第8話 愛と呪い

 また一つ、どこかの席から「乾杯!」の合唱と共に、グラスをぶつけ合う軽快な音が響いた。先程からひっきりなしに客が出入りし、自動ドアが開くたびに外の冷たい空気と、店内の凄まじい熱気が流動していく。


 人々の笑い声や歓談のその隙間を、肉が焼ける香ばしい音が埋めていく。各席に設置された集煙フードが全力で稼働し続けているが、そこから漏れたわずかな煙が蓄積し、店内に独特の香りを漂わせている。


 店内の隅に位置する個室の一つへ、店員が大皿を運んできた。若い店員が運んできた“カルビ”の群れを見て、赤ら顔の結子が嬉しそうにはしゃぐ。


「おっほー、待ってましたぁ! これこれ、やっぱ焼肉といえばカルビだよねぇ!」


 げらげらと笑う彼女に店員はにこやかに接し、開いた皿やグラスを持ってそそくさと退散してしまった。嬉しそうにカルビの皿を手繰り寄せる結子の対面で、純悟はレモンサワーのグラスを握りしめたまま、眉をひそめてしまう。


「なあ、そろそろ水でも飲んで、一旦落ち着いたらどうなんだよ? 目まで血走ってるじゃねえか」

「純ちゃんったら、なぁーに言ってんのよぉ! まだまだ、これからじゃないのさぁ。ほらぁ、余計な心配してないで、がんがんカルビ焼いちゃってぇ」


 純悟の忠告などお構いなしに、結子は離れた位置にあったグラスを掴み取り、残っていたビールを一気に流し込む。「ぐっはぁ」と声を上げ、恍惚とした笑みを浮かべる彼女に、純悟はそれ以上、反論する気力も失せてしまう。


 “打ち上げ”と称した二人きりの食事会は、おおよそ1時間が経過したところであったが、結子は開始早々に大ジョッキのビールを飲み干し、すっかりと出来上がってしまっていた。彼女は常に上機嫌で、運ばれてくる料理や酒のお代わりに次々と手を付けていく。


 彼女が大酒飲みであるということは純悟もすでに理解していたのだが、その食べる量にも改めて驚かされてしまった。すでに結子は大盛りの白飯を2度おかわりしており、運ばれてくる肉も焼いたそばから次々に口に放り込んでいってしまう。


 純悟も久々の“焼肉”に舌鼓を打ってはいたものの、目の前で大暴れする結子の姿に、どうしても冷静にならざるをえない。ちびちびと飲んでいたレモンサワーのおかげで酔いは回りつつあったが、どうしても無意識に対面の彼女を監視しようと気を張ってしまった。


 純悟がカルビを網に置くと、肉が焼ける軽快な音と匂いが一気に立ち上る。もう何度も目の当たりにしたはずのその光景を、結子は「おぉ~」と感嘆の声を上げ、拍手までして喜んでいた。


 目の前にいる真っ赤な“酔っ払い”の姿に苦笑してしまう純悟だったが、結子はとろんとした眼差しを浮かべたまま、不意に問いかけてくる。


「純ちゃん、ちゃんと食べてるのぉ? 男の子なんだから、もっと食べてでかくならないと駄目だぞぉ~?」

「ちゃんと食べてるっての。それに、もうとっくに成長期なんて終わってるよ」


 唐突に絡まれたことで焦ってしまう純悟だったが、彼の反応が面白かったのか、結子は「そりゃあ、残念だわさ」とげらげらと笑っている。その無秩序極まりない立ち振る舞いに、純悟は肉をひっくり返しながらため息をついてしまった。


 改めてだが、彼女が凄腕の“祓い屋”だなどと、誰も信じてはくれないだろう。目の前の彼女ならではのあべこべさに、純悟はどうしても苦笑せざるをえない。


 焼けていた肉を少しずつ口に運んでいく純悟だったが、肉汁を堪能する彼を結子はどこか嬉しそうに、頬杖をついたまま見つめている。

 不意に視界に飛び込んできた結子のその不穏な笑顔に、純悟はたまらず茶碗を持ったまま箸を止めてしまった。


「な、なんだよ……?」

「いやぁ、改めてだけど、良い“相棒”に出会えたなぁ、ってさぁ。この間の一件だって、ちゃあんと解決できたわけじゃない? 幸先良いなぁ、って」


 頬杖をついたまま、結子はぶりっこのように首を左右に揺らしている。なんとも痛々しい姿に純悟はたじろいでしまうが、自然と話題はこの間の一件――アパートで対峙した悪霊・折笠梢おりかさこずえへと移っていった。


「まぁ、それはそうだな。おかげさまで、俺も数年ぶりに焼肉なんて食えてるわけだし」

「でしょでしょ? あの大家さん、随分と感謝してくれてたみたいだよぉ。私も毛塚ちゃん経由でしか話は聞いてないけど、それこそ憑き物が落ちたみたいに、気持ちのいい笑顔だったんだってさ」


 怪異と対峙し、それを祓ったのは結子と純悟だったが、一方でこういった案件のやり取りについては、常に協力者である毛塚が仲介役として動いてくれている。二人がアパートで悪霊と対峙したのはもう2週間ほど前の出来事だったが、つい先日、ようやく大家の男性からその“報酬”が振り込まれたのである。


 二人にとっての初仕事が無事終わったことを記念し、この度こうして、“焼肉”という分かりやすい打ち上げを開くことができたのだ。


「そうだったんだな。なんていうか、不思議な感覚だよ。正直、あの部屋で体験したことは壮絶すぎて忘れられないんだ。今でも時々、あの怪物の姿を思い出して、ハッとするときもあるくらいでさ。けれど、結果的にあの大家さんが救われたっていうなら、俺たちが頑張った意味はあったんだろうな。といっても、ほとんどそっちの功績だろうけどさ」


 謙遜する純悟に対し、結子はビールを飲み干してから満面の笑みを浮かべた。


「なぁに言ってんのさぁ! 純ちゃんだって、しっかりとやることやったでしょぉ? あの“悪霊”相手に、気絶もせずにしっかりと抵抗だってしたわけだから、たいしたもんだよ!」

「そう、なのかな……あれはただ、必死だっただけで。俺だけだったら、あのままお陀仏だっただろうさ」

「そういう意味でも、私たち、良いコンビなんじゃあない? お互いがお互いをきっちりとカバーしてるんだからさぁ」


 結子は「うへへへ」と笑いながら、流れるように店員の呼び出しボタンを押す。彼女は新たに日本酒のロックを注文し、開いたグラスをまた下げてもらっていた。


 まだ飲むのか、と純悟は肩の力が抜けてしまうが、いまさら彼女の酒豪っぷりに言及するつもりもない。焦げそうになっている肉を手元の皿に救出しながら、純悟はさらに当時の状況を思い返していく。


「けど本当に、いまだに肝が冷えるよ。まさかあんな風に、言葉巧みに騙されるとは思わなかったんだ。てっきりあの折笠梢って女の子も、まっとうな“霊”なのかと思ってたけど、全然違っていたんだな」

「随分と狡猾な子だったんだろうねぇ。女って本当、怖い生き物だよね」


 あんたも女だろうに――と心のなかで苦笑する純悟だが、“怖い生き物”という単語でなおも、かつて対峙した悪霊のおぞましい姿を想起してしまった。


「それにあの姿――“穢れ”になると、人はあんな風に変わってしまうものなのか?」

「まぁ、それに関しては人それぞれだよねぇ。どういう法則なのかはさっぱりだけど、その人間の“心の在り方”で、姿形も変わっちゃうみたいなんだよぉ」


 今もなお純悟の脳裏には、あの対峙した悪霊・折笠梢の姿が克明に焼き付いていた。生気を失った白い顔と、その下に伸びる“髪の毛”を固め作った、細長い体躯。まさにそれは、異形と呼ぶにふさわしい、浮世離れした姿であった。


「まぁ、でもぉ。純ちゃんがしっかりと“掃除”してたおかげで、あの子の力だってある程度は抑え込めてたわけだからねぇ。言われた通り、きちんと仕事をこなすってのは大事だよぉ」

「そうだったのか? けれど、あれだって元々はあんたが用意したもの――“御神酒おみき”だっけか――それを使っただけだよ。俺の功績なんかじゃあないと思うんだけどな」

「謙虚だねぇ、純ちゃんはぁ。たしかにまぁ、あの酒には私のスーパーパワーをこれでもかと込めておいたから、ああいう“穢れ”には効果抜群なんだよぉ。まさに、私たちコンビだからこその連係プレイってやつだねぇ!」


 結子はどこか嬉しそうに笑った後、網から取り上げた肉を白飯の上に重ね、一気にかきこんでいく。口の周りに白米をつけたまま恍惚とした笑みを浮かべる彼女に、純悟はなおもため息をつくほかなかった。


 肩の力が抜けたからか、空腹が満たされ酒が回ったためか、純悟は至って自然なトーンで目の前の彼女に問いかける。


「本当、とんでもない力だよな。それ、生まれた時から持ってたのか?」

「とんでもなぁい。ちょうど、小学校3年生くらいのときかなぁ。急に強い“霊感”に目覚めてねぇ。それ以来、色々あって今に至るってわけさぁ」

「へえ。突然、目覚めるってこともあるんだなぁ」

「最初なんて、そらあ大変だったよぉ。なにせ、同級生や親が見えてないものが、そこら中にいるって分かるんだからねぇ。家のなかにも当たり前にいるもんだから、夜中、トイレに行くのが怖くて怖くって。当然、だぁれにも信じてもらえないしさぁ。困っちゃったよぉ、本当ぉ~」


 グラスを揺らしながら語る結子に、純悟もタン塩をほおばりながら「ほお」と素直に感嘆の声を上げた。極上の肉の味を堪能しながら、それでも彼はこれまで結子が歩んできた、その人生を想像してしまう。


 きっと結子には幼い頃から、普通の人間たちが知り得ない様々な存在が見えていたのだ。それはところかまわず存在し、安住の地であるはずの自宅にすら容易く侵入してしまう。

 幼い彼女にとってそれは、恐怖でしかなかったのかもしれない。友人や教師はもちろん、最も信頼しているはずの両親すら、その存在を知覚することができないのだ。


 それが当時の彼女にとってどれほど“孤独”な日々だったのかを、思わず純悟は考えてしまう。自身の目に映るものが誰一人に受け入れられないというのは、どれほどに苦痛なことなのだろうか、と。


 大飯ぐらいで大酒飲み、“赤”を好み、アロマパイプをくゆらすどこか子供っぽい“彼女”のその裏に、彼女なりの仄暗い影が張り付いていることを、純悟は気付いてしまう。


 どこか神妙な面持ちを浮かべてしまう純悟だったが、個室の引き戸が開いたことで我に返る。注文していた新たな皿がやってきたようで、結子は「うへへへ」と笑いながら、次々に網へと肉を投入していった。


「ほらほらぁ、純ちゃん。箸が止まってるじゃないのよぉ。男の子なんだから、もっとガツガツ食べなさいよぉ」

「さっきも聞いたよ、それは……けれど、いまさらながらこんなに豪勢にやっちゃって大丈夫なのか? 報酬が出たと言っても、さすがに注文しすぎてるんじゃあ……」

「だぁいじょぶだってぇ! “300万”もあるんだから、まだまだ全然余裕だっつーのぉ」

「さ――」


 300万――と、純悟は目を丸くして声を上げてしまった。唖然として箸を落としそうになる純悟に、結子は相変わらずけらけらと子供のように笑ってみせる。


「まじ……なんだよな? あの一件だけで、さ、300万!?」

「あの大家さん、相当あの部屋に苦しめられ続けてたみたいだからねぇ。向こうの言い値だったんだけど、随分と奮発してくれちゃったよぉ」


 あっけらかんと言ってのける結子だったが、一方で純悟はなおも茶碗と箸を持ったまま、開いた口が塞がらない。報酬額については初めて聞いたのだが、悲しいかなその額は、かつて純悟がサラリーマンとして働いていた際の年収に匹敵する。


 なにからなにまで規格外の事態が続き、なおも肩の力が抜けてしまう。つくづく、これまで純悟が生きてきた世界とは異なった場所に今、自分がいるのだということを痛感してしまった。


 純悟はレモンサワーを飲み干し、弱まった炭酸の感触を楽しむ。熱い吐息を漏らし、どこか皮肉めいた笑みを浮かべてしまった。


「あんたの言う通り、確かに“祓い屋稼業”の初仕事としては、大成功だな。しかしならなおさら、こんな打ち上げの日くらいは“晴れて”欲しかったんだが……」


 どこか言いよどむ純悟に、結子は「んん?」と分かりやすく首をかしげる。その姿がおかしくて、純悟も困ったように笑ってみせた。


「ああ、いや……ほら、俺って昔から“雨男”なんだよ。今日だって来るとき、予報外れの小雨が降ってただろ? いつもそうなんだ。なにか行動に移そうとすると、決まって“雨”に降られちまう」


 思い返すと、ここ最近もずっと純悟の側には“雨”が降っていた。会社の送別会の帰りも、結子のマンションを訪ねに行ったときも、アパートで悪霊と対峙したときも――記憶をたどれば、もっと過去から“雨男”として歩んできた気がする。


「そういえば、そんな気もするなぁ。けれど、そういうのってたまたまじゃあない?」

「まぁ、俺もそう思ってはいるんだけどね。ただこう……個人的に“雨”には、嫌な思い出が多くてさ。特に子供のころ、強烈な体験をして以来、本能的に苦手になってるっていうか」


 結子は「へええ」と大げさなリアクションを取りながら、それでも前のめりになって純悟の話を聞こうとしてくれる。そんな彼女の気安さのせいか、はたまたほろ酔いで気持ちが大きくなったのか、純悟は今まで誰にも話したことのない“過去”をゆるゆると吐露していく。


「俺が生まれ育ったのは中国地方にある片田舎でさ。当時はゲームやスマホなんかもなかったから、基本的には皆、自然のなかを駆けまわって遊んでたんだ。そこで一度、あわや死にかけたってことがあってさ」

「あらら、なんとも穏やかじゃあないなぁ、それは。一体全体、なにがあったのさぁ?」

「野山で遊んでるときに、そこにあった溜池に足を滑らせて落ちちまったんだよ。ああいう場所って、浅いように見えて池の中からは上がってこれない、“蟻地獄”みたいな構造になっててさ。何度も這い上がろうとするんだけど、そのたびに足が滑って、うまくいかなかったのを思い出すよ」


 今思い返しても、当時の危機的な光景がありありと浮かんでくる。溜池に落ちた純悟はあの手この手で水辺から脱出しようと試みたのだが、どれもこれも空回りし、その度に絶望の色が濃くなったのを覚えている。


 衣服に染み込んでくる水の冷たい感覚は、そのまま幼い彼に“死”という事実を予感させた。一つ、また一つと虚しく水をかくたびに、不安から涙が溢れ出て池の水と混ざっていき、着実に近付いてくる“終わり”を幼少期の純悟に悟らせてしまったのである。


 結子はグラスを置き、腕を組んで「ふうむ」とうなる。彼女は目を細め、純悟の顔を鋭く覗き込んでいた。


「そりゃあまた、危機一髪って感じだなぁ。でも、なんでまたそんな池に近付いたの?」

「いやぁ、それが――山の中で“ゴミ拾い”をしてたんだよ」


 結子が目を丸くして「ゴミ拾いぃ?」と繰り返す姿が、やはりどうにも大げさで滑稽であった。純悟は肩を揺らして笑い、苦笑交じりのまま続ける。


「学校の授業で、“ゴミは自然を壊してしまう”ってのを聞いたんだ。それが随分と心に刺さって、誰に頼まれたわけでもないのに、普段、遊びまわってる自然のなかに落ちてるゴミを拾って回ってたんだよ。山の中でゴミを拾っていた矢先、水辺で足を滑らせて――っていう、まぁ、なんとも間抜けな理由だったんだな、これが」

「へぇ。随分と殊勝というか、なんというか。純ちゃん、子供のころからまじめだったんだねぇ」

「いやぁ、馬鹿正直だっただけだよ。大人の言ったことを聞いて、後先考えずに突っ走る、頭の悪いガキだったんだ」


 純悟は目の前で焼けていく肉を裏返し、焦げ付きそうなものを端に退避させる。ぱちぱちと燃える火を見つめたまま、当時の思い出を語っていく。


「俺が助かったのは、本当に偶然だったんだ。池に落ちて途方に暮れていた矢先、偶然、強い“雨”が降ってきて、水かさが増したんだよ。それを利用してなんとか、陸地まで這いずり出ることができた。運が良かったのはそうなんだが、“雨”を見る度にあの日の思い出が蘇って、あまりいい気分じゃないんだ」


 改めて考えてみると、もしかしたら純悟がこうしてこの場にいるのも“奇跡的”なことなのかもしれない。

 あの日、一歩間違えれば純悟は誰も訪れない山の中のため息で、溺死してしまっていた可能性もある。あれ以来、水場というものには近寄らないようになったが、思い出しただけでも肝が冷える事実だった。


 純悟の言葉を受け、しばし結子は考えているようだった。彼女はなおも射るような視線で純悟を観察していたが、やがて「そっかぁ」とこれまで同様の柔らかな波長を取り戻す。


「あれだねぇ。純ちゃんは、“雨に愛されてる”んだねぇ」


 思いがけない一言に、純悟もたまらず「えっ」と声を上げてしまう。一方、結子はにんまりと笑みを浮かべたまま、余っていた小皿のつまみを次々に口に放り込んでいた。


 ぼりぼりと浅漬けを嚙み砕く結子に、純悟はたまらず問いかけてしまう。


「愛されてる……そうかなぁ。俺にはむしろ、雨に“呪われてる”ように思えるけども?」

「けれどさっき言ってたように、“なにか行動に移す”ときに雨が降るんでしょ? まぁ、濡れちゃうのは確かに面倒だけれども、けれど結果的に、どれもこれも最後は“良い形”に収まってるじゃないのさ」


 言われて純悟も、これまで“雨”が降った日のことを――その時あった出来事の顛末を思い返してしまう。


 送別会の日、夜道で“穢れ”に襲われはしたものの、そこで結子と出会い一命をとりとめた。

 結子のマンションの前で立ち尽くしていた純悟は、雨が降り始めたことをきっかけに一歩を踏み出している。

 アパートでも悪霊に翻弄されたが、それでも結果的に勝利し、そしてその報酬で数年ぶりの焼肉にありつけた。


 考え方次第なのかもしれないが、結子の言う通り、どこかポジティブな側面も見えてくる気がしてしまう。「ふむ」とうなる純悟を前に、やはり結子はどこか無邪気に、そして意地悪に笑ってみせた。


「物事なんて全部、考え方一つだよ。私はむしろ、“雨”ってのは好きさ。この世界の厄介なものを色々と洗い流してくれるし、静かになった街もまた“オツ”ってもんさ」


 そういうもんなのか――と、純悟はけらけらと笑う結子を見つめ、肩の力が抜けてしまう。純悟にとって忌避すべき存在であった“雨”は、対面に座る彼女のおかげでどこかこれまでとは色を変えつつあった。


 物事はすべて、見る角度次第なのかもしれない。

 純悟にとっての“雨”がそうであるように、この世に彷徨う“人ならざる者”もまた、人によっては守り神にも、悪霊にもなりえる。


 体面に座る彼女はきっと、人とは随分と違う人生を歩んでくるなかで、そんな世の“理”に気付いたのだろう。

 白か黒かではなく、常にその“狭間”から世界を見つめ続けてきたのだ。


 今の純悟にとっては、“雨”はまだあの日を連想させる忌まわしき存在でしかない。だが一方で、目の前に座る彼女と歩んでいくことで、もしかしたらその見え方がほんの少し変わってくるのかもしれない。


 そんな漠然とした予感を抱き、純悟は結子を見つめる。彼女はまた一つ、大ジョッキを空にし、「ぶっはぁ!」と下品なため息をついていた。

 酔いつぶれ、赤ら顔で嬉しそうに笑うその顔を見て、純悟も脱力したまま箸を進める。数年ぶりに噛みしめたカルビの味は、ただただ心地よく、疲れ切った肉体の奥へと染み渡っていった。


 純悟に縋り付いてくる雨は、誰かの“呪い”なのか。はたまた、“愛”故なのか。


 そんなことをふと考えてしまった純悟だったが、酒のせいで思考はうまく巡らず、霧散してしまう。

 目の前の結子同様、今はただ難しいことを考えず、自分たちが勝ち取った“祝杯”の味に、ゆるゆると舌鼓を打ち続けた。

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