第6話


 傘の中はくぐもるような空気が占有していた。もしくはそういった空気に支配されていたのかもしれない。


 俺がそう感じてしまうのは、俺と彼女の呼吸の距離感がどことなく近いから。隣で傘の中にいる彼女の息遣いに、酸素が薄くなるような錯覚を感じてしまったからだろう。


 傘の中で雨をはじく音だけが反芻する。隣にいるはずの彼女の呼吸は感じても、耳に届くことはない。ただうるさく感じる世界の騒音に、ただ呆然と俺は目の前を見つめるしかできなかった。


 流石に彼女の傘に入れてもらう手前、俺が傘を持つようにしている。できるだけ彼女に寄りかかるように、彼女が雨に濡れないように意識しながら、そうして水が滴る道を歩き通していく。衣替えをしたばかりのワイシャツが濡れるのを感じる。はみ出していることを知らせるような、そんな肩の冷たい感触が嫌に肌へと障るような、そんな感覚。


「コンビニまででいいから」


 俺は花村にそう声をかけた。


 鞄の中に必要最低限の鐘くらいは入っている。普段は一週間分の昼食代だけを持たされており、それを使うのは少しだけ申し分ないけれど、母に今日のことを離せば取り返しはつくかもしれない。もしくは天気予報くらい見なさい、とそんな声を掛けられる可能性もあるが。


「せっかくなら家まで行くよ?」


「いや、それは流石に申し訳なさすぎる」


 俺の言葉に彼女は意外そうに言葉を吐く。意外そう、というか、もとよりそのような展開であることを予期していたような、そんな言葉であった。


「花村と家が近いならまだしもね」


 花村の家がどこにあるのかなんて知らないけれど、俺はとりあえずそんな言い訳ともならない言葉を吐いて、彼女を納得させようとする。今まで歩いてきた二年間の帰り道の中で、一度も彼女のことを目撃していないのだから、おそらく俺と彼女の家は離れているだろう。


「でも、男の子のお家がどんなのかは見てみたいんだよね」


「……部屋に上がるの?」


「ノンノン」


 あはは、と笑いながら彼女は言葉を続けていく。


「どうせ家に帰っても暇だし、ちょっとした時間つぶしみたいな、そんな感じ」


「……なるほど?」


 家に帰って暇というものがあるのならば、俺はそそくさと家に帰ってしまいたいタイプではあるけれども、彼女はそうではないらしい。


 ふと、隣にいる彼女の表情を横目に見てみるけれど、花村はぼうっと前を向いている。景色を楽しむ、というわけでもなく、ただ義務的に俺へと付き添うような、それだけの雰囲気。


 そんな雰囲気に包まれている彼女に、なにか話題を提示しなければいけないのだろうか、とかそんなことを考える。


 こういった女子との時間は、同性とのやりとりよりも気を使ってしまう。異性であれ同性であれ、他人であることには違いないのに、異性であるというだけでその壁は大きく感じてしまうから、目の前に蔓延る気まずさに対して緩和を促してしまいたいような、そんな気持ち。


 けれど、吐き出せる話題なんてない。実際はアニメの話で盛り上がるのもいいだろうし、学校のことを話題にあげて楽しい会話を挟むのもいいのだろう。


 だが、どうしても先ほどの彼女の言葉が頭に引っかかってくる。


『私はただの村人Aだから』


 意味が分かるようで分からない言葉。笑顔でいて何も笑っていない義務的としか思えない笑顔。普段からそのような笑顔を晒しているから、特に違和感を覚えないはずであろう笑顔に、どこか虚無感を覚えた俺の感覚が、いつまでたっても拭えない。


 なぜ、俺はあそこで彼女の笑顔に違和感を持ったのだろう。きっと、他の誰かであれば気づかないような、そんな表情だったはずなのに、俺はどうして気づいてしまったのだろう。


 未だに疑問は闇のように晴れてはくれない。聞いても解決はしないかもしれない。聞くことなんてできないし、そうしたところで彼女の領域に触れるような言葉は、それとなく流されてしまうかもしれない。


 だったら、気にしない方がいいのだろうか。


 俺は、目の前で乱反射し続ける光の世界に視線を向けて、水溜まりを踏まないように気を付けながら歩いていった。





「高原くんって女慣れしてない?」


 あともう少しで俺の家につく頃合い、時間にして後四分もない頃合いで、彼女はふとそんな言葉を呟いてきた。


 はい? と答えそうになった。というか、衝動的に「はい?」と答えてしまっていた。意味をきちんと咀嚼する前に、反射で答えた言葉に、俺は少し自制を覚えなければな、とか、一瞬で反省を過らせていく。


「いや、相合傘って割とドキドキシチュエーションなわけじゃん? でも、そんな様子が高原くんには見えないからさ」


 ドキドキシチュエーションって自分で言うんだ、と返事をしながら、俺は言葉を続ける。


「一応というべきかはわからないけれど、花村の肩を濡らさないよう必死にはなっているよ」


「ほら、そういうところ」


 彼女はくすくすと笑いながら、少し訝るように声を出す。


「私はちょっとだけ緊張してるんだけどなぁ」


「……なんか、ごめん?」


「謝ることじゃないし、謝るなら疑問形じゃダメでしょ」


「ういっす」と適当な返事をして、それから彼女の言葉を頭の中で整理して、そのための解答を見出してみる。


「ええと、女慣れをしているわけじゃないけど、妹とか幼馴染とかと昔から遊んでたからなぁ」


「おっ。なんか面白そうな話だ」


 ニヤニヤとした表情をする彼女を横目で見て、俺は、そんなに面白い話じゃないよ、と付け加えた。


「相合傘も初めてじゃないんだ。中学のときとか、今日みたいに傘を忘れた日があってさ。そのときには幼馴染の傘に入れてもらって、そのまま帰ったことがあるから、花村がそんな雰囲気を感じたのならそのせいだろうな」


「なるほどねー」


 彼女は納得したように、そう声を出した。


「その幼馴染さんとは付き合ってるの?」


 げほ、と一瞬つっかえるような咳が出てしまったけれど、平然を取り繕うように俺は、まさか、と声を出してみる。


「そんなこと、あるわけない」


 苦笑しながら、俺は彼女の言葉にそう答える。


 俺にとっては少しだけ苦い思い出。


 心の中でため息をついて、そうして少しばかりの憂鬱に視線を泳がせてしまった。



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