第16話
肩に降り積もった雪が、重かった。花崗は上半身を揺らすことも無く、ただ静かに足を前に出していた。埋もれる足先をずらす。既に足先の感覚は失われていた。凍り付く顔面を袖で拭う。その度に、潰れた筈の鼻先の立体感を、手の甲に感じた。
肺を冷えた空気で満たす。史化に告げられた言葉が頭の中で木霊する度、頭を冷やすために鼻で息を吸った。叩きつける雪と氷が左耳を塞いでいく。そのおかげか、花崗の脳はすこぶる冷静であった。
彼が目指していたのは、飯田のいるラジオ局だった。普段十数分で辿り着く筈のアスファルトの上を、数十分かけてなぞる。固く閉ざされた扉の前で、花崗はスマホに表示された大量の着信通知を見た。白い息を吐いて、彼は指先をインターフォンのボタンに置いた。
軽いチャイムの音がした。花崗は二度、そのボタンを押した。二重扉の奥から、走る足音が聞こえた。暗い硝子に映る花崗の顔は、赤と白のまだらに染まっていた。そんな彼の顔を見て青ざめる飯田が、扉を押し開けた。
「花崗くん!」
勢いのまま飛び出した飯田は、花崗の肩を掴み、扉の中に押し入れた。倒れるように床に伏した花崗が見上げたのは、不安げな美沙の顔だった。
「何してたんだ! 早苗が刺されたと聞いて駆けつければ、美沙さんは君と畠山くんが逮捕されたと言うし、警察署に行けばもう釈放したと言われるし……君は血だらけだし何なんだ一体!」
薄暗い廊下、穏やかだった口を反転させて、飯田はそう吐き出した。がなる喉を抑えて咳き込むと、彼は深く息をした。肺と横隔膜を整える。飯田は一度首を横に振って、花崗の腕を引いた。
「とりあえず、傷を診よう。応急処置くらいは出来るから」
そう呟いてラジオ局の奥へと進もうとした。そんな飯田の腕を、花崗は掴み返した。
「大丈夫です、もう殆ど治っているので」
百九十センチの巨躯を持つ花崗が、細い飯田の足を止めさせることなど容易かった。彼はまだらの顔を袖で拭うと、飯田と美沙を見下ろして、短く息を吸った。
「それより、畠山先輩を探します。手伝ってください」
「畠山くん? 一緒にいたんじゃなかったのか」
廊下を迷い無く歩く花崗に、飯田は一転して困惑していた。それは美沙も同様で、二人は揃って花崗の丸まった背を見つめていた。
「美沙さんを連れて網走を出るように指示されて、アパートの前に放り投げられました。このお金で美沙さんを叔母様の下まで送り届けろと」
そう言って、花崗は黒い財布を美沙の手の中に放り投げた。恐る恐る美沙がその中身を開けると、そこには真新しいクレジットカードと、十数枚の一万円札が押し込まれていた。目を丸くする美沙を見下ろして、花崗は静かに笑った。
「でも美沙さんはもう高校生じゃないですか。僕が送る必要も無いと思うんです。申し訳ないですが、お一人で帰ってもらえませんか」
諦観を含んだ口元で、花崗はそう呟いた。彼は狭い廊下にピンク色の雪を落としていく。肌の上を溶けかけの雪が滑り落ちていく。その度に、肌で乾いた血液が、足跡の中に混じっていく。
「僕は畠山先輩を止めないと」
その宣言は、独り言に等しかった。彼の取り憑かれたように目を見開く顔を、美沙も飯田も見ることは無かった。しかし、彼の機械的な声が、彼の行く先にある虚無を示していた。
「止めないとって……花崗くん、君は畠山くんが何をしようとしているのかわかっているのかい? そうじゃないと彼がどこに居るのかもわからないだろ」
「わかりません」
飯田の問いに、花崗は食い入るようにそう放った。彼が立ち止まったのは、「ON AIR」と赤く光るスタジオの前だった。鍵のかかった部屋の中では、外の花崗たちに気付かない男女が、笑い声を上げていた。
「何をしようとしているのか、わからないから止めないといけないんです。あの人なら、何をしでかしても不思議じゃない。それこそ、明美先輩が何処に居るのかだって、多分、もう特定していて、殺しに行ったとか、そういうことも考えられちゃうんです」
花崗はそう言って、部屋のノブに手をかけた。動かないそれを握って、静止する。僅かな理性が左手を動かす。扉を引き開けようとする右腕に、爪を立てる。自分の行いがどれだけ意味の無いことなのかは、花崗自身がわかっていた。
「先輩の車両のナンバーは覚えてます。あんなオンボロワゴン、先輩くらいしか乗ってません。車の場所だけでも分かれば、あとはその周辺を探して――――」
故に、花崗はただ、その場で弁を落とした。彼の言葉に脈絡や根拠は無かった。言葉を吐く度にしぼんでいく花崗の背に、小さな手が咲いた。温かなそれは、花崗のコートをなぞって、その裾を掴んだ。
「花崗さん」
鈴を鳴らすような声で、美沙が彼の名を呼んだ。その声色に、花崗は明美を見いだした。彼女とそっくりの顔立ちをした美沙は、微笑むこともなく、人形のようにその場に立っていた。
「私、帰りませんよ、まだ。お姉ちゃんに会うまで帰るつもりは無いんです」
冷気すら感じられる彼女の表情は、何処か無感情な史化の横顔と似た雰囲気を纏っていた。真っ直ぐに花崗を見上げる瞳は、硝子珠のようだった。その氷とも異なる冷たさに、花崗は全身の力を抜いた。
「花崗さん、手伝ってくれるって言ったじゃないですか。お姉ちゃんを探すの。言い出しっぺは花崗さんですよ。だから私、貴方に付いてきたのに。史化さんじゃなくて、貴方の方に」
美沙はそう言うと、ジッとその瞳に花崗の狼狽える顔を映した。その瞳は、史化よりも黒く濁った黝い光彩を埋めていた。
先程までの高揚が嘘のように冷めていく。花崗は、短い息を口先で吸った。心臓の底が跳ね上がる。その感覚は、一年前の赤子の声を聞いたときと、そっくり同じだった。
「一回落ち着いてくれ。花崗くん、君は警察署からここまで来た経緯も、何を考えているのかも、全部説明してくれ。君、自分が血塗れだということもわかってないだろ」
花崗と美沙の間に、飯田はそう言って入り込んだ。無意識に頭を掻き毟っていた手を見て、花崗は息を吸った。飯田に拭われた不安感が、手の中に落ちていた。花崗は髪を掻上げて、鼻で笑った。
「わかってますよ。全部先輩が治してくれたので大丈夫です」
「そうじゃない。シャワーを浴びて頭を冷やしてこいって言ってるんだ。怪我が無いのはわかったから」
飯田がそう返すと、花崗はただ「はい」と置いた。
そのまま花崗は長く息を吐いた。溶けた雪で、ダウンコートの中身が水浸しになっていたのに気付いた。自宅のクローゼットを、頭の中で開いた。
そうしているうち、飯田が鼻で溜息を吐いていた。彼は花崗に鍵束を投げつけた。そのうち繭の形をした車の鍵を示して、飯田は口を開いた。
「アパート近いだろうけど、冷えるから僕の車使って。一旦帰って、また戻ってきて。その間に、まずは畠山くんのことをよく知ってそうな人、全員を呼ぶから。大学の先生とか、お友達とか……彼の向かう先がわかるかもしれないでしょ」
眉間に皺を寄せる彼の顔を見つめて、花崗は確かに「はい」と頷いて見せた。
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