第2話

 病的な白。と呼ぶには暖かみを内包した、ピンク色の壁紙が、花崗の視界に一種の圧迫感を与える。カラカラと点滴と共に音を立てて通り過ぎていく入院患者が、たまに花崗と武杜の顔を覗いた。その視線を遮るように、武杜は目を瞑って廊下のソファに腰を下ろしていた。それに倣って、隣に座る花崗も瞼を閉じた。その直後、額の上から二人の名を呼ぶ声が聞こえた。

「花崗さんと武杜さんですね。お時間大丈夫ですか」

 目を開ければ、白衣を背景にして、白いネームカードが揺れていた。その白衣を見上げていち早く「はい」と呟いたのは、武杜だった。

「ええと……あの女の子についてですが、軽く凍傷が見られるものの、今は意識もはっきりしていますし、命に別状はありませんよ。お二人が発見してすぐにストーブに当ててくださったのが、功を奏しましたね」

 汗ばむほどの熱に包まれた廊下で、白衣の男はそう笑った。温厚という二文字を背負ったようなその医師は、自らの指と指を忙しなく擦り合わせていた。穏やかな表面の奥に、何か焦燥感があるのは確かだった。その感覚は、武杜と花崗の間でも共有されていた。顔を見合わして、頷く。二人の考えは一致していた。

「あの、お嬢さんの保護者とは連絡つきましたか。まだ未成年のようですが」

 先んじて武杜はそう言って首を傾げて見せた。医師の背後にある扉の向こうへ、目線を置く。吹雪の中を彷徨っていた彼女が、何かしらの事情を抱えていることは明らかだった。

「免状も要らない、ただの大学教授ですけどもね、教員という立場です。何か力になれませんかね。警察も来てくれちゃいますが、廊下で話を聞いてる限り、にっちもさっちも行っていないように見える」

 淡々とそう置いていく武杜の鋭い眼光は、柔らかな医師の頬を貫いていた。引き攣る口角を落として、溜息を吐く。医師は目線を逸らして、背後にあった扉を僅かに開けた。隙間から見えた少女の横顔は、仄かに熱を取り戻しているように見えた。彼女のピンク色の唇は、笑って語りかける看護師や女性警官を前にしても、動くことはなかった。

「どうも、家出してきた娘みたいなんですよ。身元がわかる所持品はありませんし、本人も頑なに自分の話をしたがらなくて。とりあえず、早く病院を出たいとばかりで」

「航空券は残ってませんか。着ているものからして道民じゃあないでしょう。と、なれば内地から女満別まで飛行機に乗っている筈です。航空券が無くとも、航空会社から情報を得られませんかね。女満別空港は小さな空港ですし、便数も限られていますから、監視カメラだとかで確認すればすぐに本人が乗っていた便くらいはわかるでしょう」

 武杜がそう語り終えると、医師はあんぐりを口を開けていた。どうにも感情がよく顔に出るヒトだと、花崗は静かに彼を見ていた。

「ず……随分とお詳しいんですね」

「大学なんかに勤めていると、学生の失踪を何度か経験するもので。空港やらバス会社やら、警察やら……慣れてしまっているんですよ」

 驚嘆を垂れる医師に、武杜はそう返した。フッと口先で嘲笑にも似た溜息を吹いた。口笛にも似た溜息は、珈琲の香りを纏っていた。その僅かな音と匂いに気づいたか、扉の隙間から、少女が三人を見つめた。

 少女の眉間の皺は不機嫌ともまた違う。困惑というのが正しいだろう。

 その丸い瞳に、花崗は覚えがあった。花崗は数秒、脳に血液を回した後に、少女を見つめたまま口を開いた。

「もし良ければ、僕に話をさせてくださいませんか」

 は。と小さく疑問を呈したのは、武杜だった。

「心当たりがあるんです、彼女の身元」

 一種の自信にも似た何かを顔の前に置いて、花崗は訝しげな武杜と目を合わせた。その表情を見て、武杜は「なるほど」と納得を口にした。

 行ってこい。と、声にすることもなく、武杜は花崗の前に指を置いた。その指先を少女に向ける。それに従う様子で、花崗は数歩、足を前に出した。

 蛍光灯の病的な白さに包まれた病室。白いカーテンの隙間を縫って、少女の目線に近づいていく。花崗は無言でその目線へ迫っていった。

 少女の困惑が、一転して恐れになった頃、花崗は膝を床につけた。

「こんにちは。花崗冬彦と言います。貴女は――――遠野美沙みささんですよね」

 その名を口にした瞬間、少女は丸い瞳を更に丸くした。おぼつかない唇を震わせて、彼女は「何故」と置いた。

「何故、私の名前を知っているんですか」

 恐れが、警戒に変わる。花崗は肩を縮こめて、目線を下に置いた。見知らぬ巨漢にフルネームを当てられたのだ。警戒する気持ちは、花崗にも理解は出来た。

「お姉さんの、遠野明美さんから、貴女のことを聞いたんです。去年まで、僕は遠野先輩から指導を受けていたので。中三の妹がいるって……一年経ったから、今は高校生ですか、美沙さんは」

「は、はい。今度、高校二年生になります……あの、姉の後輩っていうことは、花崗さんも、お姉ちゃんと同じアザラシの研究を?」

 少女、美沙の問いに、花崗は一度唾を飲み込んだ。眉を下げて、彼は歪に口角を上げた。

「あ、えっと……今は研究室を転籍して……魚の研究をしているんです。美味しい魚を育てる研究。だから今は、アザラシのことは何も」

 花崗が慌ただしく言葉を吐くと、美沙は「そうですか」と僅かに肩を落とした。数秒の沈黙が、ただ重かった。助け舟を欲して、花崗は眼球を横にずらした。美沙を囲っていた女性警官や看護師たちは既にいなくなっていた。

「えっと……その…………」

 身元がわかる。それだけで飛び出した花崗に、それ以上の言葉を繋ぐ思案も度量も無かった。さて、どう言えば自分はこの病室から出られるだろうか。と、数秒の沈黙を飲んだ。

「遠野美沙さんで良かったか。突然失礼するよ。私は武杜佳純と言う。花崗の指導教官……彼にとっての師匠のような人間だと思ってくれ」

 唐突に、花崗の隣でそう声が響いた。何処から持ってきたのかわからないパイプ椅子を二つ置いて、武杜は大きく溜息を吐いた。一言「座れ」と呟く武杜の指先は、彼の座る椅子の隣にあった。言われるがままに、花崗は冷えた膝を摩りながらパイプ椅子を軋ませた。

「お分かりだろうが、能取湖の研究センターで君を保護したのは私と花崗だ。だからこそ一つ、気になっていることがある。あの利発な遠野明美の妹だ。我々の問いについて予想はついているね」

 教師然とした態度で、武杜はそう首を捻った。美沙は「はい」と僅かに背を正すと、血色のついた唇を開いた。

「……私が一人で能取湖に行った理由ですね」

「それだよ。それも、君は着の身着のままといった風態だった。何か緊急性の高い問題でも抱えているんじゃないか」

 武杜の問いかけに、美沙は一度唇を真一文字に結んだ。どう表現するべきかわからない。そんな迷いがあった。

「大丈夫、言葉に出来る範囲で良いから」

 武杜と美沙の間を数センチ空けるようにして、花崗がそう口を出した。ストン、と何かが落ちるような面持ちで、美沙は僅かに笑った。

「姉が、網走に行くと言っていたんです」

 美沙はそう言って、声を落とした。彼女の目線は、一度病室の外を見た。扉の向こうにある廊下では、三人の女性警官がこちらを見ていた。

「姉というのは、遠野明美のことで良いか」

「はい。そうです」

 肯定だけを吐き落として、美沙はゆっくり沈黙を吸った。

 真っ直ぐ伸びた美沙の背筋に、花崗は息を呑んだ。吹雪の中に溶けそうだったあの少女と同一人物であるのだろうかと疑わしく感じられるほど、遠野美沙は力強さを持って口を閉じていた。

 その姿は、確かに明美と瓜二つだった。あの濁りの無い聡明さを、花崗はよく覚えていた。そんな透き通った空気感が、美沙の周りにもあった。

「それで、お姉さんから連絡があったのはいつ頃かね」

「連絡があったのではありません。実際に会ったんです。姉と。直接、姉から、網走に行くと言われたんです」

 呟く美沙に、武杜は「それで」と口を開いた。

「何処で会った。一年も失踪していたんだ。本当に遠野明美だったのか。一年もあれば人間の面影なんて変わって然るべきだ」

 頭を抱える武杜は、そうやって一瞬の睨みを挟んだ。急いているわけではない。ただ、要領を得ない美沙の言葉に、苛立ちはあった。

「…………確かに、酷くやつれていて、何だか様子はおかしく見えました。でも、姉でした」

 穏やかに、遠野明美と同じ声で、美沙は鈴を鳴らすように、喉を震わせた。小さな口から溢れる言葉を整頓して、彼女は武杜と花崗の目を見つめた。

「父と母の『骨』を欲しがる若い女なんて、姉くらいしか思いつきませんから」

 遠野美沙は、今度こそゆっくりと、静かに語り始めた。

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抱仔の湖 棺之夜幟 @yotaka_storys

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