第7話 滅却

 幾度となく肉体に力を込める純悟だったが、一方で全身にまとわりついてくる黒い“髪の毛”が緩むことはない。それどころか、もがけばもがくほどに締め付けは強くなり、より深く、容赦なく肉に毛髪は食い込んだ。


 必死に抵抗しようとする純悟を見つめ、なおもクローゼットのなかに浮かび上がった“彼女”――首だけとなった折笠梢おりかさこずえは、明らかな嘲笑を浮かべていた。


「てっきり、新しい住人かと思ってたけど、そうじゃないみたいねぇ。それにその見た目――あなた、“清掃員”かなにかなのかしらぁ?」


 クローゼットの中にぎっしりと詰められた“髪の毛”のその中心で、真っ白な女の顔が笑い声をあげる度に微かに揺れた。この部屋に住まう“地縛霊”は、自身が拘束した純悟の姿をまじまじと見つめ、観察している。


 まるで子供が捕獲した昆虫を眺めるかのように、好奇心に溢れながら、一方でどこか無遠慮な視線が、舐めるように純悟の全身を這っていく。


 女のその姿は、まさに“異形”のそれであった。

 クローゼットから這い出た無数の髪の毛がフローリングの床や白一色の壁、天井に至るまで、あらゆる箇所に張り付き、一面を“黒”に染め上げていく。

 うねうねと脈動する髪の毛に縛り上げられながら、純悟はその一本一本から流れ込んでくる、奇妙な感覚に唖然としてしまう。


 それはかつて、夜道で純悟を襲ったあの“怪異”から感じたものと、同様――否、その何倍にも膨れ上がった“負”の感情が、奔流となって純悟の肉体に注がれていく。


 間違いなく、目の前にいる彼女こそが、この部屋で命を絶った女子大生・折笠梢その人だ。それを確信すると同時に、純悟はもう一つ、ある大きな“思い違い”に気付いてしまう。


 純悟はどこか心の隅で、彼女と“対話”ができるのではと考えていた。

 廊下で出会ったあの少年の“霊”のように、もしかしたら彼女もまた、この世に未練を残しただけの無害な存在なのではと、心のどこかにわずかな希望を抱いてしまったのだ。


 それらがすべて、純悟にとっての“理想”でしかなかったのだと気付く。

 この部屋にやってきた住人は皆、一ケ月ともたずに逃げ出してしまうと聞いていた。この部屋で起こる様々な怪奇現象は、一人、また一人と不幸な人間を増やし、今もなお負の連鎖を脈々と繋いでしまっている。


 すべて、目の前にいる“彼女”がやったことなのだ。

 間違いなく、純悟を縛り上げている“それ”こそが、この部屋で起こっていることの元凶なのだ、と悟ってしまう。


 彼女はこの世に未練を残した、ただの“地縛霊”などではない。

 長い年月を経て、この部屋を訪れた数々の人間を不幸に陥れた、“悪霊”なのである。


 純悟は後悔しながらも、必死に視線を走らせていく。なんとか外にいる結子に伝えねばと、廊下に繋がるドアを見つめた。


 しかし、見ればすでにドアには無数の“髪の毛”が張り付き、木製のそれを黒一色に染め上げてしまっている。不可解な現象に息をのむ純悟に、あえて“彼女”は告げた。


「残念だけど、もうそのドアは開かないわぁ。それどころか、どれだけ大声で叫んだところで、何一つ外には聞こえないの。せっかく、新しい“おもちゃ”がやってきてくれたんだから、邪魔なんて入ってもらっちゃあ困るものぉ」


 どこか間延びしたセリフに、純悟は前を向きなおす。首を締め上げられながらも必死に呼吸を繰り返す彼の目の前で、クローゼットの中に収まっていたはずの“彼女”の姿が、ぐぐぐと盛り上がった。


 真っ黒な髪の毛がクローゼットの中から伸び、床に落ちる。しかし、それがただの髪の毛などではないということを、磔になったままの純悟は悟ってしまった。


 それは、無数の髪の毛が“束”となり作り上げられた、“腕”であった。

 五指を持つそれはしっかりと床を掴み、力を込めてそこに連なる肉体を前に押し出す。


 ぐぼり、と“彼女”の顔が浮かび上がる。クローゼットに収まっていた“黒い塊”が狭い空間を抜け出し、ようやく六畳一間のなかに迫り出してきた。


 折笠梢という女の顔の下に、髪の毛の塊によって形成された、真っ黒な“体”があった。そこには女性の肉体独特の曲線美やふくらみはなく、異様に長い首、手足を持った、“ナナフシ”のそれに似た形状をしている。


 “悪霊”は肉体から伸びた髪の毛で純悟を拘束したまま、首を伸ばし、覗き込むように彼の顔を見つめてくる。純悟の視界のなかに、血の気を失った折笠梢の真っ白な顔と、そこに浮かぶ二つの黒い眼が近付いてきた。


 呼吸ができない苦しみと、髪の毛で縛り上げられている痛み。そういった数々の不快な感覚を、ついには“恐怖”が塗りつぶし、超越してしまう。

 肉薄する“悪霊”のその笑顔に、純悟の体は無意識に震え、体内の臓器がぐわんぐわんと不快に揺れた。


 もはやそれは、かつて純悟を襲ったあの黒い泥人形などとは、比べ物にならない“怪物”であった。異形としての見た目もさることながら、その肉体の内部から滲みだしてくる“負”の念の濃さ、純度が、“彼女”の格の違いを本能に刷り込んでくる。


 純悟の体内で、かつて夜道で襲われた際に抱いたある強烈な思いが、より鮮明に、明確な輪郭を帯びて湧き上がってきた。肉体を形成する全細胞が、目の前の“彼女”に対し、直感的にそれを悟ってしまう。


 殺される――純悟の恐怖や不安を悟ったのか、すぐ目の前に浮かぶ女の顔は耳元まで裂けた口をぐにゃりと歪ませ、実に無邪気に、嬉しそうに笑ってみせた。


「ずぅっと、退屈していたのよぉ。もう随分と長い間、誰もこの部屋にやってこないんだものぉ。暇で暇でしょうがなくってねぇ」


 彼女は優しく語りかけてくるが、その波長が鼓膜を震わせるたび、純悟の肉体はぞぞぞと震え立つ。どれだけ悲鳴を上げようとも、呼吸を断たれているせいで口をパクパクさせるのが精一杯であった。


「あなたは、どんな人生を歩んできたのかしらぁ。どんな風に幸せを感じて、どんな時に喜びを抱くのかしらぁ。ねえ、教えて? 私がこれから“壊す”――あなたのすべてを」


 “地縛霊”は確かにいたのだ。


 古いアパートの一室で命を絶った彼女は、そこにやってくる人間を捕え、その人生を破壊することを至上の喜びとする“悪霊”へと成り果てていた。

 死してなお、この世界にこびりついた“穢れ”となって、彼女は多くの人間の人生を狂わせ続けてきたのだろう。


 その本質を理解したところで、今の純悟にできることは何もない。

 全身に力を込めるが、怪異を跳ねのけることなどできず、ただただいたずらに関節と筋肉に痛みが走るだけだ。おびただしい量の汗が肌の上を伝うが、それすらも床に這う“髪の毛”に吸収され、フローリングにすら届かない。


 嫌だ――と、純悟は心のなかで叫び続ける。


 だが、その声にならぬ悲鳴が、外にいるはずの“彼女”に届くことは決してない。髪の毛の束に遮られてしまったドアを見つめ、純悟はなおも虚しくもがくことしかできなかった。


 一つ、また一つと新たな髪の毛の束が純悟の肉体に絡みつく。呼吸が断たれたことで意識が混濁し、ついには視界すらかすみ始めた。


 きっとこのまま気絶すれば、二度と目を覚ますことはないのだろう。

 目の前の“彼女”が自身になにをするつもりなのかは甚だ理解できないが、少なくとも、この部屋からまともな状態で脱出することなど、叶わないのだということを悟ってしまう。


 張り詰めていたはずの力が抜け、鼓動が弱まっていく。衰弱していく純悟のその表情を、なおも折笠梢は至近距離で、実に楽し気に見つめていた。


 どんな風に、壊そうか。

 なにをどうして、遊ぼうか。


 “悪霊”が抱いたその無数の嬉々たる思いが、その生気のない白い顔を殊更、おぞましくゆがめていく。


 そんな悪意で埋め尽くされた六畳一間に、不意に“彼女”の声が響き渡った。


「随分と楽しそうだね、あんた。死んでもなお、身勝手なこって」


 聞き覚えのあるその波長に、混濁していた純悟の意識が覚醒する。目を見開いた彼と、すぐ目の前の“悪霊”が、ほぼ同時に振り向く。


 二人の視線が廊下へと続くドアに向けられた瞬間、部屋の中を激しい閃光が染め上げた。


 純悟のみならず、悪霊となった折笠梢も息をのむ。二人が困惑するなか、ドアに絡みついていた黒い髪の毛が一つ、また一つと音を立てて千切れ始めた。


 いや、正確にはドアを縛り上げていた髪の毛が、なにかの力によって“焼き切れていく”。白煙を上げながら床に落ちていく黒い束を、それを操っていた悪霊は唖然として見つめる他ない。


 また一つ、新たな閃光が視界を白で塗りつぶす。次の瞬間、なんとドアそのものが轟音と共に吹き飛んでしまった。


 目を見開く純悟と怪異のその目の前に、タイツを身に纏ったか細い足を高らかに持ち上げた、“彼女”がいる。その体勢から、“彼女”がドアを蹴破ったのだということが理解できた。


 “紅蓮”を身に纏った“祓い屋”・遊子屋結子ゆずやゆうこが、部屋の中へと入ってくる。彼女は赤いヒールを履いたまま、土足で六畳一間へと舞い戻ってきた。


 彼女の足が踏みつける度、床を覆っていた“黒”が退く。結子の周囲に見えざるなにかが渦巻いているようで、髪の毛はそれを避けるように慌てて道を明け渡していった。


 彼女はまるで笑っていない。ただただ鋭い眼差しを浮かべ、目の前の“悪霊”を見上げている。


 突如現れた“赤い女性”に、悪霊・折笠梢は驚いていたが、その呆けた表情はすぐに憤怒の形相へと変化する。自身の“お楽しみ”を邪魔した結子に、悪霊は明確な敵意を向けた。


「なによ、あんた。一体、何様――」


 怪物が巨体を揺らし、怒りの声を上げようとした、瞬間であった。


 結子が右手を振り上げ、人差し指を目の前の“彼女”に向ける。折笠梢が怒号を吐き出し終える間もなく、彼女の顔面で視えざる“力”が爆ぜた。


 どうん――という鈍い音と共に、折笠梢の顔面が歪む。悪霊は「ぶげえ!」という悲鳴を上げながら、真後ろへと吹き飛ばされてしまった。


 一撃を見舞った結子は、鋭い眼差しのまま堂々と、黒い巨体目掛けて言い放つ。


「それはこっちのセリフだよ。とりあえず、さっさと純悟を離せ」


 巨体が壁に叩きつけられ、六畳一間が激しく鳴動する。衝撃によって周囲に張り巡らされていた髪の毛が緩み、ようやく純悟の肉体が地面へと落下した。


 解放されたことで、純悟はとにかく必死に呼吸を繰り返した。肉体を縛り上げられていた激痛よりも、まずは少しでも酸素を肉体に取り入れたい。

 汗に涎、そして涙まで浮かべる満身創痍の純悟に、すぐさま結子が寄り添い、声をかけてくれた。


「危機一髪だったねぇ、純ちゃん。悪い悪い、まさかこんな姑息な手を使われるとは思わなかったよ」


 純悟が顔を持ち上げると、やはり結子はいつもと変わらぬ痛快な笑みを浮かべていた。しかし、そのまなざしのなかには依然として、“怒り”にも似た激情が秘められていることを悟ってしまう。


 息も絶え絶えな純悟は、まだ言葉を絞り出すことすらできない。だがそれでも、すぐそばに立つ結子の肉体から、これまでとはまるで違う暖かい波長が伝わり、痛めつけられていた肉体と心をわずかに正常な形に戻してくれる。


 意識を取り戻しつつあった純悟の耳に、この部屋の主である“悪霊”の声が響いた。


「どうして……お前――どうやって、あのドアを――!?」


 見れば、すでに折笠梢はその黒い巨体を起き上がらせ、遥か頭上から二人を睨みつけていた。結子に邪魔されたのが余程癪だったようで、生気のない白い顔に深々としわが刻み込まれている。


 一瞬、その威圧感にたじろいでしまう純悟だったが、隣に立つ結子はまるでひるむことなく、平然と答えてみせた。


「もっとスマートに開けることもできたけど、面倒くさかったからぶち破らせてもらったよ。わざわざ、外の世界とここを“遮断”するなんて、あんた嫌な性格してるよね」

「ぶち破る――そんな馬鹿な……あんた、一体――!?」

「残念だけど、あの程度の細工、どうにでもなるんだよ。それに、純ちゃんがきっちりと、私の言いつけを守ってくれてたおかげでもあるしね」


 唐突に名を上げられ、純悟は目を丸くしてしまう。床にへたり込んだまま、それでもすぐそばにいる結子へと問いかけてしまった。


「お、俺のおかげ? どういうことだ、それ」

「私が言った通りに、この部屋、きちんと掃除してくれてたでしょ? あのドアも、きっかりと私が渡した“水”で、拭いてくれたんだよね。やっぱり、純ちゃんは几帳面な奴だよ」


 結子はどこか不敵に、けらけらと笑ってみせた。だがあいにく、純悟のみならず目の前に立つ怪異も、彼女の言葉の意図を汲み取れずにいる。


 その状況を察したのか、結子はようやく“種明かし”をしてくれた。


「あのペットボトルに入ってたのは、ただの水なんかじゃあない。私が昨日、まじないをかけた特殊な“御神酒おみき”なのさ。ちょっと奮発して、高めの日本酒買って、それに念を込めてるんだよ」

「御神酒……つ、つまり、あれって“酒”ってことなのか? そんなもので、拭き掃除させてたのかよ?」

「そんなものとは失敬だなぁ。昔から酒には、邪なものを祓う“魔除け”としての効果があるのさ。それをちょっとばかし増幅させた、いわば“結子オリジナルブレンド”だよ。純ちゃんがそれを部屋中に丁寧に塗り込んでくれたおかげで、“こいつ”の力を随分と弱めることができたのさ」


 結子は親指で目の前に立つ黒い巨体を指差す。にわかには信じ切れなかったが、それでも純悟には結子が準備していた、様々な“仕掛け”の全容が見えてきていた。


 知らず知らずのうちに純悟は、この部屋全体を“浄化”していたのである。

 結子が用意した“御神酒”を使うことで、部屋に纏わりついていた邪悪な気を弱め、洗い流していたのだ。


 結子の言葉にうろたえたのは、なにも純悟だけではない。二人を睨みつけている悪霊・折笠梢も、“信じられない”といった様子で視線を泳がせていた。

 そんな彼女に、なおも“祓い屋”は強く、突き刺すようなまなざしと共に告げる。


「どうりで、気配がおぼろげだったわけだ。あんた、もはやこの部屋“そのもの”になってたってわけか。この部屋に悪霊がいるんじゃあない。この部屋そのものが、悪霊化してたってことだね」


 結子はこの部屋にたどり着いた瞬間、地縛霊であるはずの折笠梢を感知することができなかった。それは折笠梢が、六畳一間のこの部屋自体に溶け込み、姿をくらましていたからこそ起こったことだったのだ。


 不可解な謎が一つ、また一つと解き明かされていく。

 彼女の登場によって純悟もようやく我に返り、冷静に目の前の“穢れ”を見つめることができた。


「これが……こんなのが、“地縛霊”だっていうのか? 一体全体、なんでこんな姿に――」


 どれだけ苦しめられてもなお、純悟は目の前に立つ折笠梢のおぞましい姿を受け入れることができない。失恋から命を絶った女子大生が、なぜこのような悪意の塊に変貌してしまったのか、理解がまるで追いつかない。


 そんな純悟の隣に立ち、結子はなおも前を向いたまま告げた。


「これが、こいつの――折笠梢って人間の、“本性”なんだよ」

「本性だって? そ、そんな……だって、彼女はただの女子大生だったんじゃあ――」

「さっき、毛塚ちゃんから連絡があってね。おかげさまで、折笠梢についての色々な“裏”が分かったんだよ」


 裏――その言葉を純悟が反芻した瞬間、ついに目の前に立っていた怪異が襲い掛かってくる。折笠梢は絶叫を上げながら、髪の毛を固めて作った両腕を、二人目掛けて叩きつけてきた。


 一瞬、純悟は目をつぶりかけてしまう。だが一方で、結子は焦ることなどまるでなく、静かに左手を持ち上げる。


 悪霊の振り下ろした腕は、純悟たちのすぐ目の前で止まった。視えざる力の“壁”が悪霊の一撃を食い止め、無効化してしまう。


 一撃、また一撃と悪霊は暴れ続ける。そのすべてを難なく受け止めながら、結子は言葉を続けた。


「手痛く失恋して命を絶ったなんざ、都合のいい大嘘さ。こいつは一方的に男に好意を寄せて付きまとう、“ストーカー”だったんだよ」


 思いがけない一言に、純悟が「ええ?」と声を上げる。なおも悪霊は憤怒の形相で襲い掛かってくるが、結子の力の前ではまるで無意味だ。


「毛塚ちゃんが調べてくれたんだ。折笠梢は当時、同じ大学のサークルにいた一人の男子生徒に好意を寄せていた。日が経つにつれ、そのアプローチがどんどん過激になっていったのを、当時の学生たちがしっかりと覚えてたってさ。自分の“髪の毛”を送りつけたり、帰り道を尾行したり、郵便物を盗み見たり――結局最後は警察沙汰になって、そのせいで相手からも断絶されたんだと」


 また一撃、悪霊は叫び声と共に腕を振り下ろし、そして弾き飛ばされる。まるで結子の口から語られる内容を忌避しているかのように、黒い巨体は我を失っていた。


 微かに身を引きながら、それでも純悟は驚愕してしまう。結子の口から語られるそれらは、当初、折笠梢という人物に抱いていたイメージとはまるで真逆の内容ばかりだ。


 結子は手をかざしたまま、「ふぅ」と力ないため息をついてみせる。


「何もかも全部、あんたの“思い込み”でしかないんだよね。好きになった相手に一方的に愛を押し付けて、拒絶されたら嫌になって自殺。挙句、“地縛霊”になってまで、この世界で幸せそうに生きる人たちが許せなくって、悪行三昧。本当、なにからなにまで“わがまま”なこったよ」


 吐き捨てるように言ってのける結子に、目の前に立つ“悪霊”の怒りが臨界点を超えてしまう。黒い巨体は腕を振り回すのを止め、代わりに周囲に張り巡らしていた無数の“髪の毛”をけしかけた。


 純悟のときと同様、無数の髪の束が結子の肉体に絡みつき、全身を拘束する。純悟が「ああっ!」と驚くなか、悪霊となった折笠梢が吼えた。


「うるさい……うるさいうるさいうるさいうるさい!! お前なんかに、なにが分かるのよ!? あんなに愛したのに……あんなに想っていたのに、どいつもこいつも私の邪魔ばっかりする! お前もそう……お前らみたいなのが、私を不幸にしたんだ!! 私だけ幸せになれないだなんて、そんなの納得いくわけない!!」


 それは悪霊の――否、折笠梢という一人の女性が抱いた、純粋な“わがまま”だったのだろう。

 人間としての常識や社会的なモラルなどなに一つない、子供じみた言葉の数々が、人ならざる者の波長となって狭い空間に反響する。


 びりびりと騒ぎ立てる空気にさらされ、純悟もようやく悟る。

 これこそが折笠梢という人間の“本質”なのだ、と。

 そして悟ったがゆえに、より強く、深い恐怖が彼の肉体を貫き、支配していく。


 他者への思いやりや配慮を捨て去り、己のエゴのみで行動するその姿は、まさに“怪物”のそれだ。彼女は相手の気持ちなどかえりみることは決してなく、ただ本能のまま、自身が正しいと思うことに従い突き進んできたのだろう。


 そんな無秩序の権化のような存在が、なおも絶叫する。

 折笠梢の抱いた敵意に呼応するかのように、床や壁と一体化し、部屋そのものとなった“髪の毛”が動き、対峙する結子の肉体に絡みついていった。


 純悟はたじろぎながら、それでも目の前に立つ結子の名を叫んでしまう。彼女の赤い姿に絡みつく“黒”は、まるで躊躇することなく力をこめ、結子の肉体へと食い込んでいく。


 もはや折笠梢は結子を拘束する気などない。容赦せず、このまま一気に結子の肉体を締め上げ、バラバラに粉砕するつもりであった。


 自身を否定されたという、そんな些細で身勝手な理由のみを頼りに、悪霊は“髪の毛”へと力を流し込む。


 みきり、と結子の肉体が軋んだ。

 純悟が声を上げ、それをかき消すように悪霊の笑う下品な波長が部屋に渦巻いていた。


 それらの中心で、なおもまるで揺らぎなど見せず、“紅蓮”が静かに告げる。


「甘えてんじゃあないよ――クソガキ」


 結子の体を中心に、見えざる力が放射状に爆ぜる。それは彼女に絡みついていた無数の髪の毛を内側から押し上げ、瞬く間に跳ね除けてしまう。


 結子をがんじがらめにしていたはずの敵意の束は、一瞬でバラバラに千切られ、焼き尽くされた。


「――ッ!?」


 悪霊・折笠梢はもちろん、すぐそばに立つ純悟までも驚愕してしまう。結子の髪がざわざわと立ち上り、肉体から溢れ出る力の流れを可視化させていた。


 これまでとは違う熱波のような力強い奔流に、純悟の肌がちりちりと痛みを覚える。その凶暴な波動を身に纏ったまま、結子は目の前の怪物との距離を詰めていく。


 無遠慮に近付いてくる結子目掛けて、悪霊は何度も髪の毛をけしかけたが、まるで効果をなさない。黒い髪の束は結子に近付いた途端、見えないなにかに弾かれ、焼却されてしまった。


 その圧倒的な姿に純悟が言葉を失うなか、やはり結子は迷うことなく行動に出る。


 結子が手を伸ばした途端、目の前に立っていた怪物の巨体が、ぐんと引き寄せられる。体勢を崩した折笠梢の顔を、結子はいともたやすく掴み取ってしまった。


 瞬間、これまでとは明らかに違う怪物の“悲鳴”が、狭い部屋の空気をけたたましく鳴動させる。


「ぎ――にぁあああああああ!?」


 純悟は玉のような汗を浮かべ、ついには一歩、大きく後ずさってしまった。すぐ目の前で繰り広げられる超常的な光景に、もはや理解が追いついていかない。


 折笠梢は長い四肢を振り回し抵抗するも、まるで結子の手を跳ね除けることができない。それどころか、暴れれば暴れるほどに黒い体のそこかしこが崩れ、蒸気のような白煙が吹き上がった。


 結子の腕から流れ込んだ力が、悪霊の体を内側から焼き尽くそうと暴れ狂っているのだ。

 情け容赦などかけず、結子はさらに出力を上げながら、なおも眼前の怪異を睨みつけている。


「あんたの全部を否定はしないさ。人間てのはいつの世も、わがままな生き物だからね。私は聖職者面するつもりなんて、毛頭ないよ。けれど――」


 びしり、と部屋全体が軋んだ。

 結子から発せられる“気”が空間に染み付いていた悪意を押し返し、その場を支配してしまう。


 結子はただ純粋に怒っているのだ。

 赤い肉体の内側にたぎる憤怒が、激しい熱となって純悟の体すらも揺さぶる。


 うろたえ、苦痛に歪む折笠梢の目の前で、遊子屋結子は内に秘めた凶暴性を隠すことなく、まっすぐ前を向いたまま吼えた。


「あんた、そのわがままで、何人を不幸にしたんだ? 男も、女も、大人も、子供も――この部屋に住んだ、あんたとは無関係な人間をどれだけ、コケにしたんだ? おい――答えろよ」


 ぼんと音を立てて、怪異の左腕が爆ぜる。右足が砕け落ち、脇腹から炎が吹きあがった。

 結子の感情の昂ぶりは、そのまま強烈な力となって悪霊の肉体を容赦なく焼き尽くす。


 純悟はついに、その圧倒的な迫力に尻もちをついてしまった。熱波が渦巻く六畳一間のど真ん中にへたり込んだまま、目の前に広がる光景を瞬きすらせずに焼き付けていく。


 悪霊が――折笠梢が泣いていた。


 顔面を鷲掴みにされ、全身にひびを走らせながら、自身を砕こうとする結子に対し許しを請う。しかし、どれだけ見開かれた黒い眼から涙がこぼれようとも、もはや結子は止まることはない。


 彼女はとうの昔に、決めていたのだ。

 この小さな部屋に焼き付いた“穢れ”を、滅却すると。


「あの世で悔いな。あんたが狂わせた人たちの人生の重みを――“地獄”の底で、たっぷりとね!」


 咆哮と共に、ようやく結子が動く。彼女は腕を振り抜き、掴んでいた悪霊・折笠梢の頭部を一気に床に叩き落した。


 衝撃で床がたわみ、“穢れ”の黒い肉体が砕け散る。

 吹き荒れたすさまじい熱風と共に、部屋を支配していた髪の毛が光の粒となり、淡い輝きを残して消えていく。


 純悟が目を開いた時には、そこには当初と変わらないがらんとした六畳一間の光景が広がっていた。

 フローリングの床も、白い壁紙も、なにも入っていないクローゼットも、なにもかもが元通りになっている。


 空気が一気に冷たさを帯びるが、純悟の肉体にはいまだなお、度重なる緊張が生んだ凄まじい熱が宿ったままであった。彼はへたりこんだまま、すぐそばに立っている“紅蓮”の姿を見上げてしまう。


 結子はしばし、虚空を見つめていた。

 その表情にはどこか、これまでとは違う物悲しさのようなものが張り付き、影を落としている。彼女は愛用のアロマパイプを取り出し、甘い香りと共に深い吐息を漏らした。


 窮地を脱したにもかかわらず、彼女は優れない表情で自身が祓った“穢れ”に思いを馳せる。


「ったく、嫌なもんだねぇ。どこまで行っても結局、身勝手な人間が一番怖いんだもんなぁ」


 辿り着いたのは、優雅な勝利などではない。

 アパートの一室に憑りついた怪異を退けてもなお、赤き“祓い屋”の心に去来するのは、一抹の物悲しさのみであった。


 六畳一間に静寂が戻ったことで、窓の外から響く雨音が殊更、大きく聞こえる。

 本降りになったそれは閉め切ったガラス窓を容赦なく叩き、いたずらに、無遠慮に狭い室内の空気を震わせ続けた。

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