抱仔の湖

棺之夜幟

プロローグ

 床一面に広がっていく血液を、水で洗い流す。それが、海生哺乳類研究室の大学三年生――――花崗みかげ冬彦ふゆひこが受け持つ仕事だった。

 解剖室の半面に並べられた十数匹のアザラシを見て、彼は小さく息を吐いた。それが溜息の類であることは、誰が見ても明らかだった。疲労困憊。そんな言葉が似合う靄のかかった頭を揺らして、花崗は蛇口に手をかけた。彼の視線の先では、腹の裂かれたアザラシが蠢いていた。その蠢く体を囲む女学生達の中には、口を押さえて部屋を出るものもいた。そのうちの一人が走り出た後、廊下から胃液の匂いが僅かに流れた。それが一種の香水のように感じられたのは、目の前に広がる臓物とその中身が放つ異臭が、部屋を蹂躙していたからだった。腐った鯖やイワシを人間の吐瀉物で長時間煮込んだような臭気は、血液の持つ水っぽい鉄錆の香りを伴って、その場にいる全ての人間の胃を刺激する。

 そんな空気の中でもなお、鼻で息をする人間が、ただ二人だけいた。

「遠野、瓶」

 アザラシの中から手を引き抜いたのは、修士二年の南雲なぐも俊之としゆきであった。彼は腕一杯に引き出した臓器を一人の女に向けた。彼女は「はい」と鈴のような声を鳴らして、ホルマリンの入った瓶を開けた。大学四年の遠野とおの明美あけみは、膝を血と腸液で汚しながら、次々と瓶を開けていく。その瓶の口に、南雲は淡々と肉片とピンセットを詰め込んだ。

 端正な顔に薄ら笑いを浮かべながら、明美は瓶の中身を見つめた。悍ましいとすら感じられる臭気と血と、肉の残骸の中で、花崗には明美だけが光っているように見えた。

「花崗、次」

 花崗が意識を飛ばしていると、南雲は「早くしろ」と犬歯を向けた。言葉の足らない南雲が何を求めているのかは、花崗にはわかっていた。見学の後輩達をかき分けて、並べられたアザラシの死体を引きずる。身長一九〇センチメートルの花崗とはいえ、約九十キログラムのゴマフアザラシを一人で持ち上げることは難しかった。

 数センチ、体が動く。ずり。と、床に毛がこびりつく。

 ――――その直後、違和感に気づくことができたのは、花崗だけだった。

 咄嗟に手が動く。むず痒い手指の感覚を拭うようにして、彼はアザラシの腹を撫でた。

「どうした、花崗」

 ナイフを持って立ち上がった南雲が、そう尋ねる。その場にいる全員が花崗を見ていた。

「動いてる」

 その言葉は応答ではない。独り言に近しい、動揺から溢れた何かだった。


 こぼん、ぼ、ごりん。


 そんな音が聞こえた。否、それは音ではなかった。目の前で動くアザラシの腹が、そうやって動いて見えた。

 鼻腔を焼くようだった激臭も、怒号が飛び出しそうな南雲の渋い顔も、認識の外にあった。

 指先をアザラシの表面に置く。人差し指で、分厚い皮下脂肪を押し込んだ。


 ご、ぼん。


 指圧を跳ね返すようにして、確かにそれは動いた。

 腹の内側で、何かが動いている。それだけは事実であると、誰もが認識していた。

「どけっ、邪魔だ」

 途端、南雲が花崗を押し除ける。一瞬見えたその表情は、焦燥感で満ちていた。

「ごめん花崗くん、シャワーお湯出して!」

 同じだけの勢いで、明美が甲高い声を上げた。上級生の二人が揃って焦りを見せるのは、初めてのことだった。理解の追いつかないまま、花崗は給湯器へ手をかけた。

「そこの女の子! ゼミ室からタオルもらってきて! いっぱい! 無かったら野球部でもなんでも良いから! 早くしなさい!」

 明美の指示を聞いて、花崗はようやく何が起きているのかを理解した。古びた給湯器が冷えた水ばかり吐くのが、もどかしくて仕方が無かった。

「出るぞ、遠野、受けろ」

 淡々と、感情の無い口元で、南雲がそう呟いた。ピンク色の皮下脂肪に、ナイフを数度滑らせる。

 ぷ。

 と、音がして、透明な液体が床を舐める。乾き始めていた血液が、潤って剥がれる。その上を滑るように、「それ」は空気に触れた。


 オギャア、オギャア、オギャア。


 赤子の声がした。目一杯の息を吸って、元気良く、赤子は泣いていた。

 その泣き声に合わせて、悲鳴が響いた。おそらくは、部屋にいた見学の女学生が叫んだのだろう。しかしその声の主が、誰であるのかわかるよりも前に、甲高い悲鳴と狼狽えの合唱が始まった。

 誰かが、滑って転んだ。悲鳴が増える。新しい血が流れた。解剖室に並んだナイフで手を切ったらしい。動物園の猿山のような喧騒が、解剖室を震わせる。

 その空間をパニック状態と呼ぶのは、呆然としていた花崗にも理解できていた。目だけが動いた。湯は、腐りかけの羊水と混ざって、排水口へと流れていく。

「おい! 何だこの騒ぎは!」

 殆どの学生が廊下で詰まって動けなくなった頃、そんな怒号が響いた。サンダルのペタペタという足音と共に、学生を掻き分け現れたのは、初老の男だった。

武杜たけもり先生」

 花崗は男をそう呼んで、縋るような目を向けた。武杜はフッと息を吸って、眉間に皺を寄せた。鋭い視線は、花崗を一瞥した後、アザラシの死体の前で目を丸くする南雲と、肩を振るわせる明美を睨んだ。

「お前達、いったい何をしでかした。説明しろ」

 静かにそう問うと、一番に応答を返したのは明美だった。

「アザラシが……ゴマフアザラシが、産んだんです」

 産んだ。と、武杜は木霊を返す。意味を理解出来ていない。その意思を向けた彼の目を見上げて、明美は恍惚とした表情を浮かべた。

 

「――――人魚を、産んだんです」


 色のある声色で、彼女がそう笑った。

 理解を放棄した部屋の中で、赤子は未だ泣き叫び続けていた。アザラシの母胎から出たその赤子は、確かに人間の赤子の声で、泣いていた。

「違う……人魚なんかじゃない。こいつは」

 床の羊水の中で踊る赤子へ、南雲がそう言って手を伸ばす。その手を遮るようにして、明美は赤子を抱いた。子を慈しむ母のように、彼女はその赤子を胸に置いた。明美が立ち上がると、ずるずると音を立てて、臍の緒がアザラシの内側から伸びた。引きちぎれた臍の緒が床に落ちた時、赤子は解剖室の無機質な光に照らされた。

 明美の腕から漏れる鰭は、その場にいる全員が一度は見たことのある形をしていた。

 アザラシの胎から出で、明美が抱いたその赤子は、アザラシだった。


 しかし、その目はヒトのように、黒目を強調させる白目があった。

 しかし、その口はヒトのように、犬のような顎を持っていなかった。

 しかし、その耳はヒトのように、そら豆のような形の耳介を持っていた。


 明美の歌う子守唄が、穏やかに響いていた。


 遠野明美は、そのが泣き終えるまで、ずっと、子守唄を歌っていた。

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