第1話

 ――――一年後、北海道網走市能取湖畔。

 

 北海道網走市における二月とは、痛みの季節である。零下三十度以下の風に乗せられて、微小な氷の粒が体に叩きつける。

 そんな白い外界を、花崗はゼミ室の窓から眺めていた。ストーブの焚かれた部屋では、キーボードを打つ音が響いていた。パーテーションで区切られた一角からは、特に素早いリズムが聞こえた。放たれる機械的な音の波へ逆らうようにして、花崗は小さく息を吸った。

「暴風雪警報出てますよ。先生もそろそろ帰宅しませんか」

 花崗がそう呟くと、パーテーションの奥から「そうだな」と声が上がった。指先のリズムを止めて、濁った呻きで喉を洗う。眠たげな表情を浮かべたその男――――武杜佳純たけもりかすみは、手に持った鍵束を鳴らした。

「進んだか、データ整理」

「多少は」

「何が多少だ。どうせラジオの企画書書いてたんだろ」

 鍵の先を花崗の鼻先に向けて、武杜はそう笑った。言葉とテンポを飲み込む。花崗は苦い口角をあげた。

「すみません」

「別に謝るこたねえや。来月までにディスカッション出来れば良い。再来年の今頃までに出来上がってりゃ良いんだ、卒論ごとき」

 先程まで口を動かしていなかったせいか、堰を切ったように武杜は舌を回す。軽快な初老の男を眺めながら、花崗はまた軽い溜息を吐いた。

 その息を合図に、二人は手元に置いていたノートパソコンに目をやった。その画面には「ラジオサークル夏特番企画書」と題されたテキストファイルが映されていた。

「もう夏の企画を用意してるのか」

「はい。ラジオ局の企画会議を通して、地域の人にインタビューとかする期間もありますから、むしろ遅いくらいです」

「そうか。すると春も忙しくなるな」

 はい。と、再び花崗は応答を置いた。いつの間にか頬が緩んでいることに、彼は自分でも気づいていた。だが、その緩みに冷水をかけるようにして、武杜は眉間に皺を寄せてみせた。

「何嬉しそうにしてるんだ。お前、春から夏にかけて飼育実験あるだろ。夏休み返上がうちのやり方だって言ってんだろうが」

 その言葉で、花崗は背筋を伸ばす。そうして彼はまた「はい」と小さく頷いた。

「半年休学して、しかもまでしてるんだ、他の連中よりもやらなきゃならんことは多いんだぞ、お前。サークル活動に現を抜かしてばかりじゃ、どうしようもない。また卒業を延期したいなら、させてやらんこともないがね」

 そんな武杜の引き攣るような笑みが、花崗の喉を細めた。言い訳も出来ないまま、喉を上下する気泡が、ただ心地悪かった。

 嫌な心臓の高鳴りを抑えつけるようにして、花崗は胸に手を置いた。彼の揺れる瞳に「脅すつもりはなかったんだが」と置いて、武杜は困ったように眉を下げた。

「いや、お前がサークルにやりがいを感じているならそれは良いんだよ。よりは明らかに良い。ま、学生の本分が学問であることは肝に銘じておいてくれたら、もっと良いが」

 含んだ雑念を飲み込んで、武杜はそう呟いた。言葉のキツいこの男にも、ある程度の良心がある。それは、花崗にもわかっていた。故に、彼はまた「はい」とだけ呟いた。

「とりあえず、今日はもう帰れ。荷物をまとめたら下に学生がいないか見てきてくれ。私は上の戸締りをしておく」

 落ち着きを取り戻した花崗を見て、武杜はテーブルの上のコーヒーに口をつけた。

 そんな彼に今度は「わかりました」とだけ置いて、花崗は冷えた廊下へと足を置いた。

 能取水産研究センター。能取湖に面するこの二階建ての学術施設は、階によってその機能に差があった。先程まで花崗が過ごしていた二階は、冬季には長時間ストーブが焚かれ、学生や教職員が論文執筆などに利用している。反して、花崗が向かった一階に空調設備は一切無い。あるのは能取湖から常時十数トンの海水を汲み上げるポンプに、総水量約十トンの淡水を循環する淡水水槽。そして、それらの水槽に入れられた、生きる魚介である。

 水温十度もない海水の中で静かに鋏を動かすその小さなエビの名を、花崗はまだ覚えていない。辛うじて、自分の卒論題材であるサケ科魚類だけはある程度は判別がつくが、それ以外はとんと覚えられる気がしなかった。

「増養殖研の花崗です。もう鍵閉めますからね。誰もいませんね」

 丸く青い水槽の隙間、花崗はそう声を上げた。この飼育室で活動する学生は、研究室の異なる者でも飲みに行く程度の間柄である。空調の無い冷えた飼育室で、見知った顔が凍死したなどというニュースを聞きたくはない。ホームレスも、野良猫ですら凍って死ぬ網走であるからこそ、花崗は何度か声を上げた。

「帰りますからね」

 三度、そう口にした時だった。能取湖に繋がった裏口が閉まっていることを確認して、踵を返す。長靴の底がキュッと音を立てた。薄い鉄扉の痛いほどの冷感が、花崗の指先を麻痺させた。息をかけて解すが、神経の麻痺はすぐには戻らなかった。赤くなっていく頬を感じて、彼は再び廊下に出た。二階に繋がる階段から、コツコツと分厚い冬靴の響く足音が聞こえた。

「下も戸締まり確認しました」

 足音を見上げれば、「了解」と僅かに微笑む武杜が、階段の踊り場で佇んでいた。玄関扉に雪を叩きつける風が、扉の隙間でひゅうひゅうと音を立てていた。扉に開いた分厚い硝子窓には、ただ「白」だけが塗り込められていた。玄関の利用者名簿にペンを滑らせる。冷えた油性インクは僅かに固まって、数秒の書き損じを産んだ。指先にひっかかる紙の繊維が、苛立ちを募らせる。

 がり、がり、がり、がり。と、四回ほど透明な線を引いて、花崗は手を止めた。

 がり、がり、がり、がり。彼が手を止めても、音は止まらなかった。

 頭に浮いた疑問が、花崗の視線を動かした。左にスライドした眼球は、扉の外、白く染まった外界に向けられていた。咄嗟に、武杜の顔を見る。己の感性に疑問があった故のことだった。花崗が見た武杜の表情は、強張っていた。

 きゅーっ、きゅーっ、きゅーっ。

 ガラスを撫でる甲高い音が聞こえた。そのリズムと同じくして、視界の中にある影に気づく。上下に音を立てながら、それは五本の指をガラスに当てていた。

 花崗は息を飲み込んだ。数秒、判断能力が落ちるような感覚があった。

「入れて……」

 揺れる感覚の中で、鈴を鳴らすような声が聞こえた。

 聞き覚えがあった。ただ、その声が聞こえていることに、違和感はあった。

「入れてください……お願いします……」

 強さを増していく風吹にかき消されつつあるそれが、確かに聞こえることを、武杜と花崗は顔を見合わせて確かめた。お互いの表情で、お互いが考えていることが、なんとなくわかった。

「ヒトだ」

 そう呟いたのは、花崗だったかもしれない。彼は自然とその手を冷えた扉に向けていた。零下三十度の風に晒されて凍った金属が、花崗の指に残る僅かな水分を凍結させる。張り付くような感触を指先の熱で溶かして、鍵を開けた。


 ――――少女がいた。青白い、雪の中に溶けそうな皮膚を纏った、少女だった。

 

 花崗を見上げる少女は、一瞬だけ頬を緩めた。そこには安心感や達成感が伴っていた。それに気づいた直後、花崗は「待って」と声を上げた。押し開けた扉に寄りかかった、質量約四十キロのそれを両腕で抱える。肩を揺さぶって、花崗は少女の視線の先を探す。合わない焦点を、無理矢理にでも自分に向けさせる。だが、少女はすぐに目を瞑った。

「起きろ! しっかりしなさい!」

 花崗の腕の中で小さく息をする頬に、武杜は高らかな破裂音を立てて平手を打ち込む。朦朧としながらも呻く少女の傍、花崗はスマホに一、一、九と打ち込んだ。

「救急です! 低体温の女の子を保護して――――」

 能取湖の傍、震える花崗の声が高らかに響く。

 救急車が来たのはそれから十五分の後のことだった。

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