第10話
◇
俺は彼女の唐突な発言に、一瞬息を呑み込んでしまった。
『──付き合っちゃう? 私たち』
冗談のように、誤魔化すように。
そんな風に紡がれた言葉に、俺は呆然とした意識を繰り返すことしかできない。
彼女の発言が理解できなかったわけじゃない。けれど、言っている意味についてはわからなかったし、それほどまでに唐突な言葉でしかない。
俺は、返答することができないままでいる。
沈黙が肺の中を占有する。
二人きりで、浅い雨の中を佇んで過ごしている。耳の中に反響する雨音がうるさく感じてしまう。
答えは見つからない。正しい言葉を思いつかない。
情報を頭の中で精査することはできないまま、ただ呼吸が息苦しくなっていく感覚だけが、肺の中に存在する。
「──それは……」
苦し紛れに、俺は思いついた言葉を呑み込んだ。
違う、と答えたかった。違う、と答えることができれば、それでよかった。
けれど、何が違うのだろうか。
何が違っているのかを理解できていないのに、そんな言葉を紡ぐことはできない。
きちんと言葉として筋が通せないものならば、発言することはできない。
◇
俺も、彼女と同じで恋愛というものをよくわかっていない。
恋愛というものをしたことがない以上、もしくは恋心に区分されるであろう感情を認識できたかわからない以上、俺はそれを言葉にすることはできないのだ。
だが、こんな勢いだけで、その言葉の流れだけで、その場の雰囲気というだけで、恋愛の関係として付き合ってしまうのは、どこか間違っているような気がする。
何かが、違う。
それだけは心の中ではっきりしていて、それ以上の答えは生まれない。
だから、返答をすることはできないまま、ただ呼吸を繰り返す。
意識をしていない鼓動が、だんだんと早くなる感覚がする。
「付き合ったらさ、きっと恋愛とかがよくわかる気がするんだよね」
花村は、淡々と冗談を紡ぐように言葉を続ける。
「私に好きな人はいないし、彼氏もいない。翔也くんにも好きな人はいないし、彼女もいないでしょ? ほら、それだったら、付き合ったら面白いことになりそうじゃない?」
「……そんな、勢いだけで」
「でも、割とみんなそんなもんらしいよ?」
俺の言葉を呑み込みながら、彼女は言葉を返してくる。
周囲の人なんて、この際どうでもいいはずなのに、その場の空気に呑まれてしまいそうな感覚がある。
俺以外の人間がそうしているから、俺もそうするべきなのだろうか。けれど、それはただ流されるだけに過ぎないだろう。こんなことをその場の勢いで決めるだなんて、そんなの何かがおかしいに違いない。
そうだ、おかしいのだ。
どこまでも、正当性がない。
あらゆるものには流れがある。その流れというものがあって、初めて人は関係性を紡いでいくのだろう。
けれど、ここまでの流れというものは存在しないにも等しいだろう。思いついただけの言葉に便乗するのは、正しくないと感じてしまうのだ。
「どう? 高原くんもこれで彼女持ちだよ? 悪い話じゃないでしょ」
悪い話ではないのだろう。
彼女という存在がいるだけで、周囲の目は少しだけ異なってくる。
孤独に過ごしているだけの人間が、寄り添える存在がいるというだけで、人の目は変わってくる。
悪い話ではない、悪い話ではないけれど。
「……ちょっと、考えさせて」
俺は、そう返すしかなかった。
恋愛というものはわからないし、そのうえで花村が意図していることもわからない。彼女の言葉を呑み込むことはできず、けれども彼女と同じように恋愛を理解していないからこそ、彼女の提案を拒絶することができない。
どこまでも中途半端な返事だな、と思った。
そんな返事をしてしまう自分に対して、嫌気がさしていく。
答えをはっきりと明示できない。その自分の優柔不断な姿が、とても嫌で仕方がない。
他の人であれば、どのような対応をしたのだろう。どのような言葉を返したのだろう。拒絶という道を取るのだろうか、それとも肯定して付き合うことを選択するのだろうか。
そして、俺と彼女が付き合ったとして、何かが変わるのだろうか。付き合うという関係性は、そこまで深く掘り下げられるものなのだろうか。
「そっか」
花村は昇降口でした時のような義務的な笑顔でそう返してくる。
だから、思い出してしまう。
『私はただの村人Aだから』
──彼女のあの言葉。
あの時は理解ができなかった言葉、けれども引きずられてしまって仕方がない言葉。
正体が不明でしかない感情。先ほどまでは具体性のない衝動とともに抱えていたもの。
ようやく、はっきりする。
はっきりして、息を吐く。ため息のような、重たい吐息。少し世界が白くなるような感じを覚えながら、心の中で苦笑する。
俺は、彼女と同じでしかないのだ。
そんな実感を胸に抱いて、俺たちは雨の道をまっすぐ前に見定めた。
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