時に、美沙もまた立ち上がっていた。ふらつく頭を抑えて、座席伝いに明美へと迫る。彼女は手に何も持つことなく、淡々と明美を追いかけた。

「大丈夫だよ、手伝わなくても」

 的外れな言葉を置いて、明美は美沙の手を払い除けた。扉を押し開けて、明美はくるりと二人に背を向けた。

 彼女が見ていたのは、白い海だった。白く冷たい空気が船内に入り込む。流氷をカメラに収めようと、スマホを海に向ける人々は、明美のことなど見ていなかった。そんな観光客たちを掻き分けて、明美は園崎の身体を柵に引っかけた。そこでようやく、周囲も明美に目を向けた。明美は彼らの視線を気に留めることもなく、園崎の足を掴んで、そのまま、前転の要領で海に放り投げた。

 ――――バンッと音が鳴って、ヒトの肉が、氷の上に落ちる。そして、ずるりとその白い隙間に飲まれていった。その光景を、人々は皆、呆けたままカメラに収めていた。

 数秒して、ようやく、狼狽える微かな声が聞こえた。誰か、恐らくは、老婦人と思わしき女が、その場から声を上げて逃げ出した。それが、合図だった。

 悲鳴。それは男女混ざった歪な音を奏でていた。女達の裂くような高温でもなければ、男達の低く混乱を呼ぶ揺れでもない。混ざりに混ざった叫声の中に、花崗はただ立っていた。


 ふと、その中に、「歓声」と呼べるモノがあると気付いたのは、数秒経ってからのことだった。


 女性達の中に、逃げ惑うこともなく、ただ立っているだけの者がいた。彼女達は、恍惚とした表情を浮かべると、小さく口を動かしていた。

「良かったね」

 先んじてそう声を上げたのは、明美だった。彼女は己の腹を撫でると、また「良かった」と微笑んだ。彼女の視線は、ずっと、海の奥に向かっていた。

「良かった」

 明美以外の、声が聞こえた。それは、見知らぬ女の声だった。

「良かった」

「良かった」

「良かった」「良かった」

「良かった」「良かった」「良かった」

「良かった」「良かった」「良かった」「良かっ」

 次々と浮いては沈んでいくその賞賛に、花崗は息を飲んだ。明美と同じ表情を浮かべた女達は共に、海へと沈んでいく園崎の手へ、笑顔を送る。合唱にも聞こえる女達の声が、脳に響いた。

 花崗の頭に、助走をつけた現実感が迫る。頭痛と共に、吐き気と共に、それは花崗の意識の上を通り過ぎていく。

「良かった」

 その言葉が、耳の右から左へ流れていく。音という波と、船を覆う波の両方が、脳髄を泡立たせた。

 次第に、声が大きくなっていく。彼女らが声を上げ始めたわけではない。ぽつり、ぽつりと、ヒトが増えていく。少女から老婆まで、女と呼ばれる者達が、その場に集まっていた。

 彼女達は、明美を中心に、流氷に向かって手を合わせていた。縋るようにして、明美の膨れた腹を撫でるのは、老婆ばかりだった。乱杭歯の口を開いて、老婆達は笑う。その細く枯れた身体に、明美から流れる羊水を擦りつけていく。明美を追って、女達の中にいた花崗と美沙の二人は、その場から動くことも出来ずに居た。二人は、明美の恍惚とした表情から目を背くことも出来ずに、ただジッと明美と女達の感嘆に耳を塞いでいた。

 流氷の軋む音と、エンジンの音が混ざって、脳を刻む。花崗はただ、歯を食いしばっていた。

 数秒が、数分、数時間に感じられつつある頃、花崗と美沙は、二人で床に頭を伏していた。視界も聴覚も、ただ吐き気と頭痛を催すためだけの器官と化していた。故に二人は、出来るだけその視界を減らすために、ただ床を見ていた。

 振動する眼球の中で、花崗は短く息を吸った。深く空気を吸えば、肺が腐る気がした。目の前にいる女達の吐いた息を共有することなど、受け入れることが出来なかった。多大な拒絶感の中で、花崗はウッと声を上げようとしていた。

 そんな彼の声と共に、カツンと、軽快な足音が聞こえた。床に当てていた額が、その振動を聞く。骨伝導の先に、その黒いブーツは存在していた。花崗は、静かに上半身を持ち上げた。船の柵に群がる女達を目の前にして、花崗はただ一点を見ていた。

 湧き上がる理不尽な怒りを押し込んで、花崗は耳を手で塞いだ。彼の視線の先には、悪戯に笑って、人差し指を己の唇に当てる男がいた。彼は片腕を頭上に掲げると、パッと口を開いて笑った。

 ――――その直後、乾いた轟音が海上に響く。周囲を飛び回っていたカモメたちが、一斉に消えていく。その場に居る全員が、その音へ目を向けた。

「何だ、やっぱりちゃんと正気じゃねえか」

 男――――畠山史化は、そう言って、女達を見て笑った。困惑を伴いながらも彼を睨みつける女達は、明美の盾になるように、その身を前に出していた。

「気を違えたフリをするのはもうやめにしないか? そんなことをしたって、お前達を受け入れる人間が減っていくだけだ」

 ケラケラと笑いながら、史化は肩をすくめる。彼の言葉の意味を、花崗には理解することが出来なかった。しかし、今はただ、何もかもを見透かしたような目で拳銃を振り回す彼の言葉を聞くしかなかった。

「まあ良いさ、俺が話したいのはお前らじゃねえし」

 史化が一歩前に出る度、女達の海が割れた。彼が手遊びする度、拳銃がカチャカチャと音を立てる。その音に合わせて、先程まで喜びに震えていた女達が、肩を振るわせた。

「いるんだろ、女王さま。話をしよう。何、悪いようにはしない」

 そう言って、史化は明美の前に立った。明美は柵に腰を押しつけると、史化を見上げた。周囲の女達とは異なり、彼女だけが表情を落として史化を見ていた。冷えた表情を見て、花崗はようやく彼女と美沙が姉妹であるという実感を飲み込んだ。

 そんな明美を、史化は嘲笑を込めた鼻で笑った。拳銃の銃口を明美の腹に置く。明美は静かに、史化を睨み上げた。

「それ、エアガンでしょ。BB弾撃つやつ」

 明美は薄ら笑いを口元に置いて、そう呟いた。明美の言う通り、史化の手にあるそれは、素人目には一見して本物と見分けの付け方がわからないものの、銃口は弾丸が出るよりも細く、殺傷力があるとは思えなかった。

「本物貸してもらおうとしたんだけど怒られてね。まあ、エアガンだって至近距離でぶっ放せば滅茶苦茶痛いよ。本物は比じゃねえし、包丁でぶっさされる方が痛いけどさ」

 史化はそう言って、明美と同じ笑みを浮かべた。ワンテンポ置いて、彼は皮肉るように犬歯を剥いた。笑みというよりも、犬の威嚇に近いそれを見て、明美はただ静かに彼を見ていた。

「胎児の柔らかい頭くらいは凹ませられる。それだけは確実。試したことがあるからな」

 無表情に己を見上げる明美に、史化はそう耳打ちした。漏れた言葉に反応して、女達がざわめく。彼女達は、一転して史化の手指に対する恐怖を放り投げて、彼の周囲へ立った。一人の少女が、明美と花崗の間に立つ。それを皮切りに、他の少女達も、その細い身体を明美に寄せる。エアガンの銃口を額に当てる。それはまるで、命を賭して女王バチを守る兵隊ハチの行動と似ていた。

「お互いに大人しくテーブルについている間は、特に何をするって事もないさ。意味がないからな」

 そんな少女達を嘲笑うかのようにして、花崗は、銃口の当たった頭を指先で撫でた。

「つまり、意味があれば、何だってしていい。

 そう言って、史化は少女の額に掌の底を叩き込んだ。

 ゴッと重い肉と骨のぶつかる音が響く。躊躇なく少女達の顔面を殴りつけては、柵に叩きつけ、足を払う。明美に縋る老婆を掴んでは放り投げる。

 人道とはかけ離れた一人の暴力の嵐に、誰もなす術がなかった。ただ唯一彼を止められるであろう花崗もまた、彼の淡々とした『作業』に、口を閉じて時間が過ぎるのを待つしかなかった。

「まだ俺達とアンタらには交渉の余地がある。狭い船の上だ。俺だって女子供と観光客を巻き込みたくはねえよ。暴力より会話で解決を模索する方が賢明だと思うぜ」

 迫る女達の全ての顔を蹴り上げると、史化は怯える一部の女達を眺めてそう笑った。彼は立ちすくむ明美の隣に陣取ると、口笛を吹いていた。リズムも、音程も外れているそれを目指して、再び一つの足音が迫る。史化のそれとはまた異なるリズム。ゆっくりと、片足を引き摺りながらこちらへと向かう音。それは、逃げ出した観光客達の固まった、甲板の方から聞こえていた。

 その足音を迎えるようにして、史化は軽やかに甲板へと向かった。その手に、明美の腕を掴む。引き摺られながら、明美は史化と共に甲板へ向かった。そんな二人を追って、美沙が駆け出す。花崗は最後になって、ようやく三人の背を追った。

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