第15章 凶行

 純悟は片膝をついたまま、未だ立ち上がれずにいた。蹴り飛ばされた痛みは確かに腹部に残っているが、そんなことよりも目の前に立つ“彼”の黒い姿を見つめるだけで、身動きを取ることができない。


 ただ目の前に男が立っているというだけなのに、純悟には眼前に広がる薄汚れた厨房の光景が、ひどく浮世離れしたものに見えてならない。数々の凶器を使いこなし、純悟らの命を狙い追いかけてきていた“殺人鬼”のその首から上だけが、かつて二人に依頼をもちかけてきたあの御曹司のものにすげ変わったように、浮き上がって見える。


 そこに立っているのは、確かにこの豪邸の持ち主であり、二人に“穢れ”の浄化を依頼した富豪・諏訪京志郎その人だ。軽く汗を拭いとる彼に、純悟はなおも狼狽したまま情けない声を上げることしかできない。


「どうして……なんであんたが……」


 まるで問いが形を成さない純悟を前に、やはり諏訪はまるで動じることなどなく、あくまで爽やかに、優雅に笑ってみせる。


「いやぁ、素性を隠したままあなたたちを“始末”できれば良かったんですがねぇ。そちらの彼女ならまだしも、まさかあなたにしてやられるとは思いませんでした」


 諏訪のその言葉に険しい色は見えない。かつて事務所で会ったときのままの彼の何気ない態度が、より一層、純悟の頭を混乱させてしまう。

 

 なぜ、“穢れ”退治を依頼した彼が、この場所にいるのか。

 なぜ、彼が素性を隠し、純悟らに襲いかかってきたのか。


 その何一つを理解できないままの純悟の隣で、結子がどこか悔しげに言葉を絞り出す。彼女は打ち付けられた頭部の傷を手で押さえたまま、明確に目の前に立つ諏訪を睨みつけた。


「やっぱり、あんただったんだね。私らを襲っていたのも……あの地下室で動物や――“彼女”を痛めつけたのも」

「おやおや、やはりあなたは気付いていたんですか。改めて、こうして直接現場にやってきて正解でしたよ。もし、あなた方がこの屋敷から脱出でもしようものなら、その事実を警察かなにかに暴露されかねない。そうなると、僕としても結構、まずい状況になってしまいますからね」


 あくまで諏訪は態度を変えることなく、どこか悠然と語ってみせる。彼は決して動じることはなかったが、一方で純悟は相棒の“祓い屋”が放った一言に、思わず振り向いてしまった。


「なんだって……あの地下室の死体を……こいつが?」

「あくまで推測だったんだけどね。やれやれ、どうやら嫌な予感が的中しちゃったらしいよ。地下で見た動物の骨も、女性の死体も――全部、“こいつ”の仕業なんだ」

「そんな……じゃあ――!!」


 改めて二人の視線が目の前の黒い姿に集中する。しかし、なおも困ったように肩を揺らし笑ってみせた“襲撃者”の姿に、純悟の背筋がぞぞと震えた。


 結子がたどり着いたその答えに、純悟はまだ思考がうまく追いついていかない。自分たちと協力していたはずの依頼主が、突如襲いかかってきた“殺人鬼”と同意だということを、脳みそがどうしても理解しようとしてくれないのだ。


「いやはや、焦りましたよ。あの“獣”を退けたところまでは想定内だったんですが、まさか隠し部屋を見つけられるとはねぇ。まったく、“あの女”は死んでまで僕に迷惑をかけるんだから、たまったもんじゃあないですよ」


 諏訪の放った“あの女”と言う単語に、純悟は思考を巡らせていく。いささか奇妙な諏訪の言い分に、彼から視線を逸らさないまま、その真意を必死に考えてしまう。


 彼が語っている“あの女”とは、間違いなく地下室で亡くなっていた女性のことなのだろう。諏訪が間違いなく彼女を殺害したと言う事実にも戦慄してしまうのだが、一方で“死んでまで迷惑をかける”という言い回しが、妙に引っかかった。


 押し寄せる疑問の数々に飲み込まれそうになる純悟を、やはり隣にいる結子が救いあげる。彼女が絞り出した苦々しい一言は、混乱する純悟の意識を一気に覚醒させてしまった。


「そういうことか。全部、繋がったよ。純ちゃんを追いかけてきたあの女の“霊”――あれは、地下室で死んでいた、彼女だったんだね」

「そんな……じゃああれは、“穢れ”なんかじゃあなかったのか?」

「ああ。死んだ女性の強い念が、この屋敷に縛られ、焼きついたものなんだ。彼女は純ちゃんを襲おうとしたんじゃあない。自分があの地下室にいるってことを、どうにかして伝えたかったんだよ。だから――」


 純悟の脳裏に、かつて遭遇した巨大な女性の“霊”の姿が想起されていく。その異質な姿に怯え切っていた純悟だったが、一方であの時起こった数々の“不可解”に対する答えが、脳内で一気に弾けていった。


 “彼女”はただ、分かって欲しかったのである。偶然、屋敷のなかで出会った純悟に対し、自身が地下室に縛り付けられたまま事切れていることを、分かって欲しかったのだ。

 だからこそ、数々の記憶――隠し通路の入り口や、その先に待つ地下室の光景を、せめてもと純悟の脳裏に刷り込み、流し込んだのである。


 一つの答えに辿り着いたことで、ようやく純悟の思考が一歩前進する。彼は再び強い眼差しを、目の前に立つ“彼”へと向けた。


「あんた、何者だ……この屋敷で……何をやっているんだ?」


 問いを受けた諏訪は、しばし答えずに考え込んでいた。だがやがて、彼は微かな笑みを浮かべたまま、肩の力を抜いた自然体で語り始める。

 今日、この時までに彼が行ってきた、すべてを。


「思えば、幼い頃からなんですよ。なにかが傷つく姿を見るのが、たまらなく好きでしてね。思い返せば幼稚園児の頃から、虫や金魚、近所の野良犬や野良猫を痛めつけては、楽しんでいました。“破壊衝動”というやつでしょうか――大人になっても、その困った“癖”だけは、どうにも捨て切ることができずにいたんです」


 彼の口から語られるおぞましい事実に、純悟らは戦慄してしまう。息をのみ、唖然としたままの二人を前に、諏訪だけはまるで緊張することもなく、ただただ雄弁に事実を語り続けた。


「社会的地位を得てしまうと、色々とやり辛くなるものでしてね。この“趣味”を続けるために、わざわざ隠し通路や秘密の地下室――僕は“実験室”と呼んでましたが――そういうものを用意する必要があったんですよ。しばらくはそこで、連れ込んだ動物を痛めつけたり、解体して遊んだりしていました」


 淡々と語る諏訪の姿を前に、純悟は瞬き一つできず、乾いた眼で彼を見つめるほかなかった。

 なぜ、そんなおぞましい事実をああも雄弁に、流暢に語ることができるのか、純悟にはまるで理解することができない。


「けれどまぁ、人間の“欲望”っていうのは厄介なものでしてね。犬や猫を痛めつけるだけじゃあ、もう到底、満足できなくなってきてしまうものなんですよ。だから僕はこの趣味を、新しい段階に進ませることにしたんです」

「新しい段階……だと?」

「ええ。あの手この手で勧誘した馬鹿な連中――人間を狩ることにしたんです」


 にっこりと笑ってみせた彼の姿に、またしても純悟らの背筋を冷たい感覚が撫で付けた。二人がうろたえる姿すら諏訪はどこか楽しみながら、時折、手にした棍棒をくるくると回し、楽しげに語ってみせる。


「世の中には、いわゆる“社会的弱者”っていうのが大勢いますからね。まぁ、大抵は金に困った学生や仕事を失った大人なんかがそうです。適当な理由をでっちあげ彼らを呼び出し、特定の“箱庭”に放り込んで追い込んでいくんですよ。これがまた、楽しくって楽しくって」


 柔らかに笑う諏訪のその表情に、明確な“闇”が張り付く。純悟がそのどす黒さに気圧されてしまうなか、結子はなおも強い口調で彼に切り返していった。


「それが、今のその格好ってわけか。“破壊衝動”を満たすために、騙して連れてきた人間を追い回し、痛めつける――とち狂った金持ちの道楽ってわけだ」

「まぁ、僕自身、とても下衆な行為なのだということは理解しているつもりですよ。けれど、一度この感触を味わったら、もう元には戻れません。バレるのではと思いはしても、ついつい、次の“獲物”を求めてしまうんですよね」


 純悟は心の中で、「なんてことだ」と叫んでしまう。自分たちと対峙する諏訪京志郎という人物のおぞましい本質が、彼にもようやく理解でき始めていた。


 人は大人になるにつれ、常識や倫理、道徳といったものを学び、ある種の“枷”を己の中に生み出す。その“枷”があるからこそ、人は咄嗟に湧き上がる衝動を抑え込み、社会という枠組みのなかで一線を超えず、生きていくことができるのだ。

 目の前に立つ諏訪という男に、そのような“枷”は存在しない。一切の鎖に縛り付けられない彼の心は、ただ奔放に、無邪気に、己の欲を満たすために行動し続けたのだ。


 時に人は、それぞれの理由からその一線をこえ、誰かを傷つける。強い恨み、湧き上がった悪意、不可抗力。

 一方で諏訪にそのような対外的な理由は何もない。彼は正真正銘、ただただ“傷つけたい”という欲求が赴くまま、今日に至るまで多くの存在に傷を負わせ、そして“命”を奪ってきた。


 そのどす黒い本性に、気が付いたときには純悟の全身が震えていた。対峙しているそれは確かに一人の男性だが、これまで出会ったどんな“霊”や“穢れ”なんかよりも黒く、底無しに深い“闇”をその肉体のうちに秘めていたのだ。


 普通ならばこのような凶行は、いとも容易く露見してしまうのだろう。しかし、諏訪には両親から受け継いだ有り余るほどの財力があった。彼はそれを駆使することで、湧き上がった欲求を密かに見たし続けたのだろう。


 それが、諏訪京志郎という男性の本性だった。彼は多くを授けられた富豪でありながら、同時に決して満たされることのない“渇き”を満たそうと暴走し続けた、無秩序な殺戮者なのだ。


 純悟と結子の肌を、ぴりぴりとした微かな刺激が襲う。今、自分たちが対峙している“それ”が、意図も容易くなにかを殺める、狂人なのだと理解してしまったがゆえであった。


 なに一つ声を上げることができない二人を前に、諏訪は「ふう」と大きくため息をつく。彼は後ろ頭をかき、どこか困ったように笑ってみせた。


「けれど、あの怪物――あなた方の言葉を使うなら、“穢れ”ですっけ? あれが屋敷で現れてからは、うまくいかないことばかりでしてねぇ。屋敷の使用人が次々に辞めていってしまうだけならまだしも、ついには“あの女”が僕の趣味に口を出すようになったんですよ」

「あの女……地下室にいた彼女か。あの人は一体――」

「まったく。昔から口うるさかったのですが、『警察にばらす』と言い出した時は、いよいよこちらも我慢の限界を迎えてしまいましてね。いい加減、一緒に住むのも煩わしかったので、ああやって“実験材料”にしてやったんです」


 地下室で死体となった“彼女”のことを語る諏訪は、なぜか先程までよりも気持ちが弾んでいるように見える。だが一方で、彼が語る言葉の数々から、純悟と結子は少しずつ、その“彼女”と諏訪の関係性を推測していった。


 昔から口うるさかった。

 我慢の限界。

 一緒に住んでいた。


 訳の分からないそれらの点が、徐々に、一人でに脳裏で紐付き、一本の線となって走り始める。

 

 確証はない。だがそれでも、二人の脳裏にはあるおぞましい“答え”の輪郭が浮かんでいた。

 その朧げな姿を捉えた瞬間、純悟は自身の肉体に湧き上がっていた震えが、確かに止まるのを感じてしまう。


 認めたくなどなかった。だがそれでも、どこか自然と、純悟は目の前の“狂人”に問いかけてしまう。

 それを知ったところで、何になるわけでもないのだろう。だがそれでも、純悟は地下室で目の当たりにしたものの正体を、諏訪に問うてしまう。


 地下室で椅子に縛り上げられ、身体中を欠損し事切れていた“彼女”は、一体。


「あれはなんだ……あの人は……地下室にいた“彼女”は、誰なんだ!?」


 語気を荒げる純悟の姿を、一瞬だが結子も横目で見つめてしまう。しかし、彼女もまたすぐに視線を目の前に立つ諏訪へと戻した。


 二人がしっかりと見つめるなか、やはり諏訪はわざと一拍を置く。彼が放った熱く、重いため息が、埃っぽい厨房の空気をわずかに揺らす。


 丸眼鏡をかけた清掃員と、“紅蓮”を纏う祓い屋、そして黒に染まった御曹司。

 三人の呼吸がそれぞれのリズムを刻むなか、あまりにもあっさりとその“答え”が放たれる。

 “彼女”を屠り、蹂躙した、彼のその口から。


「あれは、僕の“母”ですよ。あなた方には里に帰ったと嘘をついていましたがね」


 一瞬、確かに二人の呼吸が止まった。だが一方でそれぞれの肉体の奥底で鳴動していた心臓が、より一層強く、激しく体内を打ちつける。


 加速する呼吸、湧き上がる汗、滾る熱。

 震える肉体、乾いた眼、軋む骨。

 ありとあらゆる混乱を背負い、純悟はそれでも前を向く。


 なぜかひどく空虚な感覚が、全身を包んでいた。会ったこともなければ、一度たりと会話もしたことのない“彼女”と言う存在が辿った末路を思うだけで、色の異なる無数の感情が湧き上がり、脳内を乱反射していく。


 ずきずきと頭が痛んだ。体が軋み、崩壊していくような感覚を抱いたまま、純悟は痛々しいほどに歯を食いしばる。

 顔を真っ赤にした彼の目には、わずかばかりの涙が浮かんでいた。気がついた時には純悟は拳を握りしめ、痛いほどにそれを震わせてしまう。


 そんなことがあっていいはずがない。

 そんな無慈悲なことが、この世界で起こっていいわけがない。


 そんな、ともすればわがままとも捉えられる一念が、純悟を突き動かす。

 彼は気がついた時には、己の内に渦巻いていた感情を、言葉に変えて爆発させてしまった。


「お前……実の母親を――殺したのかッ!?」


 純悟の咆哮を受けてもなお、諏訪は悠然と立ち、静かにこちらを見つめていた。首を縦にも横にも振らなかった彼の姿が、何一つ言葉を介さずとも、その“答え”を導き出してしまう。


 多くの“穢れ”と対峙し、渡り合ってきた結子ですら、対峙したおぞましい存在を前に身を震わせてしまう。

 赤を纏うそのか細い肉体の奥底に、激しい怒りと、それを覆い隠すほどの絶望的な悲しみが湧き上がり、暴れ始めていた。


 荒れ狂う感情に突き動かされる二人を前に、なおも“彼”は静かに立っている。

 どれだけ激しい憤りを叩きつけられようとも、諏訪という名の黒き“怪物”はただただ微笑を浮かべ、無機質なため息をつくのみであった。

 

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