第2話 “漆黒”と“紅蓮”

 一歩、純悟が後ずさるのと、路上に立つ"漆黒"が身を乗り出すのは同時だった。

 純悟の全身に湧き上がったおびただしい量の汗が、カッターシャツとスーツのズボンを肌に張り付かせる。それを振り払うように、彼はアスファルトを蹴って後退した。


 目の前で蠢く"それ"――"怪異"としか言いようのない異物から、純悟は目を離すことができなかった。過呼吸になりそうな自分を必死に抑えながら、それでも歯を食いしばり、肉と骨が軋むのを感じつつ思考を巡らせていく。


 もはや考えるのではなく、無数の"思い"が体内で弾け、乱反射していた。だがその中でもとりわけ強く鳴動する一つに従い、純悟はなおも地面を蹴る。


 目の前のそれが何なのか、それが何をしたいのか、なぜここにいるのか、何も分からない。 それでも確かに感じる。早乙女純悟という人間の"本能"そのものが、痛いほどに耳元で叫び続けていた。


 逃げろ―― 


 大きく後方に跳ね退いたが、雨で濡れた地面を革靴が滑り、足元がもつれてしまう。アスファルトの表面にたまっていた水滴をずるりと蹴り上げ、純悟の体が背後へと倒れ込んだ。


 そんな純悟目掛けて、眼前で蠢く人型の“漆黒”が手を伸ばす。持ち上げられたそれはまるで飴細工のように変形し、距離を無視して純悟の肉体へと迫ってきた。


 しかし、偶然転んだことが幸いし、真っ黒な異形の腕は純悟の肉体を掴み損ね、空振りしてしまう。アスファルトの固い感触が純悟の背中を打ち付けるが、痛みよりもすぐ眼前を通過した真っ黒な塊を必死に目で追ってしまった。


 異形の腕から千切れ落ちた黒が飛び散り、仰向けになった純悟の体に降り注いでくる。ぱたたと音を立てて付着したそれらは、粘り気のある雫となって体にこびりついた。


 瞬間、全身を貫いたおぞましい感覚に、純悟は唖然としてしまう。


 ほんのわずかにシャツの上から皮膚へと触れた"黒"が、体内から"なにか"を急激な勢いで吸い上げ、減退させていくのを感じた。わずか数滴に触れただけだというのに、全身から力が抜け、立ち上がることすら困難になってしまう。


 どうにかその場から逃げ出そうともがく純悟だったが、四肢は思うように動かない。情けなくあがき続ける彼の前で、“漆黒”はゆらり、ゆらりと粘着質な音を響かせながら近付いてきていた。


 アスファルトの上で意思を持ち動く“それ”の存在を、純悟は何度も否定しようとした。これはただの夢だ。深酒のせいで悪酔いし、幻覚を見ているだけだと、自分にそう思い込ませようと必死だった。


 だが、そんな純悟の“悪あがき”は、対峙した真っ黒な存在を前にあまりにも無残に打ち砕かれてしまう。


 どれだけ否定をしようとも、すぐ眼前に迫る“それ”から伝わる強烈な気配が、これが夢幻などではないということを、嫌でも理解させてしまうのだ。


 なぜ、こんなことに――純悟の脳内にもう幾度となく、そんな情けない一言が湧き上がり、乱反射していた。


 純悟は酒が入ったけだるい肉体に鞭を打ち、駅へとたどり着き、電車に乗りたかっただけだ。

 自宅の安アパートに帰れば、汗と雨でぐっしょりと濡れた服を脱ぎ捨て、熱いシャワーを頭から浴びる。そして冷たい水を一気に飲み干し、ベッドへと直行するのだ。

 それで泥のように眠れば、またいつも通りの“明日”が訪れるはずだった。


 一体どこで何を間違えたのか。

 気づけば見知らぬ路地に迷い込み、酔っ払いのサラリーマンに冷たく突き放され、その男の体内から溢れ出した“怪物”に襲われている。あまりにも荒唐無稽な状況に、思考が完全に追いついていかない。


 目の前の“漆黒”が、倒れ込んだ純悟に向かって腕を伸ばす。黒く波打つ泥のような手はあっという間に純悟の肩に触れ、“ぼちゃり”という粘ついた音を立てながら、しっかりと掴んでみせた。


 再び純悟の肉体から“力”が吸い上げられていく。それどころか、今度は肩を掴む黒い“泥”の側から奇妙な感覚が流れ込み、抵抗すらできない体がびくりと反応してしまった。


 無数のイメージが純悟の脳内で弾ける。

 どこかの家庭で、会社で、学校で――様々な場所に生きる人間の“思い”が、ほんの数秒の間に激流のように肉体を包み込み、神経を逆流していった。


 五感という存在を通り越し注ぎ込まれたそれらは、決して心地良いものではない。誰かが感じたであろう恐怖、不安、苦痛。ありとあらゆる“不快感”が渾然一体となり、純悟の肉体の内側で暴れ狂っている。


 そのおぞましい感覚に、純悟は悲鳴を上げようとした。だが、“漆黒”に包み込まれた彼の肉体からはなおも力が抜け、肺一つまともに駆動させることができない。


 必死に動かしていた純悟の指先が、アスファルトをいたずらにかきむしる。だがなおも目の前の黒い“泥人形”は上体をたわませ、顔一つない頭をずいと近付けてきた。


 このまま自分は、どうなるのだろうか。この目の前の存在は一体、なにをしようというのだろうか。


 純悟が抱いた無数の疑問すら、体の力と同時に吸い取られ、思考そのものが薄められてしまう。もはや彼は呼吸すらまともにできないまま、口を開け、すべてを飲み込んでいく“黒”を見つめる他なかった。


 残されたわずかな感覚が、拙い情報を脳へと流し込んでくる。じっとりと濡れたアスファルトの冷たさ、生暖かい夜風、きぃぃんと甲高い耳鳴り。


 どれもこれもひどくおぼろげだったが、一方でそのなかに明確に一つ、とある“感覚”が浮き上がった。


 カツン――と、夜の空気が揺れる。


 固く、鋭いなにかがアスファルトを踏み抜き、こちらに近付いてくるのが分かった。それが背後からだと理解はしていたのだが、あいにく、肉体にまとわりついた泥のような“黒”のせいで、振り返ることすらままならない。


 定期的に響くそれは、どこかで聞いたことのある軽快な音だった。そして、その音が近付くにつれて、自分を取り込もうと――否、“喰らおうとしている”目の前の存在が、わずかに動揺しているのが感じ取れた。


 カツン、カツン、カツン。


 大きく、力強く響くその音色がなんなのか、ようやく分かった。それはアスファルトとコンクリートに囲まれたこの大都会の中で、何度も聞いたことのある、なんの変哲もない“足音”だ。


 ハイヒールの音――そこまで理解した瞬間、純悟の耳に透き通った“女性”の声が響いた。


「あらら、まさかこんな所で“再会”しちゃうとはねぇ。どうも、親切なサラリーマンさん?」


 弾んだ女性の声に、純悟は思わず「えっ」と声を漏らす。彼が女性の声を認識した直後から、なぜか抜け落ちていたはずの五感が急激に回復し、肉体の自由が戻ってきた。


 黒い“泥”に取り込まれつつあるせいでまだ身動きはとれない。だが精一杯、首を回すことで、背後に立つ存在をどうにか視界のなかに捉える。


 そこに立っていた“赤い姿”に、彼はまたしても驚きの声を上げた。


 ワインレッドのレディーススーツとスカート、細く美しい指先を彩る赤いマニキュア、深紅のヒール。そして少し癖のある長く赤い髪の毛を、“彼女”は髪留めでまとめあげている。


 ポニーテールをかすかに揺らし、凛としたまなざしを浮かべたまま“彼女”は笑っていた。


「随分と運が悪いこった。まぁ、けれど、こうして私が駆けつけたんだからむしろ逆――間に合っただけ、運が良いのかもね?」

「あ……あんたは――!」


 呆気に取られてしまう純悟だったが、一方で彼を“捕食”しようとしていた怪異は急激に動き始める。黒い泥のような人型が身を震わせ、一気に刺々しい形状へと変化していった。体を飲み込まれつつあった純悟には、その人ならざる者の感情が手に取るように分かってしまう。


 目の前の“それ”は、怒っているのだ。

 颯爽とこの場に現れ、霧雨で濡れた夜の街に凛と立つあの“赤い女性”を見て、どうしようもない怒りを肉体に滾らせている。


 その理由は純悟には分からない。だが一方でまた一つ、離れた位置からこちらを見ている“彼女”が笑う。

 軽快に、痛快に――まるで緊張感などない一言で、彼女は怪異へと語りかけた。


「おぉ、おぉ、怒ってら。そりゃあまぁ、そっか。せっかくの“獲物”を台無しにされかけてるんだもんね。だけど残念。その人まで“喰ってもらう”わけにはいかないんだ。なにせその人はまだ――“こっち側”にいるんだからね」


 彼女の言葉を受けまた一つ、怪異のなかの“怒り”が激しさを増した。そんな漆黒の意思に構うことなく、離れた位置にいる“赤”が先手を打つ。


 女性はただ真っすぐ右腕を持ち上げ、人差し指と中指を“黒”目掛けて突き立てる。口の端に笑みは浮かべたまま、彼女は視えざる“なにか”を解き放った。


 瞬間、「ごぅん」という音と共に大気が鳴動する。

 突如、純悟の目の前にあった“黒”の肉体が弾け、遥か彼方に吹き飛ばされた。不可視の力が眼前の空間に炸裂し、黒い泥人形を純悟の体から引きはがしてしまう。


 肉体に付着していた泥が消え去ったことで、ようやく純悟の体が本調子を取り戻す。彼は慌てて空気をありったけ吸い込み、ぜえぜえと呼吸を整えていた。全身を滝のような汗が伝っていたが、それでもその目は離れた位置に倒れ込む“黒”を見つめ続ける。


 道路のど真ん中に落ちた怪異は一瞬、衝撃によって形を崩されてしまったが、すぐにまた真っ黒な塊を形成し人型へと戻っていく。相変わらず目玉もなにもなかったが、それがこちらを強く睨みつけているということだけは、なぜか純悟にも感覚で理解できた。


 これまで純悟は目の前に立つその黒い存在が、“なんなのか”という疑問に捕らわれていた。しかし今となっては、新たに湧き上がったある疑問がそれを上書きし、思考を加速させてしまう。


 尻もちをついたまま純悟が振り返ると、なおも“彼女”はその場から一歩も動かず、腕を前に突き出して静止していた。なぜか彼女の真っ赤な髪の毛が風一つないにもかかわらず、ざわざわとうごめき、宙に浮きあがっていく。


 間違いなくそれは、つい先程、純悟が繁華街で介抱したあの女性であった。

 自動販売機の脇で泥酔し倒れていたみすぼらしい彼女が、あの時とはまるで違う強く、猛々しい圧を背負ってそこにいる。


 唖然としてしまう純悟だったが、一方で目の前にいる“怪異”が動き出してしまう。黒い泥人形は両腕をだらりと下ろしたまま、ついに大きな口を開き、ありったけの声で雄叫びを上げた。


 なんとも形容しがたい一吼えであった。

 大気を揺らすそれは「オオオオ」という響きでありながら、やはりその波長のなかに無数の負の念が混ざり込み、肌を通して伝わってくる。振り返っていた純悟も思わず、目の前にいる怪異へと向き直ってしまった。


 面倒くせえな、嫌だ帰りたい、なんで振り向いてくれないの、こんなはずじゃあなかったのに――老若男女、様々な“声”が怪物の咆哮の裏側に混じり、心をざわざわと不快に揺らしていく。


 純悟は耐え切れず、歯を食いしばりながら自身の両耳を塞ぎそうになった。だが、またしても響いた甲高いヒールの足音が、その不快感を瞬く間に取り払ってしまう。


 背後にいた女性は怪異の雄叫びを受けながら、悠然と前進していく。彼女は純悟の隣を通過しながら、ポケットから取り出した細長い物体を咥えた。


 彼女がマッチで火をつけると、“煙草”のようにも見えたそれから瞬く間に甘く爽やかな香りが立ち込めてくる。夜のじめじめした路地に広がった“ラベンダー”の香りに、すぐ脇でへたり込んだままの純悟も、瞬く間に意識が覚醒してしまった。


 その香りのおかげか、ようやく正常な意識を取り戻し、なんとか隣に立つ“彼女”に声をかけることができた。


「あ……あんた、一体――」

「もう少しだけ、じっとしてな。大丈夫。すぐに終わらせるからさ」


 前を向いたまま彼女はどこか不敵な笑みすら浮かべながら、堂々と言い放つ。赤い髪の毛とレディーススーツの裾は、なおも不可視の力によってごおごおとざわめき、荒ぶり続けていた。


 純悟にはもはや、目の前で何が起こっているのかまるで理解できない。

 霧雨が降りしきる深夜の街中で、自分を取り込もうと襲い掛かってきた闇そのもの。その漆黒の泥人形と、かつて純悟が手を差し伸べた酔っ払いの女性が、真っ向から堂々と対峙している。


 夢でも見ているのではないかと、なおも目の前の光景を否定したくなってしまった。しかし、覚醒した肉体に伝わってくる無数の感覚が、これが現実のものであるということを理解させてしまう。


 なにより、すぐそばに立つ彼女から伝わる甘い花の香が、混乱していた思考を穏やかに、静かに整えていく。なぜかその香りに包まれているだけで、蹂躙されていた肉体と精神が浄化されていくように感じた。


 これまで緩慢な動きしか見せなかった黒い泥人形が、ついに一手に出る。ばちゅんという鈍い音を立て、対峙していた黒そのものが大きく地面を跳ねた。


 怪異は両手を広げ、なおもおぞましい絶叫を上げながら“赤”を目掛けて飛び掛かる。“それ”は標的を純悟から、目の前に立ちはだかる彼女へと移し替えていた。


 おぞましい光景に、純悟は悲鳴を上げそうになった。しかし、彼の口から声が漏れるより遥かに早く、甘い香りを身にまとった彼女が動く。


 カツゥン――と、ヒールが強く一歩を踏み出した。

 その音色がきっかけとなったかのように、彼女の体内に蓄積されていた“なにか”が一気に駆動する。


 女性は慌てることなどなく、至って冷静に再び腕を持ち上げた。こちらにめがけて飛来してくる邪悪な“黒”にめがけて、やはり人差し指と中指の二本を向ける。

 明確な“迎撃”の構えを取り、どこか強い眼差しで彼女は笑った。


「もう深夜なんだ。もうちょっと――静かにしな」


 怪異の体が女性の目の前まで迫る。しかし、なおも彼女は一歩たりと後退することなく、向かってくるおぞましい咆哮を突き破るように腕をねじ込んだ。


 襲い掛かる“漆黒”を、“紅蓮”が真っ向から穿つ。視えざる力が怪異の中心で弾け、その体を内側から一気に破裂させた。


 轟音と共に飛び散る黒い泥を前に、純悟は「うわあ!」と情けない声を上げ、目をつぶってしまう。しかし、迫ってきた泥は肉体に降り注ぐ前に、空中で塵のように分解され消えてしまった。


 恐る恐る目を開き、純悟は周囲をうかがう。そこにはすでにあの“漆黒”の姿はなく、静かで仄暗い夜の住宅街が広がっているのみであった。


 純悟は濡れたアスファルトの上にへたり込んだまま、しばらくなにもできず呼吸を繰り返す。脅威が去ったというのに、今度は無数の疑問が湧き上がり、脳が再び混乱しつつあった。

 そんな純悟に、やはり“彼女”はまるで恐怖や不安など感じない、意気揚々としたトーンで語りかけてくる。


「これでよし、っと。もう大丈夫だよ、お兄さん! 厄介な奴はいなくなっちゃったからさ」


 純悟が顔を上げると、すぐそばに彼女の痛快な笑顔があった。なにをどう返すべきか分からない彼に、“赤”を身に纏う女性は手を差し伸べてくる。


 すらりと伸びたその手を、純悟はしばらく情けなく見つめてしまう。夜の黒い闇のなかで、目の前の彼女の存在だけがひどく鮮明に浮き上がっているようだった。

 幾度となく躊躇し、それでも純悟は彼女の手を借りて立ち上がる。ようやく踏みしめた革靴の感触が、なんだかひどく懐かしくてならない。


 何を言うべきか、何から問いかけるべきか――必死に思考を巡らせる純悟に構うことなく、彼女は突如、素っ頓狂な声を上げる。その目は立ち上がった純悟の“尻”を覗き込んでいた。


「おわぁ、ぐっしょぐしょだね。それ、パンツまで染みちゃってるんじゃあない?」


 一瞬、なんのことか分からなかった純悟だが、彼女の目線を追ってようやく気付く。見れば自身のスーツズボンの尻の部分が、ぐっしょりと濡れて変色してしまっていた。アスファルトにへたり込んでいたせいで、知らず知らずのうちに雨水にさらされていたらしい。


 気付いてしまうと、一気に臀部の不快な冷たさが肉体を襲ってきた。ぶるりと震えてしまう純悟を前に、なぜか“赤い”女性はけらけらと笑う。


「前は濡れてないところを見ると、“ちびった”わけじゃあなさそうだねぇ。良かった良かった。早く帰って洗濯したほうがいいよぉ」

「あ、ああ……あの――えっと……」


 楽しそうに語る彼女を前に、なおも純悟は情けないほどに狼狽してしまう。何かを言わなければいけないと分かってはいるのだが、一方で脳内を無数の“思い”が駆け巡り、うまく取捨選択ができない。


 純悟が混乱していることに気付いたのか、目の前に立つ彼女はあえて黙っていた。彼女はわずかに笑みを浮かべたまま、腰に手を当てて堂々と道の真ん中に立っている。


「さ、さっきのは……あれはいったい……」

「詳しく話すとかなり難しいことになるけど、まぁ、見ての通り“怪物”さ。この世とあの世の狭間にいる、厄介者ってところだね」

「この世とあの世の……狭間だって?」


 目を丸くする純悟に、なおも彼女は「そそっ」と実に軽いトーンでうなずいてくれる。

「きっとあんたも感じたんじゃあないかな? あいつに触られたとき、いろんな人間の思い――“思念”っていうのかな――そういうのが、流れ込んできたでしょう。さっきのあれは、色々な人間の“負”の思いが固まってできた存在なんだよ」

「思いが固まってできた、存在……そ、そんなものが、ありえるのか?」

「だって、さっきいたじゃない。すぐ目の前にさぁ」


 純悟のなかにあった“常識”という物差しは、彼女のあっけらかんとした一言で見事に打ち砕かれてしまう。純悟が狼狽するなか、目の前の女性はその視線を遠くへと向けた。

 そこには、電信柱の下に倒れた一人の男性の“亡骸”がある。純悟も彼女の視線を追うように、事切れたサラリーマンを見つめてしまった。


「あの人はね、ここに来る前にもう死んでたんだよ」

「死んでたって――ちょ、ちょっと待ってくれ。だってさっき、確かにあのおっさんと話したんだぞ? 酒に酔っぱらって、突っぱね返されたんだ」

「飲み屋街を出るまでは生きてたんだ。けれどその後、人気のない通りで“心不全”を起こしたみたいだね。そんでもって、その空っぽの器にさっきの“アレ”――“穢れ”が入り込んだってわけ」


 とんでもない事実に、純悟は彼方の亡骸と女性の顔を交互に見つめてしまう。彼女は倒れているサラリーマンに手を合わせ、祈りを捧げていた。


「あんたは、あの人に入り込んだ“穢れ”に引き寄せられちゃったんだよ。普段、こんな道、使わないだろう? ああいうのは人気がない場所に、波長が合った誰かを誘い込むのさ。そうして、また新しい器として利用する」

「そんな……そんなことがありえるのか? 死体が動いて街を歩いてて……その上、誰かを襲うなんてことが」

「信じ切れないのは良く分かるよ。そもそも、あんたが生還できたのだって奇跡的なことなんだ。私が駆けつけるのが遅かったら、きっとあんたもあいつの“入れ物”にされてただろうさ。この街で――いや、この“世界”ではこんなこと、いくらでも起こってるもんさ」


 突きつけられた事実に驚愕してしまう純悟だが、なおも彼女はどこか達観した立ち振る舞いで悠然と語ってみせる。


 目の前の彼女から事実を告げられたところで、やはり純悟はそれを易々と受け止めきることができない。この世には人ならざる“なにか”がいて、秘かに人間の体を操り、先程のように誰かを襲っている。そんな荒唐無稽な事実を、「はい、そうですか」と信じ切れるほど、純悟は馬鹿正直な人間ではない。


 だが一方で、それを強く否定しきれない自分がいるのも事実だった。

 混乱はしているが、それでもここで体験したあれやこれやのせいで、酩酊していた意識はすっかり覚醒してしまっている。酒がまだ奥底に残ってはいるものの、至って冷静に自分が体験したすべてを振り返り、考えていく。


 先程、確かに純悟は対峙していたのだ。

 黒くおぞましい闇――恐らくあれは、彼女がいう所の人々の“思念”そのものなのだろう。それらが凝固し形作った意識無き人形に、純悟は確かに襲われ、喰われかけた。


 ありえない、という言葉を幾度となく心のなかで呟く。

 だが同時に、それがありえてしまうのだと、今もこの身に焼き付いた恐怖の爪痕が教えてくれる。


 純悟は自問自答を繰り返し、額に湧き出る汗を何度も掌で拭った。そんな情けない彼の姿を前に、“紅蓮”を纏う彼女は再びアロマパイプを咥え、煙をくゆらせる。


 彼女が「ふぅ」とため息をつくと、甘い香りが周囲に広がった。都会のなかでは実に場違いなその花の香りは、純悟の肉体から緊張と不安を取り払い、気持ちを穏やかに整えてくれる。


 純悟は肩の力を抜き、改めて目の前に立つ彼女を見つめた。服も、靴も、リップも、マニキュアも、そして髪も――なにからなにまで“赤”一色の彼女は、目を細めてどこか意地悪に笑う。


「けどまぁ、やっぱり私を助けておいて正解だったね。早速、“いいこと”――あったでしょ?」


 彼女はかつて自身が介抱された際に放った言葉を、しっかりと覚えていた。改めて純悟の脳裏にも、酔いつぶれ赤ら顔でこちらを見つめるかつての彼女の姿が蘇ってしまう。


 酩酊していたあの時とは、何もかもが違う。

 目の前にいる彼女は、混沌とした“黒”を背負ってなお、凛とした輝きを纏いその場に悠然と立っている。


 酷く浮世離れしたこの状況のなかで、それでも純悟は目の前に立つ彼女の奇妙な“気安さ”だけを救いに、思いを巡らせてしまう。


 なにからなにまで“赤”に染め上げられた不思議な女性は、なおもアロマの煙をくゆらせ、「にひひ」と無邪気に笑っていた。


 目の前に立つ“赤”い女性――遊子屋結子ゆずやゆうこが、自身の生き方を大きく変える存在になることを、この時の純悟はまだ知る由はなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る