第1話 大都会の片隅で

 いつの間にか夜の街にはしとしとと霧雨が降り注いでいた。雨粒のカーテンは街のネオンを受け止め、ぼんやりと宙に散らしてしまう。

 そのどこか幻想的な風景を見つめ、居酒屋の前でしばし雨宿りをしながら、彼――早乙女純悟は淡く崩れた景色を前に熱いため息をつく。


 気が付いた時には、同僚や先輩たちの姿はどこにもなかった。しばらくは数人が酩酊した純悟を気遣い介抱してくれていたのだが、結局は彼をトイレに残し、そそくさと解散してしまったようである。


 自身の“送別会”だというのに、そのあまりにもドライな対応にまた一つ、乾いた笑いが漏れてしまう。悲しいという感情よりも、一人残された自身がただただ滑稽でならない。


 たったの六ヶ月か――新社会人として意気揚々と飛び込んだ会社はものの見事に“不況”のあおりを受け、純悟を含め新卒社員たちをあっさりとリストラしてしまった。

 今日の送別会には自身を含め退職する数名が同席していたが、あいにく、同期だという仲間意識も薄ければ、そもそも一緒に仕事を成し遂げたという連帯感すら持つ暇もなかったのだ。


 そんな味も素っ気もない飲み会は、ただただ純悟の体の中に不快な悪酔いと、虚しい感覚のみを残し終わってしまった。挙句、外に出れば予報外れの小雨ときたものだ。徹頭徹尾、自身の不憫な扱いにため息が漏れてしまう。


 少し先にある高架の上を、がたんがたんと無遠慮な音を立てて電車が横切るのが見えた。その耳障りな音をきっかけに、純悟はようやく霧雨のなかへと身を投じる。 

 元々、傘など持っていなかったが、いつまでもこうして弱々しい雨が止むのを待っているわけにもいかなかった。


 ふらりふらりと、夜の飲み屋街を進んでいく。相も変わらず居酒屋では大勢の人々が酒を酌み交わし、赤ら顔で笑っていた。

 仕事の打ち上げか、はたまた学生同士のコンパかなにかか。そんな人々の笑顔を前に、それでも純悟はどうしても同じように笑うことはできない。


 体のなかはただただ空虚であるにもかかわらず、その足取りはひたすらに重い。急激に冷めていく肉体の奥底にはいまだに深酒の余韻が居座り続けており、すでに二日酔いにも似た不快感が体を支配しつつあった。


 とにもかくにも、一刻も早くこの繁華街から立ち去りたかった。キャッチの呼び込みを無視し、無遠慮に群がって談話している集団を雑に避けながら進んでいく。

 いまはただただ、自宅である狭いアパートの一室に戻り、熱いシャワーを浴びて泥のように眠りたかった。


 しかし、そんな純悟の足が不意に止まってしまう。何気なく視線を走らせた先――道の脇に置かれた自動販売機のそのすぐ隣に、奇妙なものを発見してしまったのだ。


 並んで置かれたゴミ箱のその横から、すらりと“足”が伸びている。

 タイツとヒールを履いていることから女性なのだとすぐに気付き、慌てて駆け寄ってしまった。

 何事か――と自動販売機の影を覗き込み、思わず息をのんでしまう。


 そこには一人の女性が横たわっていた。

 どうやら泥酔しているようで、なにかをぶつぶつと呟きながら、顔を真っ赤にして気持ちよさそうに“のびて”しまっている。

 繁華街では別段、珍しくもない光景なのだろうが、肝心なのは倒れている彼女のその出で立ちであった。


 顔は酒で紅潮しきっているのだが、赤いのは彼女の肌だけではない。

 着崩れしてしまっているワインレッドのレディーススーツとスカート、細く美しい指先を彩る赤いマニキュア、深紅のヒール――身に着けているあれやこれやが、とにかく“赤”一色で染め上げられている。


 そのみすぼらしく、しかしどこか鮮やかな姿に純悟は唖然としてしまった。だが、なおも目の前の女性は体中にめぐる酒に打ち負かされているようで、「うう」だの「ああ」だのという情けない声を、これまた赤いリップで染め上げた口元から漏らしていた。


 一瞬、純悟はどうすべきかを迷ってしまった。自身もただでさえ気の乗らない“送別会”を終えたばかりで、激しく疲弊しきっているのだ。そんな状態で、どこの誰かも分からない酔っ払いを介抱するというのは、どうにも気が引けてしまう。


 このまま無視してさっさと帰りたい――それが、純悟のなかに湧き上がってきた下世話な本心であった。


 だが、何度も振り返り歩き出そうとしたが、どうにも後ろ髪を引かれてしまう。偶然発見したとはいえ、目の前の女性をこの場に放っておくということが、どうしてもできない。


 深夜が近付く繁華街の片隅に、泥酔した若い女性が一人、取り残される。その危険性を考えた時、純悟は嫌々ながらも自然と目の前の彼女に手を伸ばしていた。

 腰を落とし、すぐ脇に座って女性の肩を慎重に揺らす。


「あ、あの、大丈夫ですか? もしもし?」


 純悟が声をかけてもなお、女性は「んぁ~」だの「うぃ~」だのという間の抜けた声を上げるのみであった。純悟は早速声をかけたことを後悔しつつあったが、それでもぐっと苛立ちを押さえ、対応し続ける。


 しばらく声をかけ続けると、なんとか女性は意識を取り戻し、上体だけを起こしてアスファルトの上に座った。


「えぇ~と、あれ……ここ、どこだっけ? あっれぇ~、さっきまでここにあったアヒージョ、どこ行った?」


 視線を左右に遊ばせながら、女性は寝ぼけ眼でぶつぶつと独り言をつぶやいている。どうやらまだ、その意識は酒をあおった飲み屋に置き去りになっているようだ。


 強烈な酒臭さが鼻をついたが、同時に起き上がったことで彼女の姿が外套に照らし出され、より鮮明に闇のなかに浮かび上がる。また一つ、目の前の女性のある特徴に気付き、純悟はわずかに息をのんでしまった。


 肩口まで伸びた彼女の髪の毛は、これまた“赤”に染め上げられている。光沢とわずかなうねりを持つそれは、街灯と自動販売機の無機質な光を受け、夜のなかにギラリと輝いていた。


「おっかしいなぁ~、ここどこぉ? 私、なんでこんなとこに――」

「あの……随分と飲んでるみたいだけど……」


 ここでようやく、女性はすぐ脇に腰を落としていた純悟に気付く。彼女がこちらを向いたことで少したじろいでしまったが、それでも純悟は何とか愛想笑いを浮かべた。


「おっやぁ、あんた誰? 店員さん――じゃあなさそうだねぇ、そのリーマンスタイルはぁ~」

「いや、その……たまたま、あんたが倒れてるのを見かけて」


 しどろもどろに答えていく純悟だったが、女性は座り込んだまま周囲の様子をうかがい、少しずつ意識を取り戻していく。なにか合点がいったのか、彼女は「あぁ~」と甲高い声を上げた。


「あっちゃ~、そういうことぉ! 私、ここに倒れてた? うわぁ~、ま~たやっちゃったよぉ~」

「あの……体調とか悪いなら、救急車呼びましょうか?」

「いやぁ、いいっていいってぇ! お酒飲みすぎて、ちょ~っと気持ちよくなっちゃっただけだからさぁ。大丈夫大丈夫、全然歩けるって――」


 なぜか彼女の勢いに圧倒されてしまう純悟だったが、女性は言いながらもゴミ箱を掴み、自らの力で立ち上がってしまう。だが、やはり足元はまだまだふらつくようで、ヒールの先がぐるりともつれ、体が傾いてしまった。

 突然の事態に純悟は慌てて手を貸し、再び彼女を座らせる。


「だ、駄目ですって、そんな状態じゃあ! ほら、とりあえず落ち着いて」


 いまだ酩酊している彼女を、純悟はなんとかなだめていく。重ね重ね、なぜこんな事態に巻き込まれてしまっているのか、自身が置かれた状況が情けなくなってしまった。


 お節介なんてするもんじゃあないな――心のなかで悪態はついてみたが、それでも純悟は渋々、目の前の女性を介抱していく。

 とはいえ、いつまでもここでこうしているわけにもいかず、隣の自動販売機で水を購入し、彼女へと手渡した。


「ほら、これ飲んで落ち着いて。僕はもう行きますけど、本当に大丈夫ですか?」


 女性は差し出された水を見つめた後、ゆるゆるとその視線を純悟の顔へと持ち上げていく。なぜか彼女はしばらく純悟の姿を観察していたが、すぐににんまりと笑ってみせた。


「あぁ~、ありがとうねぇ、お兄さぁん。優しいんだねぇ。きっと、いいことあるよ~」


 そんな間延びした礼を述べ、彼女は水を受け取り、遠慮することなくがぶがぶと飲み始めた。「ぶはぁ」と息継ぎをする彼女を前に、純悟までも肩の力が抜け、無意識のため息を漏らしてしまう。


 結局、そんな間の抜けたやり取りを最後に、純悟はその場を立ち去った。足早に歩きながらスマートフォンを確認すると、もう日付が変わろうとしている。余裕を持って帰るつもりが、とんだハプニングのおかげで終電コースとなってしまった。


 なにをやってるんだか――最後の最後まで、締まらないサラリーマン生活だったことに、思わず一人で苦笑を浮かべてしまう。

 先程の彼女は一応、礼の言葉を述べてはくれたが、だからといって明日からの純悟の生活が変化するわけでもないのだ。


 彼女が告げた「いいこと」など、起こる予感はまるでない。この大都会のなかで人助けなどしたところで、そんなわずかな善意はすぐに忘れ去られてしまうのが関の山なのだから。


 虚しさこそあったが、一方で純悟は先程の女性の鮮やかな“赤”を思わず想像してしまっていた。多様性が認められる時代とはいうが、それでもなかなかあそこまで“赤”に徹底した出で立ちも珍しいだろう。


 どんな職業についているのか、なんのためにこの飲み屋街にいたのか。

 しばらくは“彼女”の姿に想像を働かせていたが、肉体にのしかかる疲労感と霧雨の冷たさが、すぐに思考をからめとってしまう。

 今は赤の他人のあれやこれやを考えるより、一刻も早く自宅へ帰れるよう、とにかく急いで革靴を前へと押し込んだ。


 ところが、歩き続けて数分で奇妙なことに気付いてしまう。思わず道の端に立ち止まり、周囲の様子をうかがった。


 おかしい――飲み屋街を出てもうしばらく経つのだが、一向に最寄りの駅にたどり着くことができない。


 このエリアはもう何度も通い慣れた場所だったが、そもそも今自分がいる場所がどこなのか、周囲の風景からはまるで見当もつかなかった。

 住宅街のど真ん中に迷い込んだのか、あたりには民家やマンションが並んでこそいるものの、妙に人気がない。深夜だからということもあるのだろうが、それにしてもいささか暗すぎるような気がしてならなかった。


 どうにも不穏な気配を察知し、純悟は立ち止まったまま思わず、頬を流れ落ちた汗をぬぐう。霧雨が混じったそれはなんとも生温く、不快な感触を掌に残した。


 とにかく今いる場所を把握しようと、慌ててポケットからスマートフォンを取り出そうとした。しかし、背後から聞こえた男の声に、まずは慌てて振り返る。

 見れば少し離れた位置の電柱に、サラリーマン姿の男が手をつきうつむいていた。スーツを着込んだ彼はどこか苦しそうに、なんども「うげえ」と不快な声を上げている。


 少し歩み寄ってみると、それはやはり酔っ払いであった。顔を真っ赤にした男はシャツの胸元を大きく開け、ぜえぜえと肩で呼吸をしながら、何度も小刻みに胃の内容物を嘔吐してしまっているのである。


 またかよ――と、思わず心のなかで悪態をついてしまう純悟だったが、見覚えのない通りでそれでも人の姿を確認できたことに、どこか安堵もしてしまった。

 そのせいか、やはり自然と目の前で嘔吐を繰り返している酔っ払いに、声をかけてしまう。


「あの、大丈夫ですか?」


 しかし、返ってきたのは先程の“赤い”女性とはまるで違う、実に刺々しい対応だった。サラリーマンの男は振り返りながらも淀んだ眼差しで純悟を睨みつけ、「あぁ?」と声を上げる。

 どうやら相当に悪酔いしているようで、真っ赤な顔をさらに紅潮させ、彼は怒りをあらわにした。


「なんだぁ、お前。文句あんのか?」

「え、いや……別に文句とか、そういうんじゃあ――」

「俺を誰だと思ってんだよ、ああ!? どいつもこいつも舐めやがってよぉー!」


 なんとも理不尽な態度だったが、一方でその独特の圧に押し切られてしまい、純悟は息をのんだままたじろいでしまう。男は随分と虫の居所が悪い様子で、口元の吐瀉物を腕で乱雑に拭いながら、ぶつぶつと文句を垂れ流していた。


「ったくよぉ……誰も俺のことなんざ、分かっちゃあくれねえんだ。誰が稼ぎを持ってきてやってるって思ってんだよ、あぁ?」


 純悟は苦笑いしたまま、とりあえずゆっくりと男の前から身を引いてしまう。純悟がいなくなってからも、男は電信柱に向かって誰かしらへの文句をのたまっては、時折、込み上げてきたものを吐き出していた。


 酔いつぶれたその態度や、吐瀉物の生理的な不快感が純悟の顔を苦痛にゆがめてしまう。相も変わらず赤の他人に振り回されている自分が嫌になり、気を取り直してスマートフォンを取り出した。


 マップアプリを開き、とりあえず現在地を検索しようと操作を続ける。そんな純悟の背後からはなおも泥酔した男の独り言と、彼が吐く嫌な音が聞こえてきた。


「ふざけんなっての……ぐぅ……ちくしょお、大体今日は……うぐぅ……雨なんて予報で言ってなかったろうがよぉ……ぐえぇ」


 男の愚痴が職場ではなく、ついには天気予報まで飛び火するのはなんとも滑稽だった。しかし純悟はあえて気にせず、手元のスマートフォンに集中する。位置の関係か、なぜかひどく電波状況が悪い。


「大体よぉ……ぐほぉえ……ここ……ごおおう……ど……どこ……なんだ……うぶげえ……オレ……こんなところ……ごぉえ……シラナイ――」


 ぞくり、と背筋が震えた。


 無意識にとらえていた男の言葉の数々に、今までとは違う妙な波長が混じったことで、目を見開いてしまう。

 純悟は視線を持ち上げ、そのままゆっくりと慎重に振り返った。重く呼吸を繰り返しつつ、電信柱のすぐ脇にいるであろう“彼”を見つめ直す。


 サラリーマンはなおも、電柱に体重を預けたままうつむき、苦しそうに吐き戻していた。彼の口元からぼとぼとと、吐瀉物が流れ落ちる。だが、地面に落ちて跳ねる“それ”が明らかに異質なものであることを、純悟はすぐに悟る。


 男の口から滝のように、真っ黒な“なにか”が溢れ出ていた。光を反射しない、影や闇そのものともいえる“黒”は、瞬く間に電信柱の周囲を漆黒に染め上げていく。

 びちゃびちゃと跳ね、粘着質に飛び散り、電信柱を、塀を、アスファルトを塗りつぶす。ついにその“黒”は男の口だけでなく、開け放たれた目、鼻、耳からも溢れ出てきてしまう。


 常軌を逸した光景に、純悟は呼吸を止めてしまった。彼が見ている目の前で、ついにサラリーマンの男は膝から崩れ落ち、自身が吐きだした大量の“黒”のなかへと横たわってしまう。


 ぼちゃり、と闇が跳ねる。しかし、男が動かなくなったことを受けてか、今度は地面を覆いつくすように広がった“黒”そのものが激しく鳴動し始めた。


 ごぼり、ぐぼりと鈍い音を立て、泡立つように“黒”が盛り上がる。所々でうごめいたそれは、やがてある一か所へと集結し、一つの大きな形を成し遂げていた。


 “それ”が地面に手をつき、体を持ち上げる。大量に吐き出された“黒”のそのなかから、なにかが起き上がり、こちらを見つめていた。


 漆黒そのものを塗り固めた、人形のような“なにか”が目の前にいる。粘着質な肉体を持つ“それ”は頭を持ち上げ、ぽっかりと開いた二つの眼をこちらへと向けている。

 眼球のない空洞の奥底から、それでも純悟は自身に向けられた強烈な視線を感じた。立ち尽くしたまま呼吸を取り戻すが、リズムを失ったそれはいたずらに鼓動を加速させ、血を熱く滾らせてしまう。


 なんなんだ、これは――深夜を迎えるどこかの路地で、純悟は夜の“闇”そのものと対峙する。


 力を失った手元から、スマートフォンがするりと滑り落ちてしまった。アスファルトに落ちたそれが「カツゥン」という乾いた音を響かせ、鋭く大気を鳴動させる。

 まばたき一つできず、びりびりと痺れる眼で純悟は“それ”を見つめ続けた。周囲の音が消え、意識が目の前の存在に釘付けになってしまう。


 うろたえ、身動きができない純悟に――否、一人の弱々しい“人間”に向けて、“闇”が近付いてくる。ゆっくりと、じわりと動く黒い人型が、音もなく静かに純悟との距離を詰めようとしていた。


 なおも街には霧雨が降り注いでいる。静けさが包む住宅街のど真ん中で、純悟はただひたすらに加速する自身の鼓動の音だけを聞いていた。


 酔いなどとっくの昔に醒めてしまっていた。湧き上がる冷静な“恐怖”は、胃の内容物をぐるぐるとかきまわし、喉の奥へと逆流させようと暴れ狂う。


 乱れていく呼吸の音色は、霧雨のさあという音にさらわれ消えてしまう。

 純悟は遥か彼方から近づいてくる“足音”になど気付くことはなく、ただひたすら拳を握り締め、目の前に立つ“怪物”を見つめる他なかった。

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