第3話 祓い屋

 純悟は目の前に鎮座する古びたマンションを、入り口に立ち止まったまましばし眺めていた。元々は白一色の美しい建物だったのだろうが、今となっては至る所に灰色や黄ばみが目立つ、なんともみすぼらしい姿に成り果てている。

 絡みついたツタや合間に見えるわずかなカビ模様が、もう随分と手入れをされていない、打ち捨てられた建造物であることを物語っている。


 純悟は本当にここなのかと自身の記憶を疑ったが、スマートフォンに記したメモの通り、入り口の錆びた看板には確かに「シャルル東第4棟」というマンションの名前が刻印されていた。


 目的地である5階建てマンションを前に、純悟はどうしても踏み入るのを躊躇してしまう。古びたマンションの仄暗い雰囲気に気圧されてしまったのはもちろんだが、なにより、この先に待つ"彼女"のことを考えると、どうにも肩に力が入ってしまった。


 あれからもう、一ケ月――純悟が夜の街で、おぞましい“怪異”に遭遇してから随分と時間が経っていた。


 職を失い、本来ならばすぐにでも次の稼ぎ口を探さなければいけないはずなのに、それでも純悟はこれまで通りの"日常"に戻ることができずにいた。

 かつて体験した"非日常"が、いまもなお彼の記憶のなかに克明に焼き付き、その意識を縛り続けている。どこかであの夜の出来事が脳裏をよぎり、なにをするにしてもいまいち身が入らなかった。


 それほどまでに、あの一夜の出来事は純悟にとって鮮烈かつ不可解であった。人ならざる者と邂逅したことはもちろん、とある一人の“女性”によって命を救われたなど、自分自身でもいまだに信じ切ることができない。


 緊張と興奮、混乱と不安から、純悟はあの日、"彼女"とどのような会話を交わしたかをよく覚えてはいなかった。互いの名こそ伝え合ったものの、終始うろたえ混乱する自分を"彼女"がたしなめる形となっていたことだけは記憶に残っている。


 だがただ一つ、別れ際に“彼女”が告げた一言に従った結果、純悟は意を決し、こうして普段は立ち入ることのない、大都会の僻地へとやってきたのだ。


 なにかあれば、ここにおいで――そう言ってあの日、“赤”に染まった彼女は手書きのメモを手渡し、去っていった。

 とある“住所”が記されたそれは、純悟にとってあの夜の出来事が夢や幻ではないという、確かな証左となって残り続けている。


 パーカーにジーンズという古びた私服を身に纏い、純悟は遠路はるばる、“彼女”が指定したマンションへとやってきた。なにからなにまで分からないことだらけではあるが、少なくともここに自分が求める“なにか”があるのではと踏んだのだ。


 あの日、邂逅した“非日常”を紐解くために――どうしても一歩を躊躇してしまう純悟だったが、彼の鼻先で不意に「ぽつり」と冷たい雫が弾ける。見れば曇天から一つ、また一つと雨粒が零れ落ち始めていた。


 相変わらずの“雨男”っぷりに、純悟は肩の力が抜けてしまう。とはいえ、このまま路上で予報外れの雨に濡らされるわけにもいかず、彼は意を決してマンションのなかへと分け入った。


 昼間だというのに、なぜかマンションのなかはただひたすらに静かで、どこか仄暗い空気に包まれている。照明は所々切れたまま交換されておらず、どこまでいっても陰鬱な雰囲気をぬぐうことができない。

 不気味ではあったが、純悟はとにかく指定された部屋――4階の“404号室”を目指す。なにからなにまで登場する数字は不吉極まりなかったが、迷信だと自分自身に言い聞かせ、スニーカーを前へと進め続けた。


 目的地にたどり着き、純悟はやはりドアを前にしばし立ち尽くしてしまう。相変わらず耳を澄ましても住人たちの生活音はまるで聞こえず、このマンション自体から人の気配をまるで感じることができない。


 もしかしたら、ただただからかわれたのではないか。どこか後ろ向きな考えを巡らせる純悟の耳に、不意にドアの向こう側から声が響く。


「どうぞぉ、開いてるよ~」


 なんとも自然体な“女性”の声に唖然としてしまう。

 思わず視線を走らせてしまうが、ドアには覗き穴もなければ、外を確認するためのインターホンのような機器も見当たらない。だというのに、どうして自分が来たことが分かったというのか。


 混乱するなか、やはり部屋のなかからはあっけらかんとした“女性”の声が響く。それは間違いなく、あの夜、純悟を救った“彼女”の声色だった。


「大丈夫、怖がらないで。入ったら、ちゃんと鍵閉めてねぇ」


 びくりと驚いてしまう純悟だったが、一人で挙動不審になっている自分がひどく滑稽でならない。“彼女”に導かれるままドアノブに触れると、確かに鍵は開け放たれていた。恐る恐る力を込め、純悟は部屋のなかへと進む。


 ドアを閉めながら、純悟は飛び込んできた目の前の光景に息をのんでしまう。玄関はもちろん、そこから奥へと続く廊下には、無数のダンボールが渦高く積まれていた。


 目を細め警戒心を高める純悟だったが、奥から聞こえた「こっちこっち~」という間延びした一声に、肩の力が抜ける。どうにもうろたえてしまうが、それでもとりあえずは靴を脱ぎ、ざらざらとした感触のフローリングを踏みしめながら奥へと進む。


 通路はそのまま、リビングの一室へと繋がっていた。ドアを開けると、椅子に腰かけていた“彼女”と不意に視線が交わり、思わず息をのんでしまう。

 “彼女”は格好こそ白シャツに短パンというラフ極まりないスタイルだったが、少しうねった長い“赤”の髪はあの日からなにも変わっていない。


「あんた――」

「よお、久しぶりぃ。なんだぁ、今日はリーマンスタイルじゃあないんだねぇ」


 呆然とする純悟を前に、“彼女”は赤ら顔でへらへらと笑ってみせた。テーブルにはすでにいくつもの缶ビールの空き缶が並べられており、つまみの袋が乱雑に散らばっている。


 あの日、純悟の命を救った女性――遊子屋結子ゆずやゆうこのその予想外の姿に、純悟は肩の力が抜けてしまった。


「待ってたよぉ。そろそろ、来るんじゃあないかって思ってたんだよね。ええと、確か、早乙女純悟さおとめじゅんご――君、だったっけ?」

「あ、ああ……どうして、俺が来たって分かったんだ?」

「勘だよ、か・ん。まぁ、お兄さんは遅かれ早かれ、私の所にやってくるとは思ってたからさぁ」


 なんともあっけらかんと言ってのける結子に、純悟は「はあ」と返すのがやっとだった。緊張の糸が緩んでしまった純悟に、結子は冷蔵庫へと向かいながら「座って座って」と告げる。


 予想だにしなかった状況に肩透かしを食ってしまう純悟だったが、近くの椅子に座りつつもリビングのその騒然とした景色をまじまじと観察してしまった。

 玄関や廊下同様、部屋の至る所に無数のダンボールが置かれており、その上に資料の束やたたまれていない衣類、はては口を縛ったゴミ袋の山が積まれていたりと、お世辞にも整頓されているとは言い難い。

 どうやら1DKのこじんまりとした物件らしいが、片付けられていないあれやこれやのせいでより一層、狭く感じてしまう。


 結子は冷蔵庫からペットボトルの烏龍茶とコップを持って帰ってくる。彼女はそれを注ぎながら、どこか嬉しそうに笑ってみせた。


「ごめんねぇ、散らかっちゃっててさぁ。片付けなきゃって思ってはいるんだけど、ついつい億劫になっちゃってて~」

「そ、そう……ていうか、あんた――こんな真昼間から飲んでるのか?」

「うん~。なにせ、一人でいるから暇でしょうがなくってね」


 言いながら「へへへ」と笑う結子に、なおも純悟はたじろぐ他なかった。まさか昼間から堂々と、赤ら顔で応対されるとは予想だにしていなかったのである。

 結子が「どうぞぉ」と烏龍茶を差し出してくるが、純悟はどうにも手を付けることができない。一方、結子はというと自身のコップになみなみ注いだそれを一気飲みし「ぶはぁ」と恍惚の表情を浮かべてみせた。


 かつて見た彼女の凛とした姿が、自動販売機の横で泥酔していたあの情けない像へとどんどん染まっていってしまう。“怪異”と対峙していた彼女と、目の前にいる酔っ払いが別人なのではないかと、純悟は内心、疑いの念を抱きつつあった。


 しかし、呆然としてしまう純悟に、唐突に結子は切り出してくる。


「あれからどう? この間みたいに、“やばいの”にちょっかいかけられたりしてない?」

「やばいの……それって、あの日の――ええと、あの“黒い奴”ってことか?」

「そうそう。どうやらお兄さん、“けがれ”と波長が合っちゃうみたいだからさ。あの時にしっかりと保護しておくべきだったかと、気になってたんだよねぇ」


 保護という言葉の意図するところが分かりかねたが、それでも結子があの日のことを語っていることを悟り、自然と純悟は前のめりになってしまう。


「“穢れ”――たしかあの時も、そう言ってたよな。あれは本当に……夢なんかじゃあないんだよな? この世界にはあんなのが、他にもいるっていうのか?」

「そうさ。まぁ、呼び方こそ色々だけどねぇ。幽霊、物の怪、妖怪、悪霊、怨霊――分類しだすとややこしくてかなわないんだ」

「そんな……そんなものが本当に、この世界に存在するなんて……」

「まぁ、信じられないのは分かるよ。“視えない人”らからすれば、こんなのはオカルトとか都市伝説の類だからねぇ。けどまぁ、私らみたいなのにとっては、あんなのは姿形こそ違うけどそこらじゅうにいて、当たり前のようにすれ違ってるもんさ」


 あっけらかんと言い放ち、結子は手元にあったピーナッツを口に放り込む。まがりなりにも客人がいる目の前で、まるで気を遣うことのない彼女の立ち振る舞いに純悟はどうにも調子を狂わされてしまった。


「ここまでどうやって来たの?」

「え……どうって、駅から歩いて――」

「そっかぁ。なら分かったと思うけど、この辺り、随分と人気がないでしょ? なにせこの一帯、“あんなの”がわんさかいるからさ。自然と人間のほうが立ち寄らなくなっちゃうわけよ」


 あんなの――その一言で純悟は「えっ」と思わず声を上げてしまう。


「この一帯って……まさか、またあの“黒い奴”が?」

「前の奴みたいに、悪意があるやつばっかじゃあないよ。ちゃんと対話できるのもいるし、言ったように姿形も色々。けれど、基本的に生きている人間とは波長が合わないから、知らず知らずのうちに互いが距離を置くようになっちゃうんだよね。それこそ、このマンションだって私以外、一人も住人は居ないんだ」


 先程から妙に静かだとは思っていたが、まさかこれだけの規模のマンションだというのに、住人が彼女だけだとは思いもしなかった。


 結子は皆まで語らないが、純悟は彼女の言葉の裏に潜む“意味”を理解し、どこか背筋が冷たくなる。彼は生唾で喉を潤し、恐る恐る問いかけてしまった。


「な、なぁ……それって、このマンションにも――そういうのが“いる”ってことか?」

「うん、そうだよ」


 真剣な純悟の問いに、なんともあっさりと結子は首を縦に振ってしまう。目を丸くしてしまう純悟だったが、結子が今度はスルメを口にしながら追撃してきた。


「それこそ、この部屋にもいるからね。ほら、あそこ」


 純悟は「えっ!?」と声を上げ、結子の指差す先を反射的に見つめてしまう。隣の部屋の奥――壁際にある備え付けのクローゼットが少しだけ開いているのが確認できた。


 その不自然な隙間はどこか不穏だったが、一方でどれだけ目を凝らしたところで純悟には何も見えない。目を細め、覗きこもうとする彼に気付き、結子は「ああ、そっか」とけらけらと笑う。


「まぁ、お兄さんには視えないかぁ。ごめんごめん! そうだなぁ――ちょっと待っててね」


 結子は立ち上がり、壁際に置いていたダンボールをいくつか物色し始める。純悟は椅子に座ったまま、「どこだったっけなぁ」と独り言をつぶやく結子の後ろ姿と、彼方のクローゼットを交互に眺める他なかった。


 やがてお目当ての品を見つけた結子が、意気揚々と戻ってくる。彼女の手には、なぜか細い銀縁の“丸眼鏡”が握られていた。

 首をかしげる純悟の目の前で、結子はその眼鏡のレンズに手をかざした後、「ふっ!」と何度か息を吹きかける。なにがしたいのか、いまいち純悟には理解しかねてしまうが、彼女はそれをどこか嬉しそうに手渡してきた。


「はい、これ! これかけて、もう一度見てみて」

「なんだよ、これ? ただの眼鏡にしか見えないけど……」

「まぁまぁ、いいからいいから」


 どこか不敵に笑う結子に不信感を抱きつつ、純悟はおとなしくそれをかけてみる。どうやら度は入っていないようで、レンズ越しの風景は特に姿形を変えはしない。


 酔っ払いにからかわれているだけなのでは、と不安になってしまう純悟だったが、再び部屋奥のクローゼットに視線を投げ、思わず呼吸を止めてしまった。


 わずかに開いたクローゼットの隙間から、こちらを見つめる“それ”と目が合ってしまう。あまりにも予想だにしない状況に、背筋を電流のような感覚がさかのぼり、全身が硬直した。


 クローゼットのなかから、“女”がこちらを覗いている。


 白い肌に大きく見開いた目、一切の光沢を失った長い黒髪の女性が、まばたき一つせずにこちらをじいと見つめているのだ。


 純悟にはそれが、“人ならざる者”であるということがすぐに理解できてしまう。

 女性の顔はクローゼットの中から真横になりこちらを覗き込んでいるのだが、彼女の髪の毛は重力に逆らい、首と同じ方向へと伸びている。彼女だけがこの世の“理”から外れ、それでもそのクローゼットの中に確かに存在しているのだ。


 予期せぬ事態に、呼吸が乱れていくのが分かった。だが、そんな純悟の肩を不意に結子が叩く。「ひっ」と声を上げて視線を戻す純悟のすぐ目の前に、赤ら顔で笑う結子がいた。


「ねっ、嘘じゃないでしょ?」

「な、なんだよあれ!? なんで、あんなのが――」

「落ち着いて落ち着いてぇ。なんにも悪さなんかしないからさぁ。久々のお客さんで、“あの子”も珍しがってるんだよ」


 あっけらかんと言いながら、結子はクローゼットの奥の“それ”に向けて「ねえ?」と声をかける。一方、こちらを覗き込む“彼女”はまるで動じることなく、ただひたすら純悟の顔を凝視するのみだった。


「“彼女”、前にこの部屋に住んでいた子らしいんだ。不運なことに、急性心不全で“孤独死”しちゃったみたいでね。以来、“地縛霊”になってここにずっと残り続けてるんだよ」

「地縛霊……ゆ、幽霊ってことか!?」

「そうそう。まぁ、ちゃんと“あの子”とは話をつけてるから、変なことはしないよ。悪い子じゃないから、そう警戒しないで」


 警戒するな、とは言われてもそれはどだい無理な話だろう。こうしている今もなお、クローゼットの隙間には確かに青白い顔の“女”がいて、こちらを見つめ続けているのだ。


 純悟は気が付いた時には、おびただしい量の汗を全身に浮かべていた。眼鏡をかけたまま、レンズ越しに結子を睨みつけてしまう。


「ちょ、ちょっと待ってくれ……確かさっき――このマンションのなかにも、ああいうのがいる――って言ってたよな?」

「そうさ。どうせだから、それで視てみたらいいよ。何事も、“百聞は一見に如かず”っていうしね」


 意気揚々と言う結子に対し、純悟はまるで笑みなど浮かべることができない。だが、結子に促されるまま、恐る恐る廊下側の窓を開き、その隙間から外をうかがってみる。


 そこに広がっていたのは、まさに“異界”の光景であった。


 先程まで純悟が通ってきたマンションの通路には、そこかしこに不可解な“怪異”が蠢き、闊歩している。腕がない一つ目の大男や、無数の頭が組み合わさった球体。奇妙な煙を口から吐き出す四つ足の女や、鉄骨が首に刺さったままの中年男性と、所々が透けた奇々怪々なる存在たちがそこらじゅうを埋め尽くしている。


 呼吸を止め、唖然としてしまう純悟の目の前を、体中から植物が生えた女がふらふらと歩いていく。その姿に悲鳴を上げそうになってしまう純悟だったが、結子がぴしゃりと窓を閉め「はい、ここまで」と軽快に告げた。


「どう、ちゃんと視えた?」

「な……あぁ……」


 純悟は背後の椅子にへたり込み、ぜえぜえと呼吸を繰り返す。湧き上がった汗をぬぐうことすら忘れ、眼鏡越しに隣に立つ結子を見上げてしまった。


「その様子だと、ばっちり視えたみたいだねぇ。あれが、“私たち”が視ているものさ。普通の人間はまず、出会うこともない存在だよ」

「あんた――平気なのかよ? あ、あんなのが山のようにいる中で――なんで、普通に暮らしていけるんだ!?」

「まぁ、昔から慣れっこだからねぇ。私みたいなのにとっては、珍しい存在でもないわけ」


 いつのまにか結子は新たな缶ビールを手にしており、乾いた音を立ててそれを開ける。ぐびりと一口を飲み干し、「ぶはぁ」と生温いため息をついてみせた。


 ゆるゆると立ち振る舞う結子を前に、純悟の体内には忘れかけていた不安や恐怖が蘇り、再び混乱となって渦巻き始める。


「さっきも言ったように、見た目こそ私らとは違うけど、だからといって悪い存在ばかりじゃあないのさ。けどこの間みたいに、ときには生きている人間にまで手を出す、ちょっと困ったやつもいる。私はそういう“厄介者”を成敗する、まあいわば“祓い屋”ってところだね」

「祓い屋――あんた……あんた一体、何者なんだ!? なんで、そんな力が――」

「まぁ、昔に色々あったわけよ。人によっては忌み嫌うものだけど、それでも私はこの力には“意味”があるんだと思ってる。特にこの東京って街は、人が多い分、“穢れ”も山のようにこびりついてるんだ。私はそれを少しでも、綺麗さっぱり洗い流したいわけだよ」


 ビールをちびちびと口にしながら、結子は再び対面の椅子に腰かける。彼女が「ほい、これ」と渡してくるティッシュを使い、ようやく純悟は顔の汗をぬぐうことができた。


 なにからなにまで規格外の話ばかりで、純悟はついていくのがやっとであった。だが、どれもこれも確かにこの身で体験した、“真実”なのだと理解してしまう。


 この部屋にはクローゼットに居座る“地縛霊”がいて、マンション中――いや、おそらくこの近辺一帯に様々な形をした“怪異”が実在している。

 何気ない日々を送る人間たちにとっては一生、触れ合うことのない存在たちが、それでも確かにその日常の裏側に存在しているのだ。眼鏡越しに見た景色の数々が、理屈ではなく本能へと訴えかけてくる。


 どれもこれも、確かな事実なのだ。目の前のこの女性は何一つ、嘘などついていない。


 純悟はようやく眼鏡を外し、大きくため息をつく。目元の汗をぬぐい、いまだ呼吸が荒いままそれでも結子に向き直った。


「信じれない……け、けれど……全部、事実なんだな。俺らが暮らしていた世界には、ああいう存在がいて……あんたは、そういうのとずっと関わり続けてきたわけか」

「おお、意外に呑み込みが早いねぇ。優秀優秀」


 にっこりと笑う結子を見ていると、やはり肩の力が抜けてしまう。彼女の人柄か、あるいはその破天荒な立ち振る舞いのせいか、いずれにしても混乱にからめとられようとしている純悟にとってはその気安さが随分な救いとなっていた。


「色々と理解はできたよ。け、けれど……だからといって、どうすれば? 俺はこれから、あいつらを無視しながら、知らない振りをして暮らしていけ、と?」


 改めて純悟は、なぜ自分がここへやってきたのかを、自問自答してしまった。

 あの夜、自身が出会った“怪異”や、遊子屋結子という女性の関係性はある程度見えてきた。だが一方で、それを知ったことで純悟が抱いてきた心のわだかまりが解消するのかと言えば、それは否だ。


 むしろ、これまで知り得なかった様々な“理”を知ってしまったからこそ、この世界で生きるということそのものに、漠然とした不安を抱えてしまう。

 きっと見えないだけで、“あれら”はそこら中にいる。そしてある日突然、夜の街でそれと対峙し、今度こそ食らいつくされてしまうかもしれない。

 そう思うだけで、自然と指先が震えてしまう。自身が覗きこんでしまった“闇”の深さに、わずかばかりの後悔すら湧き上がってきていた。


 そんなうろたえる純悟を前に、結子は缶ビールを傾け、ぐびぐびと飲み干す。彼女の「ぶはぁ」という無遠慮な吐息と酒臭さが、純悟の思考を現実へと引き戻した。


「まぁ、無理だろうね。知った以上、人間ってのは自然とそれを意識しちゃうもんだからさ。視えないものってのは、視ようとしてしまうと必然的にめぐり合っちゃうもんだよ」

「じゃ、じゃあ、どうすれば――!」

「そこで、だ。ちょっとした提案があるんだけどね?」


 食い気味に言葉を遮られ、純悟は「えっ」と声を上げてしまう。テーブルを挟んだ結子の顔は先程より紅潮していたが、一方でその不敵な笑みはなんら変わることがない。


「お兄さんと“あれら”がそうだったように、人と人にも“波長”ってのがあると、私は思ってるんだよ。あの日、私を介抱してくれた親切なお兄さんが、私に助けられた――これって、なんだか“運命”めいたものを感じない?」


 唐突な問いかけに、純悟はなんと返すべきか困ってしまった。だが、言い澱む純悟にはお構いなく、結子は話を進めてしまう。


「実をいうとさ、私、この“力”を活かしてなにか一仕事しようかと、あれこれ考えてたんだよ。けれど、こんな無茶苦茶な話に付き合ってくれる“協力者”ってのが、なかなか見つからなくてさ。このマンションも元々、自宅兼“事務所”にするはずだったんだけど、いまだにこんな状態なわけよ」

「はぁ、そうなのか……」

「そこでさ。もしよければ、私と一緒にやってみない? “祓い屋”としてのお仕事を、さ」


 一瞬、なにを言われたのか理解できず呆けてしまったが、すぐに純悟は目を丸くし「えぇ?」と驚く。その反応がおかしかったのか、結子は「へへへ」と嬉しそうに笑った。


「お、俺が? 冗談だろう。俺なんてあんたと違って、なんの力も持たない凡人なんだぜ?」

「“祓い屋”としては私がきっかり仕事するから、要は雑務とか、力仕事とかを手伝ってくれる“相方”が欲しいんだよぉ。どうせお兄さん、お仕事にもついてないから、お互い“ウィン・ウィン”かなぁ、って思ってさぁ」


 突拍子もない提案に驚いていた純悟だったが、それ以上に目の前の彼女に“無職”であることを言い当てられ、唖然としてしまう。思えば彼女は自身がこのマンションについてからずっと、なぜかこちらの言動を一足先に察知してしまっている。


 これもまた、彼女が持つ“力”の一端なのか。不思議そうにその顔を覗きこむ純悟に、なおも缶ビールを片手にした結子は無邪気に笑った。


 窓の外からは、ざああという強い雨の音が聞こえてくる。どうやらいよいよ本降りになってしまったようで、部屋の擦りガラスを雨粒が叩くたび、老朽化した窓枠がぎしぎしと音を立てて軋んだ。

 そのやかましさに振り向いてしまう純悟だったが、結子は「あららぁ」と声を上げ、持っていた缶ビールを飲み干してしまう。


「まぁ、じっくりと悩んで決めればいいさぁ。せめて、雨が止むまで――私もお兄さんも、時間だけはたっぷりあるだろうからね?」


 再び向き直った純悟の前で、結子はまた一つ、新たな缶を手に取る。赤ら顔で「へへへ」と笑う彼女の姿を前に、やはり純悟はため息をつくのが精いっぱいであった。


 おかしな女性だ――そんな間の抜けた感想を抱く純悟を前に、結子はどこか嬉しそうに缶ビールを開ける。


 カシュリ、という乾いた音が散らかった部屋の空気を小気味よく揺らす。

 楽しそうに語る結子と、彼女のペースに飲まれっぱなしな純悟の姿を、クローゼットの隙間からなおも不可視の“彼女”はじいっと見つめ続けていた。

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