清葬員の挽歌
創也 慎介
プロローグ
夜の裏路地に立ったまま空を見上げたが、あいにく、星は見えなかった。重々しい雲が頭上を覆い、夜空を隠してしまっている。
傘を持ってくるべきだったか、と後悔しながらも、“彼女”は懐から愛用のアロマパイプを取り出し、咥えた。火をつけると濃厚なラベンダーの香りがたちこめ、肉体を覚醒させてくれる。
その芳しい香りは人が立ち寄らぬ路地裏の陰険な空気までをも、ほんのわずかに浄化してくれたかのようだった。
だが、その爽やかな香りが、目の前のそれにとっては随分と不快でならなかったらしい。彼女に対峙する刺々しい気配はさらに圧を増し、こちらを威嚇してくる。
常人には決して見えないもの。特異な才を持ち、生まれ持った因果に縛られたもの以外は、触れることもできない存在。
それが今、彼女の目の前にいる。定まった形を持たず、闇そのものが意志を持ったかのようなおぞましい存在は、ぽっかりと空いた口から唸り声を上げた。
その声はやはり、対峙する彼女にしか感知できない。ビリビリと大気がざわめいたが、彼女はいたって変わらずリラックスした体勢で前を向く。
赤く染め上げたポニーテールに、ワインレッドのレディーススーツ、赤いヒール。
一切合切が真紅に包まれた女性は、自身よりはるかに巨大な怪異を前に、くすりと笑ってみせた。
嘲笑だと思われたのか、あるいは挑発ととらえられたのか。その一笑がきっかけとなり、対峙する闇が抱いた敵意は臨界点を超えてしまう。
目の前の黒が、女性目掛けて一斉に襲いかかってくる。対し、向かってくる脅威に臆することなく、赤が一歩を踏み出した。
叩きつけられるありったけの殺意を、彼女は真正面から堂々と切り伏せる。
軽やかに、素早く、女性の右手が奔った。瞬間、目の前を覆っていた漆黒が、深々と穿たれる。
一撃によって開けられた大穴が勝敗を決した。怪異は目と口を見開いたまま、断末魔すら上げることなく崩れ去ってしまう。
闇が散り散りに消え、路地裏には紅に身を包んだ彼女だけが取り残された。
その表情に緊張や恐れの色はない。彼女は深々とアロマを吸い、爽やかな香りを吐息に混ぜて宙に放った。
消えかけていた町の喧騒が戻ってくる。異形によって退けられていた日常の感覚が、ようやく女性の五感を刺激し始めていた。
一仕事を終え、踵を返しながらも彼女は再度、空を見上げる。なおも淀んだままの夜空に、ほうと熱いため息が漏れた。
どうやら、一雨来そうだね――アロマの煙を燻らせながら、彼女は颯爽と歩き出す。
ヒールの音を軽快に弾ませながら、彼女は労いの一杯を求め、夜の街へと消えていった。
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