第8話


 独りきりになった玄関の先で、居間から届いてくる物音を耳の中へと入れていく。なにやらニュースらしい真面目な声音が奥の方からくぐもって聞こえてくる。


 目の前の廊下の奥には、居間から届く電灯の明かりがちらついている。


 今日は、これでいいのかもしれない。


 どうでもいいことに時間を使い過ぎてしまった。雨ということを言い訳にして、本来の自分ならやらないことをたくさんしてしまったような気がする。もともと人間関係の営みが不得手だという認識のある自分にとって、先ほどまで過ごした時間は、どこか無理をしたような気もしてくる。


 このまま、自分の部屋に戻って、その勢いのまま寝床に逃げるのもいいだろう。


 背中にのしかかる重圧のようなもの、というか重力。一度横になってしまえば、途方にくれたように何度だってため息が吐けそうなくらい、不思議な疲れがたまっている。


 何かをしたようで、何もしていない。けれど、疲れという実感だけはいつまでも残り続けていて、目を閉じてしまえば、そのまま重力に身をゆだねてしまいそうな、そんな心地。


 雨に触れた手先は、どこか血の巡りが悪いように感じる。器用に扱うことのできる人差し指とは異なって、小指だけ異物のようにも感じる。思ったように動かすことはできるけれど、その感触の差異を考えるたびに、自分らしくないことをしたような気がする。


 


 ……けれども。




 俺は鞄を玄関先に放り投げて、近場にあった適当な傘を抱えていく。間接的な明かりしか届かない中、特に傘の柄を気にすることもなく、ただ勢いのままにそれを抱えて、雨が降り続く外界のほうへと飛び出していった。


 頭の中で過り続ける、彼女の表情。


 自分らしくないことをしているのは、頭の中で何度も反芻している。


 けれども、何かが足りない。


 不足している部分がある。今日だけのやりとりだとしても、その中で何かを行っていないような気がする。


 だとしたら、なんだろう。何を俺はしていないのだろう?


 疑問は浮かぶけれど、答えてくれるような意識は持っていない。自分自身で解答を探さなければいけない。


 答えは見つかるだろうか。


 どうでもいいか、そんなこと。


 俺は、一度格好つけるような思考に笑いを飛ばして、そうして世界の温度に身をゆだねていった。





 人肌を求めてしまうような、温度の世界。


 家の温度を体感したからこそ、雨が降り続けるこの世界の温度は、花村と歩いてきたときよりも冷たいような気がする。


 今もこの世界を彼女は歩き通しているのだろう。


 家の温度が恋しくなってしまうけれど、それを振り払って、俺は傘を差した。


 まだ、近くにいるかもしれない。


 そこまで時間は経っていない。ぼうっと考え続けていた時間はあるけれど、それだけで彼女との距離を離すほどでもない。彼女が足早に立ち去る可能性もあるけれど、彼女がそうするとは考えにくい。


 俺は、濡れている地面で滑らないように気を付けながら、駆け出すように早歩きで足を動かしていく。傘の内側に広がる雨音に耳を傾けながら、来た道を戻るように。


 世界は暗闇に閉ざされている。街灯の光は淡いものでしかなく、乱反射さえせずに、ぼうっと浮かび上がるだけの光玉と化しているようにも錯覚できる。


 通る道に人はいない。俺しかいない。雨の日に外に出る人間がここまで少ないことはない。けれど、事実としてその周辺を歩く人間は見つからない。


 ひどく、孤独だ。孤独感にさいなまれている。どうしてこんなことをしているのだろう、と我に返りそうになる。何かをしなければいけない、という唐突に見つけた義務感を思い出して、そんな衝動を振り払っていく。




 そして、見つける。




 ピンクのハートが大きく彩られている、彼女の傘。さっきまで俺が手に持っていた彼女の傘。可愛くない男が持つには不似合いすぎるような、そんな彩の傘。


 俺はそれを視界に入れた瞬間に、駆け出すように動き出していた足を緩めていく。靴の内側が濡れる感覚がして、少し嫌な感覚。足先の冷えを認識しながら、俺はゆっくりと彼女のほうへと近づいていく。


 なんか、ストーカーみたいで変じゃないか? そんなギャグみたいな思考が生まれるけれど、声をかけなかったらそうなるだろうし、声をかければ改善される。


「花村」


 俺は、彼女にそう声をかけた。それ以外に書ける言葉は思いつかなかった。それ以外の言葉で声をかけても、何か話を続けられるような気がしなかった。


 俺の声に、彼女は振り返った。


 えっ、と疑問符を含めたような声音。


「さっきぶりだね、……どうしたの?」


 雨音に交じりながら、彼女の声が耳に届く。


「女子一人にこんな夜道を歩かせるのには抵抗があるんだ」


 なんとなく、それらしい言い訳をそのまま言葉に並べてみて、俺は苦笑する。


 そんな言葉に、彼女も苦笑して「気にしなくてもいいのに」と返してくる。


「ま、それならご同行お願いしよっかな」


「そんな警察みたいに言うなよ」


 俺は彼女の言葉に笑みを浮かべながら返す。俺の反応に、彼女はどこか満足げに頬を緩ませていた。


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