芽ぐむ花にはひとつの雨を
楸
第1話
◇
「後悔していることってある?」と彼女は唐突に俺へと聞いてきた。
図書室、夕暮れ。夕暮れとは言いつつも、外の景色は灰色でしかなく、窓ガラスを打ち付けるような斜めの雨がうるさく響いているような、そんな気候。
図書室に漂う香りは、古臭く積み重なった新聞紙のように、またそれらを湿らすような空気感に絆されながら、自分の乾いた指に湿気が染み込んでいくのを感じる気がする。
俺は、本を読み進めている手を止めてみて、それから彼女の言葉を咀嚼してみる。
どうしたって、唐突過ぎる話題だ。
ここまで、特に会話はしていない。開口一番といっても間違いじゃない空気の中、彼女は唐突にそんなことを聞いてきたのだ。
だから、どのような返事をするべきか迷ってしまう。
「後悔、……後悔ねぇ」
彼女の言葉をきちんと聞いていたことを示すように、俺は間延びしながら繰り返し単語を呟いてみたけれど、頭の中に何か浮かぶものはない。
後悔がないと言えば、きっとそれは嘘になるのだろう。
後悔をしない人間なんていない。時の流れというものは、一直線に進むものである、その方向を変えることなど人にはできない。神という存在がいたとしても、なんだかんだ概念的な問題が発生する、とどこかで聞いたことがある。
そんな不可逆的でしかない人生を送る中で、後悔しない人間などいないのだろう。歩いた道を戻ることができたのならば、後悔など思うはずもないのだから。
……けれど、それをすぐに吐き出せるのかどうか、というのは別の問題でしかない。彼女の問いに答えるとしても、頭の中に思いつく後悔がないのだ。そうして思いつかないというのであれば、結局彼女の言葉に対して『ない』と返答するのが正しいのだろう。
よし、それでいこう。
「俺は──」
「私はね、あるんだよね」
「──なるほど」
一瞬、舌が絡まってしまうような感覚。割り込むように言葉を入れてきた彼女に、俺は「例えば?」と聞いてみる。それに対し、彼女は「えーと」と言いよどむようにした。
「……あんま言いたくないかな」
……それならなんでこんな話をしたんだよ。
そんなツッコミを入れたくなってしまったけれど、俺はそれを抑え込みながら、適当に、へー、とだけ返してみる。野暮な言葉で空気を濁すのは、なんとなく申し訳なさがあったから。
「ま、言いたくないなら言いたくないでいいんじゃねぇかな」
俺は彼女の言葉にそう返してから、また手元にある文庫本のページをめくろうとする。
これ以上、会話は発生しないだろう。そんな気がして、会話の終わりを知らせるように。
「後悔のない人生なんて、それこそないに決まってる」
そんな無難な言葉を吐くことにした。
◇
朝の時間は惜しいもので、天気予報を見るくらいならば、その時間を睡眠に費やしていたい。
食事をとるのも面倒くさいし、なにより起きたばかりで腹の中に物を入れるというのはなかなかの苦行である。だから、その日もいつも通りにギリギリ支度ができる時間を残して、俺は起床した。
目覚まし時計の音に慣れることはない。心地のいい睡眠を妨害するような、そんな輩に慣れ親しむことはこの先もないのだろう。その日も朝を知らせる携帯のアラームをにらめつけながら、それでも起きなければいけない自分を律して、そうして行動を開始していく。
二階にある自室から居間のほうへと降りていけば、朝食が並んでいるようなふんわりとした香りが鼻腔をくすぐる。今日の朝食はトーストだったんだろうな、とか適当な予測を立ててみてから、俺はそのまま洗面台のほうまで行って顔を洗った。少々手間のかかる工程ではあるものの、こういった身支度を欠かしては高校生活などやっていけないのだ。
顔を洗い終わって、少しだけ髪型を整えた後、俺は「おはよー」と間延びした挨拶を居間のほうにお届けしてみる。けれど、いつもであれば返ってくるはずの妹の声はなく、そこには鬱陶しそうな顔をあげて、台所からぼんやりと俺を見てくるだけの母がそこにいた。
「皐ならもう先に行ったわよ、今日は日直が、とかなんか言ってた気がするけど」
「そんな早く日直に行っても、特にやることなんてないだろうに」
知らないわよ、と母は苦笑した後、皐が食べたらしい食器を台所で洗浄する。
俺はそれを見届けながら、さっさと学生鞄を持って学校に行くことにした。
◇
「……まじかよ」
そんな記憶が放課後になって蘇ってくるのは、そこに一つの後悔や伏線などがあるからなのかもしれない。
ホームルームが終わった後、下駄箱に到着した段階で、いきなり目の前に広がっていた大雨に、これまた大きくため息をついてしまった。
天気予報は見ない。その代わりに、いつも妹である皐が、俺のお世話をするみたいに傘を持たせてくれる。俺はそれに甘えた堕落生活を送っているものだから、今日に関しては傘を持ってくることはできていなかった。
これについて文句を吐く権利はない。ちなみに文句を吐いたとしても、皐から返ってくる言葉は『もう高二なんだから自分でやってよ』というものになるのだろう。
そんな言葉を吐かれてしまえば、俺は皐に頼ることを許されなくなってしまう。それはこの上なく面倒なことでしかないから、文句は言わない。
……というわけで、目の前にあるのは大雨である。
太陽の存在を覆い隠すように、空には雲の灰色だけが映し出されており、心地よくも感じられる雨の雑音が耳に届いてくる。
こんな状況で、傘も差さずに出歩くのは、ちょっと嫌だ。
学校から家との距離はそこまで離れていないものの、それでも衣替えしたばかりの半袖ワイシャツが雨に濡れてしまう選択をしたくはない。雨によって服が肌に張り付く感覚が嫌なのだ。
それなら自ずと今は帰らず学校で過ごす、という選択肢をとるしかない。帰れないのは少し不満ではあるけれど、まあ、たまにこういう日があるのも悪くないのかもしれない。
自分を慰める言葉を整えたところで、俺は履き替えようとした外靴を下駄箱に戻していく。それからは居場所を求めるように校内を彷徨うことにした。
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