第14話


 彼女の言葉に視線を向けた時、俺は息を呑み込んでしまった。彼女の表情に気づいてしまったとき、俺は息を呑み込むことしかできなかった。


 花村が浮かべていた表情、そして彼女がつぶやいたその言葉には、どこか氷のような鋭利さがはらんでいた。


 そこに、表情なんてなかった。


 日常に流れている一部の場面を切り取るように、彼女の表情は凍り付いてしかいなかった。


 そこには意思を介在させないように、いつも浮かべているような優しい笑顔も、知らないどこかで浮かべているかもしれない悲しみも、どこかで感じていたかもしれない憤りさえもそこにはない。


 いつか浮かべていた義務的な笑顔を思わせるような、そんな虚無的な表情。


 そこには、花村の虚無の表情があった。


 彼女の声音は乾いていた。


 乾いていたけれど、冗談で済むように口調自体は明るかった。


 けれど、俺は彼女と同類だと思っているからこそ、他人には感じ取ることができない何かを感じ取ってしまっている。


『高原くんは、本当にそう思ってるのかな』


 彼女は確かにそう言った。俺の言葉に対して絡むように、彼女は確かにそう紡いでいた。


 俺は、そんな言葉を返してきた彼女に、そんな表情に、どのような言葉を送ればいいのかわからない。どのような感情を抱けばいいのかさえ分からない。


 言葉の意味が分からないわけじゃない。意図が分からないわけでもない。彼女の問いはシンプルなものであり、それ以外の何物でもない。


 それを理解できない、とはここでは答えたくない。思いたくさえない。


 彼女の言葉を受け取ったうえで、俺は沈黙の中で答えを探し続けている。


『後悔のない人生なんて、それこそないに決まってる』


 俺は彼女にそう言った。


 だが、彼女はそれを真だとは思わなかったのだ。偽物でしかないと思ったからこそ、俺の言葉に絡みつくように、彼女なりの言葉で返してきたのだ。


 俺は、呟いた言葉に対して、責任を持つことなどできない。


 真っ当な、それでいて無難な言葉を選んだと思っている。それで状況を終わらせようとしていた。


 どこか筋が通っていないことを自覚しながら、適当に会話を流そうとした。


 後悔のない人生なんて存在しない。俺は確かにそう思っているけれど、俺はそれを踏まえたうえで後悔したことがあるのだろうか。


 本当に、後悔をしたことがあるのだろうか。





 後悔、という言葉を浮かべるたびに思い出す光景は存在する。


 けれど、取り返しがつかないからこその過去であり、それに対して後悔を抱くなんて、無駄でしかないことじゃないか。


 心に後悔を持つことなんて、そんなの、疲弊することにしか繋がらないじゃないか。


 それを抱えたところで、自分の中に得があるわけじゃない。ましてや打ち消すような損だけが生まれるだけじゃないか。


 だから、何も考えないように生活をしている。


 もう終わったことだから、と清算をしたつもりになって、後悔を抱くことなんてやめている。


 今でも、きっと行動をすれば取り返すことはできるはずなのに、それを求めないまま、俺はにして、そうして日常生活を営んでいる。


 そうすれば、俺は幸せなままで過ごすことができる。


 何にも気づかないで、日常を営むことができる。


 無駄がなく、無駄しか存在しないような、そんな人生。


 そんな人生が送れるなら、それでいいじゃないか。


 俺は、そんな開き直りに到達したのだ。


 だから、俺は日常を飛ばすように、眠ることで意識的に遠ざかることを選択したのだ。





 幼馴染との距離を絶ったのは中学生の時だった。


「一緒の高校に行こうね」


 彼女はそう語っていて、俺はそれに頷くことしかできなかった。


 きっと、彼女の言葉に従えば、その先に未来はあったのかもしれない。


 幼馴染との約束を果たすことで、そうした縁を育むことはできたのかもしれない。


 周囲には幼馴染との関係をよく揶揄われた。妹にだって、そのことでよくつつかれたことがある。けれど、そんな周囲の反応なんてどうでもよくて、俺たちは俺たちの関係性を大事にしながら、いつかたどり着くであろう幸せな結末に期待していた。


 


 でも、それを選択し続けることが、俺にはできなかった。




 いろいろな理由がある。幼馴染に対して踏み出せなかった理由は見つかっている。


 彼女は誰よりも綺麗だった、とか、彼女は俺よりも優れている存在でしかなかった、とか、俺は彼女と比べて劣っていることだったり、彼女と俺とでは対等にはなれない、とか、そんな理由が確かにあった。


 けれど、そんな俺の不安を覆い隠すように、彼女はいつも俺に対して関わってくれていた。


 大丈夫だよ、と声をかけてくれていた。


 声をかけてくれていたのだ。


 だが、俺はそんな彼女の優しさを無碍にした。


 


 俺では彼女と一緒に生きていくことはできない。


 中学時代、そんなくだらない格好つけにしかならないことを思って、彼女から視線を逸らして、そうしてこの学校にやってきた。


 彼女との約束を、果たすことを選択しなかった。


 


 俺は、それを後悔していることとして、扱ってはいない。


 扱うことを選択していない。


 あの時にそんな行動をとった自分を振り返って、後悔を抱いても、俺にとってはつらいことにしかならないから。


 後悔を抱けば、俺は過去に縋りつくことしかできないから。


 だから、俺はすべてを無視して、ここに立っている。


 結果として、このような場面に向かい合うことになっているのだ。



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