第5話
◇
そうして夜がやってきた。
もともと曇天だったことから、太陽が消えても大して暗さについては変わりはしない。けれど、アスファルトにたまった雨が街灯の光を乱反射させて、ちらつくような視界には少しだけ眩暈を覚えそうになった。
「そういえばさ」
そんな軽い眩暈を昇降口付近で味わっていると、下駄箱付近にある傘立てから彼女のものらしいピンクのハートが大きく描かれている傘を取り出すと、ふと思いついたように声をあげる。
「職員室で借りるっていう選択肢はなかったの?」
「職員室?」
俺は彼女の言葉の意図をとらえることができず、そのままの言葉を返してしまう。
「ほら、傘忘れた人用にいつも先生たちが配ってくれるじゃん?」
「そうなの?」
「そうだよ?」
へえ、と感心するような声音で彼女に返す。実際、知っていたのであれば、俺はそうしていただろうし、知らなかったのだからしょうがない。
「……というか、それならもっと早くに教えてくれてもよかったんじゃ?」
俺は、先ほどの彼女の提案を思い出しながら、そう呟いてみた。
◆
「一緒に帰ろっか」と花村は言った。特に意識も何もしていないような様子で、当然のように言葉を吐いていた。俺はその言葉を紡がれる前から嫌な予感をひしひしと感じていたし、実際に彼女が言葉を吐いた瞬間に、嫌な予感が現実になったなぁ、と思ってしまった。
一緒に帰る、ということは何ら珍しいことではないのだろう。そこまで関わり合いのない相手ではあるものの、たまに時間があいさえすれば、そんな人間であろうと一緒に帰ることは全然あるような気がする。だから、それ自体はいい。
問題があるとするならば、この雨である。
雨の中、俺が傘を忘れてしまっている、ということを彼女は知っており、その上で一緒に帰ろう、という言葉は、自ずと想像できることは限られてくる。
一つは、単純に彼女が傘を二つ持っている可能性。
これに関しては、まあ半々あればいいか、というくらい。折り畳み傘と、そうではない長めの傘を彼女が持ってきているという可能性がこれになるわけだが、それだったら「一緒に帰ろっか」という言葉は、どこか不安定にも感じてしまう。おそらく、それであれば『傘貸すよ』という一言で済む話であり、一緒に帰るという言葉は不必要でしかない。
そうして限られる結論としては──。
◇
「……本当にするの?」と俺は言った。
一本の傘を片手に抱えて、外で降っている雨の様子を眺める彼女の姿。俺はそれを視界に入れながら続けて言葉を放った。
「今からでも職員室に傘を借りに行ってもいいような気もするんだけど」
最後の抵抗とも言えるような一言。
彼女の手元にあるのは、傘の一本だけ。
それを踏まえたうえで、こんな雨の中で一緒に帰る方法なんて限られてしかいない。
そう、相合傘。相合傘である。
「もしかして嫌だった?」
「……そうじゃないけど」
相合傘というのは、フィクションを嗜んだ生活を送っているからこそ、どこか意識をせずにはいられない。
こういうのは、ラブコメの作品でよく見る流れのようなものだ。この姿を誰かに目撃されれば、翌日その誰かに噂を立てられるかもしれない。
別に、相合傘自体に抵抗があるわけじゃない。相合傘をするということに、そこまで意識をしているわけではなくて、単純に誰かに見られて噂になることが、なんか嫌で仕方なかった。
だから、なんとか回避をしようとしたけれど、その甲斐はなく、花村はそのまま傘を開いていく。
「それならいいじゃん。せっかくの相合傘チャンスだよ? 謳歌しなきゃじゃない?」
「……」
相合傘チャンスってなんだよ。
そんなツッコミを入れたくはなったけれど、心の中でしまって、一度呼吸を挟んでから吐くべき言葉を考えてみる。
「花村はいいの?」
「ん?」
「ほら、こういうのって噂になったり……」
周囲の人間がそこまで幼稚な性格ではないことは知っているけれど、どうしてもそこに意識を向けずにはいられない。
中学生の頃、幼馴染と一緒に帰宅をするだけでも噂を立てられたこともある。その時は俺が彼女を好きだ、とか、彼女が俺を好きだ、とか、そんな色恋沙汰に絡めた噂を流されたものだ。
高校生にもなって、そんな噂が流れるような想像をすることは難しいけれど、万が一ということもある。こういったのは人の好奇心を刺激するものだから、勝手に尾ひれがついて、学校生活を過ごしづらくする要素につながるかもしれない。
「私は別に気にしないよ。というか皆も気にしないと思うよ」
彼女は、クスっと笑いながら答えた。
「でも」と俺は更に言葉を続けようとするけれど、そこに割り込むように彼女は、大丈夫、と呟いて、ニコりと笑う。
口角が緩んでいる。
……違う、これは笑顔ではない。
彼女の口角が歪んでいる。
歪んでいるように感じるのは、義務的な笑いをそこに浮かべているからであり、そこには意識的な笑顔しか存在していない。
その笑顔には氷のように冷たいような、もしくはそこには何も感じさせないような、虚無的な何かが孕んでいる。
彼女が、そんな虚無の笑顔を浮かべていることに、俺は気づいて言葉を失った。
なぜか、彼女がそんな義務としか言えない笑顔を浮かべていることに、俺は気づいてしまった。
「──私はただの村人Aだから」
彼女は、何の気なしにそんな一言を軽く呟いた。
どこか諦めているようにも感じる一言。
やはり俺は、それ以上に言葉を呟くことはできそうもなかった。
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