第5話 彷徨い続ける者
大通りを脇道に反れ、ものの五分で目的地のアパートが見えてくる。路肩に軽自動車を停め、外に出た途端、純悟はある違和感をすぐに抱いてしまう。
静かすぎる――大通りから住宅街のなかに少し入っただけだというのに、なぜか急に街に溢れているはずの生活音が希薄になり、自身の呼吸音が大きく感じとれてしまった。
周囲の不自然な静けさに不穏なものを感じ取る純悟だったが、一方でその視線は目の前に鎮座する木造アパートへと釘付けになってしまう。
あらかじめ、協力者である毛塚から聞き及んでいたとおり、3階建てのアパートは築年数に見合った旧式の作りではあったが、改めて見るとそう古びているという印象は受けない。昼下がりの陽光は、アパートの風化した木材が持つ暖かな色合いを鮮明に浮き上がらせている。
外から見る限りでは、住人の影はない。純悟が目を凝らしていると、遅れて後部座席から降りてきた結子が隣に立ち、アパートを見上げながら「おぉ」と声を漏らす。
「もっと、ぼろぼろな建物かと思ったけど、意外と綺麗だねぇ。こうして見ると、むしろ趣があるようにすら思えるよ。これで人が住み着かないっていうんだから、もったいないなぁ」
彼女は目をらんらんと輝かせ、アパートを観察している。まるでいつもと変わらない彼女の表情は少しだけ純悟の気持ちを穏やかにしてくれるが、やはり目の前のアパートに対する漠然とした不安をぬぐい去ることはできない。
このなかに、“怪異”がいる――この建物の一室で自ら命を絶ち、魂だけの存在となった“彼女”がいるのだ。
思い描いただけでも、やはり全身をうすら寒い感覚が襲う。真剣なまなざしでアパートを睨みつけていた純悟だったが、軽自動車の運転席から降りてきたもう一人の男性の声で我に返った。
「一応、修繕修理は怠らないようにしているんです。とはいえ、住人も居ませんから完全な赤字でして……最近では、それも意味があるのかと嫌気がさしつつあるのです」
純悟と結子は揃って振り返る。すぐ背後に立っていた中年男性――このアパートを管理する大家は、実にくたびれた表情を浮かべ、アパートを見上げていた。
辟易した声を上げる彼に、結子はすかさず問いかけていく。
「先程もお聞きしましたけど、今は誰も住んでいない状況なんですか?」
「ええ。“あの部屋”のことがネットでも有名になってしまっているようで、人が寄り付かないんですよ。おかげさまで、今じゃあ維持費だけかかる、ただのでかい“箱”ですわ」
大家は無理矢理に皮肉めいた笑みを作ってみせたが、その表情はなんともぎこちない。純悟と結子も笑顔で返しはしたものの、男性の奥底に居座る“焦り”や“虚しさ”といった感情に、いまいち会話を弾ませることはできなかった。
しばらくは当たり障りのない会話を続けていた二人だったが、やがて大家は肝心の部屋の鍵だけを手渡し、純悟たちを乗せてきた軽自動車へと戻っていってしまう。
「終わったら、返しに来てください」という投げやりな一言を最後に、彼はそそくさとエンジンをかけ、去っていった。
大通りに消える小さな車を見つめ、純悟は思わずため息をもらす。
「なんだかこう、適当だなぁ。立ち会ったりしなくていいのかよ」
「まぁ、それだけあの人にとって、この建物は“厄介”だってことさ。あの様子だと、本当はここに来ること自体も嫌だったんだろうし」
相変わらず結子は無邪気に笑ってみせたが、純悟はなおも車が去っていった方角を見つめたまま、考えてしまう。大家にとって貴重な稼ぎ口だったはずの古アパートは、いつのまにか自身の人生にこびりついた、“汚点”となってしまったのだろう。
しばし、物思いにふけていた純悟だったが、隣に立つ結子の一言で我に返る。
「しっかし、改めて見てもその恰好、随分と様になってるじゃあないのさ。純ちゃん」
言われて、思わず純悟は自身を見つめ直してしまった。改めて確認したその着なれない“制服”に、彼はどこか辟易してしまう。
結子はいつも通り“赤一色”の出で立ちだったのだが、一方で純悟は私服などではなく、ましてやサラリーマン時代のようなシャツやスーツ姿でもなかった。
純悟が身に纏っているのは、くすんだ水色の“つなぎ”である。上下が一体化した構造の作業着で、様々な職種に取り入れられている衣服だ。純悟にとっては初めての服装だが、ぴったりと肉体にフィットしており、実に動きやすい。
思いの外、快適な格好ではあったものの、一方でその着なれないつなぎ姿にどうにも気持ちが追い付いてこない。純悟はため息をつき、納得していない表情のまま結子に問いかけてしまう。
「わざわざ、こんな格好になる必要があったのかな……さっきの大家も、怪しんでたんじゃあないのか?」
「“祓い屋一行”って時点で、とっくの昔に怪しまれてはいるだろうさ。それでも、パーカーやジーパン姿よりは随分と説得力があるってもんだよ」
純悟にこのスタイルを提案したのは、他ならぬ結子であった。
“祓い屋”なんて存在は、結子が言った通り、基本的には信用などされていない。力を持たぬ人々にとっては結子は“ペテン師”や“詐欺師”の類と同等にすら捉えられることもある。
ましてや、そんな彼女がラフなスタイルの若者を“相棒”として連れてきたら、より一層、不信感を抱かれるというものである。だからこそ、純悟が“協力者”であり、きちんとした“業者”と同意なのだということを、なにかしら視覚で分かりやすく伝える必要があったのだ。
「それに実際、さっきの大家さんだってそう悪い気はしていなかったでしょ? 私の力が紛い物だったとしても、一応、ほっぽらかしてた物件の“清掃”だけはしてくれるってんだからさ」
言われて、純悟も先程の大家と交わしていた会話の内容を思い返してしまう。
結子が大家に提案した内容は二つ――一つはもちろん、問題となっている“事故物件”に残留している“なにか”を祓い、浄めることだ。
そしてもう一つは、“穢れ”によって人が立ち入らなくなった物件を、責任をもって“清掃”するということ。
どうやらこれが、結子がこれまでに考えてきた、新たな“祓い屋稼業”の形らしい。
純悟は車から下ろしていた清掃用具たちを見つめてしまう。レンタルしたそれらはどれもこれも目にしたことのある道具ばかりだが、一方で純悟にとっては初めて触れるような代物も多い。
「まぁ、たしかに。けれど、本当に道具まで揃える必要はあったのかよ?」
「もちろんさ。大家に言った言葉だって、まるっきり嘘っぱちってわけじゃあないんだよ。純ちゃんにはきっちり、これから行く部屋を掃除して欲しいんだ」
てっきりどれもこれも大家の目を欺くための仕込みだと思っていた純悟だが、結子の思いがけない一言に「えっ」と目を丸くしてしまう。しかし、結子はなおも不敵な笑みを浮かべたまま続ける。
「“穢れ”ってのが居座る場所ってのは、必然的に人が立ち入らないから汚れていく。そういう場所には悪い“気”ってのがたまるから、また別の“穢れ”が引き寄せられるっていう悪循環に陥りがちなんだよね」
「そんなことがあるんだな。だから、場所そのものを清潔にしなきゃあいけないのか」
「そうそう。まぁ、私の方でも色々と用意しているから、それを使って目に見える汚れと、目に見えない“穢れ”を落としちゃうって寸法さ。一石二鳥でしょ?」
純悟にとっては未知の世界の話だが、一方でその概念にはどこか納得してしまう部分も多い。似た者同士が寄り付くという法則は、生者のみならず亡者にもあてはまるようだ。
結子は再び視線をアパートに戻し、伸びをしながら「さて、と」と仕切り直す。
「それじゃあ、行きますか! 純ちゃん、こっから先はあの“眼鏡”、忘れないようにね」
「ああ、これか……」
言われて純悟は、ポケットに入れていた小さな丸眼鏡を取り出す。以前、結子の自宅で受け取った度の入っていない“伊達眼鏡”だったのだが、それを眺めるだけでも少し純悟は眉をひそめてしまった。
「どうしたの、純ちゃん? なんか不服そうじゃないのさ」
「いや、そういうわけじゃあないんだけど。ただ……これかけたら、やっぱり――俺にも“視える”ってことだよな?」
「当たり前じゃんか。これから“一仕事”だってのに、相手が見えないんじゃあどうしようもないでしょ? そのために私の“力”を仕込んであげたんだからさ」
あっけらかんと言ってのける結子だが、あいにく純悟はどうしてもそれをかけることを戸惑ってしまう。このレンズを通して世界を見れば、そこに闊歩する魑魅魍魎の姿を覗き込むことができてしまうのだ。
つくづく、どういう原理かは分からないが、純悟は恐る恐るその丸眼鏡――もとい、“穢れ”を視るための小さな“スコープ”を装着した。
緊張しながらアパートを見つめた純悟だったが、すぐになにかを発見することはなかった。少し肩透かしを食ってしまったのだが、おもむろに視線を走らせ、反射的に「ああ」という声を漏らしてしまう。
閑静な住宅のそこここに、やはり“怪異”の姿がある。
ふらふらと道路を行き交う“亡者”などは可愛いもので、電信柱に肩をかけて立つ黒い巨人、屋根の上で翼を休め街を眺めている長い髪の女、喉元まで開いた大きな口で「ケヒャヒャ」と笑い石塀を飛び越えていく異形と、どこもかしこも人ならざる存在で溢れかえっている。
無論、そのどれもこれもが常人には見ることも、触れることも叶わない。純悟は丸眼鏡のレンズを覗き込んだまま、全身にピリピリとした緊張が広がっていくのを確かに感じていた。
改めて目の当たりにする異形の群れに唖然としてしまう純悟だったが、背中を結子が無遠慮にひっぱたき、痛みで現実へと引き戻される。
「――ッ!?」
「ほらほら、あんまり覗き込まないの。知らんぷりしてないと、こっちについてきちゃうよ? さっさとやることやって、私らも退散しちゃおう」
けらけらと笑いながら、結子は躊躇することなく目の前のアパートへと進んでいく。一瞬、純悟はどうすべきか迷ってしまったが、このまま路上で立ち尽くすわけにもいかない。
なにより、結子の放った「ついてきちゃうよ」という言葉が、ぞぞぞと背筋を撫でる。純悟はできるだけ周囲に視線を走らせないよう努めながら、清掃道具を担ぎ結子に続いた。
アパートの中はとにかく静かで、活気というものを微塵も感じ取ることができない。純悟たちが古びた階段を昇る音が、建物全体に「カツン」と虚しく波紋を立てる。
ゆっくり、着実に階段を昇りながら、結子は手早くこれからの“プラン”を説明してくれた。
「あらかじめ言っているように、“祓う”のは私に任せてね。純ちゃんは手はず通り、部屋のなかをくまなく“掃除”しておいてほしいんだ。あらかじめ渡しておいた“それ”でね」
結子は少しだけ振り返り、純悟が担いでいる清掃道具のなかにある無数の“ペットボトル”を指差した。ラベルをはがした2リットルサイズのものには、無色透明の液体がなみなみと入れられている。
純悟は踊り場でいったん、道具を置いて休憩した。普段、運動などしないものだから、清掃道具を担いだまま階段を昇るだけでも息が上がってしまう。
「ああ。やることは分かってるんだけど――この水、一体何なんだ? 特殊な洗剤かなにかかよ」
「いんや、ただの水だよ。けれど、私特注の“おまじない”が仕込んであるんだ」
おまじない――その不確かな言葉の意味は分からなかったが、恐らくそれ以上言及したところで、凡人の純悟には到底理解できないものなのだろう。純悟は「はあ」と気のない返事と共に、再び荷物を担いで階段を昇る。
目的の階層にたどり着いたところで、純悟の視界に奇妙なものが映りこんだ。アパートの廊下をなぜか黄色い“ゴムボール”が転がってくる。意表を突かれ、荷物を床に置きながら自然とその動きを目で追ってしまった。
誰かいるのか――と、視線を持ち上げると、通路の先に小さな男の子が立っていた。小学校低学年くらいに見える彼は、純悟の目の前まで駆け寄ってくる。少年はボールを手に取ってにっこりと笑い、気持ちの良い挨拶をしてくれた。
「こんにちはぁ!」
「あ……ああ、どうも。こんにちは――」
少年の無垢な笑顔に肩の力を抜いて返す純悟だったが、彼が頭を下げた瞬間、思わず「えっ」と息をのんでしまう。
少年の後頭部が、大きく陥没している。
なにかが彼の頭部を穿ち、真っ赤に染まった肉と、その奥に揺れる柔らかな物体が見えた。
突然の事態に純悟は固まってしまうが、少年はあくまで笑顔を浮かべ、ボールを手にしたまま通路を駆けていってしまう。その背を――否、彼の欠けた後ろ頭を見つめていた純悟に、一部始終を眺めていた結子が告げる。
「あんな小さいのに、かわいそうにねぇ。あの子、この廊下で遊んでた時、階段から落ちて頭を打っちゃったんだよ」
「そんな……じゃああの子は“幽霊”……け、けど、なんでそんなことが分かるんだ?」
「どういう死に様だったのかは、近くで眺めるだけでその情景が“流れ込んでくる”のよ。まぁ、あんまり気持ちのいいものじゃあないけどね」
気が付いた時には、結子は愛用のアロマパイプを取り出し、火をつけていた。ラベンダーの香りがふわりと広がるが、あいにく、それを口にする結子の表情は冴えない。
「死んだからといって、誰も彼もが“穢れ”になるわけじゃあないんだ。ときにはあの子みたいに、自分が死んだってことを理解できないまま、延々とこっちの世界を彷徨ってるのもいる。誰も彼も見えていないだけで、この世にはあんな“救われない魂”がそこら中に焼き付いてるんだよ」
「世界を彷徨う……あの子はずっとここで……ああやって遊び続けてるのか?」
「だろうね。両親がどうなったかは知らないけど、もうこのアパートにはいないんだろうさ。このままじゃあの子の存在は、世界に“置き去り”にされる。今回の一件が終わったら、ちゃんとあの子も“祓って”あげないとね」
いつになく真剣な眼差しのまま、結子は目的地を目指して通路を進んでいく。一方で純悟はしばしその場に立ち尽くし、反対方向へと消えていった少年の“幽霊”を見つめ続けていた。
眼鏡越しに覗き込んだこの世とあの世の“狭間”は、相も変わらず怪異に満ちていて、それを直視することすらはばかられる。
かつて、自身が襲われた存在のように、どれもこれもこの世の理を逸脱した、文字通りの“怪物”にしか見えず、遠くから眺めているだけでも全身の肌が粟立ってしまう。
だが一方で、先程出会った少年の“霊”に対して、恐怖や不安よりもただただ“物悲しさ”が湧き上がり、肉体を支配してしまった。
彼がどんな人生を歩んだかは純悟には分かりかねるが、それでもきっと誰にでも分け隔てなく笑顔で挨拶をかわす、純朴な少年だったに違いない。
あの少年はもう、“こちら側”に戻ってくることはできない。
かといって、“あちら側”へと送られることもなく、ただただいたずらに時の流れのなかを彷徨い続けていくのだろう。
そんな不条理なことが、あっていいのだろうか。
それほどまでに“死”というものは、人間に残酷な世界を与えてしまうのか。
すでに少年の姿は空へと消えてしまっていた。純悟は奥歯を痛いほどに食いしばり、胸の奥底に湧き上がってくるもどかしい感情に絶え、再び道具を担いで歩き出す。
これから向かう一室にも、同じような存在が待っているのだ。
自身を殺め、その上でなおこの世に未練を抱き、消え去ることができない哀れな“命”が一つ、誰も住みつかなくなったアパートの一室に確かに存在している。
ならば、祓わなければいけない――これまで社会人として、何一つ誇れることなどなかった純悟の胸の内に、妙な“使命感”のようなものがわずかに湧き上がりつつあった。
目的地の部屋の前に立つ結子の赤い姿を見据え、純悟は前へと進む。
担いだ清掃道具の重さがどれだけ体を痛めつけようとも、その確かな“生”の実感を押しのけ、足を出す。
アパートの前で湧き上がっていた恐怖や不安は、心のすぐそばで痛々しいほどに騒ぎ立てる“悲しみ”に比べれば、なんとも他愛ないものであった。
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