第21話

 甲板の上で、白い息が、一つ伸びる。火気厳禁のポスターの前で、史化は紫煙を揺らしていた。海風を浴びて、彼は静かにそこに立っていた。彼を見つめる無数の女達の目には、怯えと怒りがあった。だが、史化は刺すような視線も無視して、首を傾げた。

「さて」

 煙を口の中で転がして、史化はそう声を上げた。彼は掴んでいた明美の腕を、甲板の上に叩きつける。重力に伏した明美の頭を眺める。そうして史化は、周囲の女達に目を戻した。彼女達は、史化から距離を取って動かない。だが、史化がその手を動かす度、女達はどよめいていた。

「あのさあ、そんなにコイツが大事なら、脈絡のない絶対的な暴力にも耐えられる奴を傍に置いておくべきだったろ。それとも何かい? 俺みたいな女子供を躊躇なく殴れるクズがいることを予想もしていなかったかい? 女子供はむやみやたらに殴られたり蹴られたりしないなんて、お優しいフィクションに毒され過ぎちゃいないか?」

 なあ。

 そう呟いて、史化は肩をすくめた。彼は視界の外で這う明美の背を踏みつけた。爪先で彼女の身体を自らの足下に戻すと、史化は悪戯に笑った。

「それとも、ヒトが作った法の下の平等とか社会倫理とかいう思想に浸って、ヒトがホモ・サピエンスという種名の、ただの動物であることを忘れたか?」

 史化はそう言って、首を傾けた。その蒼黒い瞳で、女達の波を睨む。彼は再び「それとも」と重ねた。言葉を乗せる口元には、色艶が伴っていた。

「かつて神のように崇められた栄光で、胡座をかいたか?」

 その色艶を吐き消すようにして、彼は歪んだ瞼から殺意にも似た視線を放った。彼の目は、ただ一点を見ていた。数ある女達の中から、一人を見ていた。眼球を動かすこともなく、史化はフッと小さく息を吐いた。

「オホーツク海に遺骸を沈めれば、アザラシの胎から産まれ直して戻ってくる。記憶も全て元通りの、本人が戻ってくる。成程、確かに神の所業だ。素晴らしいね」

 甲板に、拍手が響く。そこには感情が無かった。あるのは悪意に満ちた皮肉だけだった。十数回の拍手を置いた時、史化の顔から表情が抜けた。甲板の上に転がった彼の仮面は、誰も手にすることはなかった。全員が、彼の言葉に耳と目を奪われていた。

「けどな、子を産み世代交代をしようという時点で、お前らはただの動物だ。真社会性を持ち、半倍数性の遺伝様式で増えるハチやアリのような海棲動物。しかも、カッコウのように托卵ならぬ托仔たくじを行う世にも珍しい海棲動物だ。加えて、カッコウ同様、托仔先の幼体と、己の仔の形を似せる周到さすら持っている」

 図鑑の説明文でも読むような抑揚で、史化は言う。彼は再び周囲に目を向けた。ぐるりと一周、視線を回す。そして最後に彼が見たのは、明美の足と足の間だった。

「その托仔という生態で世代を重ねていった結果……お前達はとうとう『擬態』まで辿り着いた。『戻ってくる死者』と『顔の溶けた死体』の正体がこれだ。後者は、擬態先の記憶すら模倣する完璧すぎる擬態の弊害。そのせいで自ら『毒』を飲む個体が出た」

 足先を、明美の腹に乗せる。体重は乗っていない。ピンと立った片足で、史化は自身の身体を支えていた。明美の腹の表面に靴底が触れる。そんな一本足で立ち続ける史化の背に、花崗はずっと視線を刺していた。彼を明美から引き剥がす方法を、ずっと模索し続けていた。だが、時折こちらを見てはほくそ笑む史化の背を襲う方法など、花崗には思いつかなかった。彼はただ、史化の演説が終わるのを、人形のように動かない美沙と共に観ているしかなかった。

「新しい人間よりも、誰かがいなくなった空席を食い荒らす方が、なるほど効率が良い。今の今まで生き残ってこれたのも、納得がいく。人間を利用して繁栄する生物など世界中にいるんだ。お前らみたいにヒトの姿を取れるなら、混ざって生きる方がよっぽど種の繁栄には効率的だ」

 そう語る史化の顔は、再び少年のそれに戻っていた。

「それも、死んだ人間を蘇らせると謳っておけば、自分達が身を置く空席を持っていて、自分達を守ってくれる……そんな都合の良い人間も集められる。自分達がヒトを生き返らせる奇跡を持つ神だとか、神の使いだとか言っておけば、地位は安泰だ。よく考えたもんだね」

 ケラケラと声を立てて史化は笑う。彼は短くなった煙草を明美の前に投げ捨てると、浮かせていた足をその上に置いた。甲板に擦りつけた吸い殻は、じりじりと音を立てていた。

「でもさあ、海の上を歩くくらいしてから神を名乗れよ。どっかのペテロさんは海の上を歩いても、どえらい神様を信じただけだって言ってるらしいぜ。殊勝なこったね」

 そう鼻を鳴らす史化は、再びまた一点に目を据えた。

「真水を飲んだくらいで溶けて死ぬ逆ナメクジどもには理解出来ないか、こんなこと」

 そう言って、史化は一度目を瞑った。その瞬間、史化に牙を剥いた女達がいた。困惑を見せる女達の中に、数名、明らかな敵意の表情があった。

「今ぶち切れた奴ら、人魚だろ。隠しきれてねえぞ。数は五人くらいか?」

 一転して、史化はそう笑った。瞼の隙間から、彼はジッとその五人を見る。彼の視線に気付いた女達は、その五人から、サッと身を避けた。顔を赤くして史化を睨むその『人魚』達は、周囲の女達の困惑には目もくれず、唇を引き攣らせて笑う史化に、ギリギリと歯を鳴らして怒りを露わにする。史化はそれをまた鼻で笑うと、今度は右斜め横の空中へ視線を送った。

「他のお嬢さん方に言っておくけどなあ、今動揺した五人は人間じゃねえぞ。真水も飲めない化け物だ。最初からお前の胎を利用するつもりでお前らに声をかけた人魚だよ。胎が適合しなかったお前らのことなんか、集団を維持するための資金源くらいにしか思ってない。お前らが愛した家族、友人、恋人が蘇った時、そいつらはお前らの喜びを嘲笑いながら、種の繁栄に歓喜していたんだ。そいつらは、お前らが失った人間の地位が欲しかっただけだ。お前らが生き返らせたいと願った人間の、その人生を食い潰そうとしている怪物だ」

 ゆっくりと、息を吸う。口を閉じた史化に、反論を置く者はいなかった。彼が作った語りの隙間に、誰も声を上げることが出来なかった。女達は、誰もが史化の次の言葉を待っていた。

 顔を赤くしていた一人の人魚が、口を開こうとした。その顔に、花崗は見覚えがあった。警察署で花崗を怒鳴りつけていた、あの女刑事。その彼女は、血の上った顔で、一歩、群衆の中から出る。その足が史化へ向かった瞬間、彼はフッとまた小さく笑った。

「それと、これは俺の推測だが……お嬢さん方の中には、自ら海に沈んでいった奴もいるんじゃないか? 巫女になるとかなんとか持ち上げられて」

 史化がそう言った途端、女刑事の足が止まった。赤くなっていた顔が、一気に冷めていく。青く染まった表情を貼り付けて、彼女は「待て」と確かに呟いた。

「良いかい、お嬢さん方。そいつらは自分達が増えることしか考えていない。海の底に沈んでいったお友達はみんなきっちりしっかり死んでいる」

 その場に居る全員の視線が、女刑事に向いた。彼女は震えたまま首を横に振った。

「酷いもんだぜ、溺死ってなあよ。プールで鼻に水が入る時の痛みなんか、可愛いもんさ。肺胞の一つ一つに水が入り込む痛み。肺に水が入っても体内の酸素が消費されるまで、意識は続く。息をしようと横隔膜が動くが入ってくるのは水ばかり。中途半端に残った意識で、もがき続ける四肢。沈んでいく程に、冷たい水に全身を潰されていく。筋繊維がぶちぶち切れる音が、骨伝導で頭の中に響く。意識を失う直前になって、誰も手を握ってもくれない孤独感とこれから死ぬんだって絶望で、心臓に鳥肌が立つ。泣きたくても水圧で何もかもが身体の中に押し込まれて、何も残せないまま海の底で、奥歯で砂を噛み、ようやく死ぬ」

 そう語る史化の表情には、一種の哀愁があった。僅かに震える唇を噛んで、史化は頭を掻き毟る。そうして、表情を虚無に塗り替えると、また口を開いた。

「そして、もう生き返らない。ヒトは死んだら生き返らない。海から戻ったお友達は、そのお友達を殺した怪物どもの妹だ。お嬢さん方がよりどころにしていたそれは、宗教ですらないんだ」

 静まりかえった海の上では、ただ船のエンジン音だけが響く。

 時間だけが過ぎる。だが、時間はその場に居る全員に対して平等だった。平等に、思考する時間を与えた。一人、また一人と、少女が、老女が、主婦が、五人の人魚達から離れていく。その表情は、当初浮かべていた史化への敵意や、集団の中にまどろむ満ち足りたそれではなかった。恐怖。困惑。怒り。冷え切った精神が、震える人魚達に向けられていた。

 その思考時間は、明美にも与えられていた。彼女は自分を足蹴にする史化を見つめていた。彼のズボンの裾を掴む。彼女の割れた爪が、史化の膝に食い込んだ。

「何だよ、汚ねえな」

 史化はそう笑って、明美の手を蹴り飛ばした。力無くその腕を床にバウンドさせた彼女は、何も言わずに一滴、涙を頬から落とした。彼女の見開いた目は、ただ天を向いていた。

 そんな史化の呟きを合図に、一人の少女が甲板から走り出した。彼女が駆けだした先には、甲板を震えながら眺める観光客達の姿があった。少女はそのうちの一人に、腕を伸ばした。それは、船内で明美に席を譲ったあの老婦人だった。彼女は縋る少女の身体をはじき返すと、床に伏す彼女を怯えた表情で見下した。婦人の身体を、老夫が抱き込んで、群衆の中に押し込む。

 少女を見る人々の目は、困惑と敵意に満ちていた。

 しかし、そんな群衆の目を見ても、一人、また一人と女達は観光客の方へと走り出した。一人が甲板の上で滑り転ぶ。上がった声に反応して、女達の足が加速する。迫り来る女達が、美沙を撥ねた。崩れる美沙の身体を抱き留めたのは、花崗だった。彼は周りの見えない女達の膝や腕から、美沙をかばうようにして、彼女の上に覆い被さっていた。

「待って!」

 逃げる女達に、女刑事が声を上げた。彼女は目尻を下げて、口角を上げた。それが精一杯の笑みだということは、震える声でわかった。

「私たちが人間じゃなくたって、蘇った人たちが私たちの妹だったとして、何が不満なの? 姿も記憶も死んだときのまま、そこから人生を再開させるの! 違うのは遺伝子だけ! 顔も声も思い出も全部同じ! それはもう本人でしょ? 貴女達の大切な人はちゃんと蘇るの! 大丈夫! 神様はちゃんといるから!」

 傍を通った少女を引き掴んで、彼女はそう笑う。彼女の腕の中で、少女はただ首を振っていた。青冷めた顔を何度も左右に振る。息もまともに出来ないまま、彼女は口をパクパクと動かしていた。

「そうだね」

 ふと、史化がそう答えた。あっけらかんとした、何の感情もない声だった。彼はいつも通りの薄ら笑いを浮かべると、明美を跨いだ。そうして一歩、前に出る。再び煙草に火を点けた。

「神はいるよ。だから記憶の模倣なんて生物における擬態を越えたことが起きるんだ」

 煙と共に、史化はそう吐いた。彼の態度は一転して、軽かった。

「と言っても、こいつらのことじゃなくて、

 史化の指先が、船の進行方向へと向けられる。流氷の軋む海の中を指して、彼は深々と息を吸った。

「アレはそういう生き物だけど、ちゃんと『神』という名前の生き物だよ。しっかり人智を超えている。人間がどう足掻こうが、起きれば手が付けられない」

 淡々と語る彼は、嘲笑を込めた頬を歪めた。

「故にかつてこの海に住む人類は――――オホーツク人は、お前達と契約したんだ。お前達に胎と姿を貸す代わりに、あの鹿をあやし続けてもらうという契約を」

 史化の言葉に、その場の全員が耳を傾けていた。正しく、その場を支配しているのは、誰でもない史化だった。

「契約書を持たなくとも、その契約は儀式としてトビニタイ文化、アイヌ文化へ続いた。お前達はそうやって、長年人類と共生関係にあったんだ」

 だが。そう置いて、史化は人差し指を天に掲げた。彼は咥えた煙草を揺らして、首をゆっくりと、横に振った。

「そのうちに、ホモ・サピエンスはお前達と神の名を忘れた。次第に手段は目的を違え始めた。信仰とはそういうものだ。書面を交わしても契約とは忘却されていく。それこそ石に刻んだって、忘れられる時は忘れられるもんだよ」

 気怠そうな表情で、史化は人魚達を見下していた。ほくそ笑む表情は、彼女達を罵った時と同じだった。だが、それに怒りを表す者は、何処にもいなかった。

「そしてお前達もまた、怠惰になった。故に、の頭を突くなんて暴挙を許したんだ」

 ぎい、ぎい、ぎい。と、流氷同士が擦り合う音が響いた。

 ふと、その音の中に、花崗は覚えのある音を聞く。甲高い子供の声。響く赤子の泣き声。夢で聞いたそれとそっくりな声が、海から漏れていた。流氷の隙間から、母を求める赤子が見えたような気がした。

「やらかしたなあ。アレが目覚めれば、人間はおろかお前達も滅ぶ。急いでいるのはそのせいだろう? 目を覚ましちまった赤ん坊を寝かしつけるために、子守歌が必要なのに、歌う奴らが圧倒的に足りない。揺り籠を揺らす手が足りない。生き残った群れは一つだけ。この網走の群れだけだ」

 フッと小さく、史化は息を吐いた。煙草を咥えた唇の隙間から、煙が漏れる。彼はくるりと身を翻すと、甲板の先に立った。

「群れを殖やそうにも、女王を産み付けられる王台の血筋も、既にこの網走からは途絶えている。あの家に唯一残った『男』だ。他の地域に散った親類縁者に娘を産ませようにも、時間がない」

 史化はそう言って、甲板の柵に腰掛けた。揺れる船体に併せて、彼は頭を揺らす。船に乗る全ての人間を視界に入れて、彼は大きく息を吸った。

「お前達の女王は既に死にかけている。今後、数年内には息絶えるだろう。それは、女王自身がよく分かっているはずだ」

 彼は目を瞑った。次に一秒待って、瞼を開ける。視線の先に、一人の老女がいた。

 曲がった腰と皺だらけの顔。皺と皺の隙間から、鋭い眼光が、史化へと向けられていた。

 その身に纏う雰囲気は異なるものの、花崗にはその老女の姿に、覚えがあった。

「そうだろう、女王様」

 史化はその老女に微笑みかけると、鋭い犬歯を剥いた。眉尻は下がっていたが、彼は明確に、怒りのようなモノを彼女に向けていた。

「いいや、早苗かず子さんと呼ぶ方が良いかね」

 早苗。その名字を聞いて、花崗はやっと、その老女が誰であるかを思い至る。早苗邸で見た、あの早苗康順の大伯母。認知に問題を抱えていたはずの彼女は、確かな意思を持って、船の上に立っていた。

「二進も三進も行かない時にアンタらが見つけたのが、明美だった。オホーツク人からアイヌに続いた血は、東北まで南下し残っていた。東北にはアイヌ文化の痕跡が強く残っている。その中にアンタらと契約した血族が混じっていても何も不思議じゃない。故にお前達は明美の胎に次の女王を産み付けたんだ」

 そう言って、史化は明美の腕を掴む。放心した彼女の上半身を持ち上げると、その腹の表面を撫でた。そんな彼の手を払い除けるようにして、老女――――かず子もまた、明美の腹に手を置いた。明美に近づく彼女の足に、迷いはなかった。

「そこまでわかっていながら、貴方は何故、私たちを虐げることが出来るの?」

 そう言って、かず子は目を見開いた。口にしたのは、あの舌っ足らずな、意味を見いだせない単語の羅列ではなかった。

「何もしなければ赤子は目覚める。子守歌を歌う私たちが滅びるから」

 かず子の声は、老婆のそれではなかった。若く、芯の通った声。それは、何処か明美や美沙とも似ていた。ころころと鈴を鳴らすようにして、彼女は史化と目を合わせた。重たい瞼から見える瞳の色は、暗い蒼だった。

「大人しくこの娘を渡しなさい。この娘さえいれば、は要らない。交渉というなら、これで十分でしょう」

 もう一人。そう言われて、花崗は己の懐を見た。美沙はただ真っ直ぐに、史化と老女の背を見ていた。終始穏やかな彼女は、花崗のことなど気にも留めていなかった。

「本当にアンタらはそれで良いのかい?」

 睨むかず子に、史化はそう肩をすくめた。

「知ってるんだ。アンタらが致命的なミスを犯している可能性も、アンタら自身がそれを自覚してるってことも」

 子供のように悪戯に笑う彼は、舌先を出して頬を持ち上げた。彼は数秒言葉を選ぶと、納得したように一度頷いた。そうして上げた目は、花崗を見ていた。

「遠野明美の胎にいる胎児は、新女王ではない可能性がある」

 その言葉で、心臓を跳ね上げた者がいた。

 花崗は、短い息を繰り返した。

「遠野明美は花崗冬彦の子を孕んでいる。そういう可能性だよ」

 史化はそう言うと、見開いた目に、花崗を捉えた。睨んでいるわけでも、微笑んでいるわけでもない。だが花崗は、その生ぬるい視線が、一種の軽蔑であることは、理解出来ていた。

「遠野明美を最初に匿ったのはアンタらじゃない。花崗冬彦だ」

 再び静寂が流れた。花崗は、眼球を下に落とした。ずっと史化達を見ていた美沙が、花崗を見上げていた。彼女の硝子に似た瞳が、花崗の冷えた顔を映していた。眉間に皺を寄せ、眉を下げた彼は、静かに周囲を見渡した。全ての眼球が、自分へ向いている。居心地が悪かった。それは、羞恥心によるものではなかった。美沙から間近に向けられる、軽蔑が、彼の首を絞めていた。

「花崗が休学を開始した時期と、人面アザラシが解剖室で見つかった日には、三ヶ月のラグがある。人面アザラシを発見した日から三ヶ月後に花崗は半年間の休学に入った。その後、武杜先生の研究室に転籍して復帰。そういう流れだと、先生からは聞いている。三ヶ月もあれば休学の原因が人面アザラシのパニックじゃないのは明らかだ。じゃあ何のために休学したか? 自分の手元から消えた明美を追うためだ」

 自問自答を置いた彼は、また薄ら笑いを浮かべて、ワントーン明るい声を響かせた。それは、花崗に向けたものだった。

「卒業した明美の同期たちから話を聞いたよ。明美が訪ねてこなかったかって、花崗が聞いて回ってたってな。そいつらのうちの一人が、花崗と大分話し込んだらしい。会話の端々から花崗と明美が同棲していたんだろうと察してたぜ」

 史化はそう言って、花崗と視線を重ねた。彼はフッとまた嘲笑を置くと、花崗に言った。

「妹である美沙ちゃんを訪ねなかったのは、二人の姉妹仲が劣悪なのもわかっていたからだろ。三ヶ月も明美と喋ってりゃ嫌でも美沙ちゃんの悪口聞くことになる。この女は、そういう奴だ」

 明美の肩を叩いて、史化は「な」と可愛らしく首を傾ける。その目を、彼はそのまま目の前の老女へ向けた。

「付き合ってる男と女が同じ部屋に三ヶ月もいたらどうなると思う? するよなあ、そういうことだって」

 老女の置いた手の上に、史化は手を重ねる。一瞬、明美が顔を顰めた。

「赤子が産まれるには十月十日。今から十月十日前は、明美が花崗と過ごしていた時期だ。アンタらが産み付けたのは大体九ヶ月前か? まあ新女王様が入ってる可能性の方は、ギリギリってところだな」

 そう言って、史化は明美の股下に目を向ける。僅かに漏れる血液を見て、彼は再び口を開いた。

「アンタらもその可能性には気付いてたんだろ。だから美沙ちゃんをこの網走に呼び出した」

 史化の言葉に、かず子はただ、視線を下げた。その目は唸る明美の顔に向けられていた。

「女王を産む女の条件は、おそらく女系の遺伝がデカい。多分、ミトコンドリアDNAなんかが関係しちゃうのかな。まあ、どちらにせよ明美が女王を産めるなら、姉妹である美沙ちゃんにも可能だ。だからアンタらは美沙ちゃんがここに来るよう誘導した。仲の悪い姉妹だって、親の骨を人質にされちゃ来る他ないと思ったんだろ」

 そう笑う史化の手には、いつ手に入れたのか、布で包まれたあの『箱』があった。カラカラと音を鳴らして、彼は一瞬、顔を顰めた。だが、すぐにその表情を元に戻すと、パッと一際明るく笑みを浮かべていた。

「結果として、俺も一緒にここまで来ちゃったわけだけど。つくづく運が無いねアンタら」

 ケラケラと喉を震わせて、史化は笑う。指先を唇に置くと、その指で、口角をつり上げる。そんな史化の表情を、かず子は無表情に眺めていた。

「で、だ。母系遺伝だっていうなら、アンタの胎母も、俺や明美たちの親戚なんだろう。親戚のよしみだ。今のを踏まえて、もう一度言う。俺達には交渉の余地がある」

 諦めたかのように、史化は溜息を吐いた。そうして立ち上がると、頭を掻き毟って、三本目の煙草に火を点けた。

「アンタらは新しい女王を産む女が欲しい。俺達は出来るだけ犠牲を少なくしたいが……

 煙草の煙を、二人の女に吐きかけて、史化は表情を落とした。そんな史化を前にして、かず子は曲がった腰を持ち上げた。真っ直ぐに胸を張った彼女は、史化の顔を見上げた。

「アンタらは海の底で子守歌を囁くことが出来る。俺達は新しい女王を産む女を

 どうだ。と、史化は首を傾けた。彼の薄ら笑いの先で、かず子は眉間に皺を寄せた。彼女の表情は、拒否感を出し切っていた。

「用意するも何も、貴方がその遠野美沙をここに置いて大人しく帰れば、私たちはまた新しく始められる。明美さんだって、次をまた産めば良い。何処に交渉の余地がある?」

 かず子の言葉に、史化は考えるような素振りで、唇を尖らせた。空中を眺めて、彼は「ふむ」と鼻を鳴らした。

「俺達ならあと十数人、アンタらに貸す胎の候補を用意できる。そして、アンタらに新しい戸籍と人権を与えることが出来る」

 ぽろりと、史化はそう呟いた。「は」と小さく問いを置いたかず子へ、史化は引き攣った笑みを返した。

「見ればわかるじゃん。遠野明美は既にボロボロになっている。これ以上の酷使はコイツの基本的人権を害する。そうなると流石に、アンタらをかばい立てることは出来ない。それに、美沙ちゃんをアンタらに貸すには、倫理的に見てあと数年は必要だし、本人が拒否するなら俺達にはアンタらを止める義務が発生する。二人はアンタらと違って戸籍の認められた

 つらつらと語る彼の口は、当初よりもずっと軽かった。まるで用意された台詞を呟くかのように、彼は演技がかった手振り身振りを添えた。

「俺達が用意できる胎も、本人の意思を尊重するものだが……金の用意はいくらかあるらしい。ちょろっと見せて貰ったけど、個人の意思を動かすには十分な金額だったぜ。流石、国庫から出てるだけあるなって感じ」

 ふむふむと一人、史化は空中に頷く。彼はかず子と、彼女の背後にある人魚達を視界に収めると、勝ち誇ったように六人を見下した。

「つまりさ、新しい共生関係を始めようと言っているんだ。

 ね。と、史化は舌先を見せる。彼の悪戯な表情に、誰もが困惑していた。

「貴方」

 その最前列で、かず子は史化を見上げた。自らを見下ろす彼の視線と、困惑を重ねた。

「貴方達は一体――――」

 かず子の問いは、響く汽笛に遮られる。その汽笛は、彼女らの乗る観光船のものではなかった。ゴリゴリと音を立てて、その『船』は流氷を掻き分けた。

「海上において――――人命及び財産を保護し、並びに法律の違反を予防し、捜査し、及び鎮圧するために置かれる組織。その中でも、現代科学の範疇を超えた脅威の廃絶、及び共生を図るもの」

 史化の背に、一隻の船が近づく。漂う氷を割り、進み続けるその船体には、『PM15』と大きく書かれていた。揺れる船上で、史化はフッと小さく笑った。そこには確かに、嘲笑があった。だがその嘲りは、その場に居る誰でもない、史化自身に向けられていた。

「海上保安庁外局『書庫番』。それが俺のの名前だ」

 首に、手を置く。己の頸動脈を摩るようにして、史化はコロコロと鈴を鳴らすような声で笑った。それが彼の本心からの笑い声であることを、花崗はようやく理解した。

「交渉のテーブルに着かせるまでが、俺のお仕事だ。エスコートくらいはしてやるよ、女王様」

 茶色くくすんだ船体を背にして、史化はかず子に手を差し伸べた。そんな史化の手の上に、かず子はその枯れた指を置いた。

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