第16話 憤怒

 人は誰しも母親の肉体から産み落とされ、誰かの子供としてこの世に生を受ける。それは人間のみならず、この世界に生きとし生ける者すべてに共通する理だ。


 ましてや人間は、産み落とされた瞬間に母親と自分の間に“家族”という明白な繋がりを作り上げ、後に続く人生の多くの時間を共に暮らし生きていく。


 実家を出て都会で暮らし、茫漠と過ぎていく日々のなかで、それでも純悟は今でも確かに遠い故郷で暮らしているであろう母親の姿を思い浮かべることができる。

 ときには彼女が注ぐ強い思いを煩わしく感じたことすらあったが、大人になった今、それでも彼女がいつでも自身の背を押し、支え続けてくれたのだと、ときおりしんみりと考えてしまうこともあった。


 だが、目の前に立つ彼――諏訪京志郎という男が抱く、母親への感情はまるで異なるものであった。


 純悟には彼がどのように育ち、母親とどんな関係性を築いてきたかは分からない。もとより、生まれながらにしての大富豪が抱く感情や価値観など、どれだけ頭を悩ませたところで純悟には想像できないものなのかもしれない。


 過去を知らずとも、互いの関係性が分からずとも、それでもただ一つだけはっきりとした“事実”があった。そのシンプルかつ鮮烈なリアルが、純悟の肉体を真正面から貫く。


 目の前に立つ彼は確かに言ったのだ。自身の母親を――殺した、と。


 呼吸を止め、まばたきすら忘れる純悟の目の前で、諏訪はなおもへらへらとした笑みを浮かべていた。彼は手にした革張りの棍棒をくるくる回しながら、肩の力を抜いて立ち振る舞う。


「あいつは――母は昔から、僕がこのどうしようもない“癖”を抱えていることを理解していました。けれど、そのうえで周囲にバレることを恐れ、野放しにし続けていたんです。ときには僕が殺めた動物の痕跡を、頼んでもいないのに後始末してくれたりと、なにかと便利な存在だったんですけどね。ただ歳のせいか、長年抱えてきた罪悪感に勝てなくなってきたんでしょう。まったく、老いておとなしく隠居するならまだしも、こちらの足まで引っ張るなんて、煩わしいことですよ」


 悠然と語る諏訪のその表情に、彼が口にした“罪悪感”の陰りなどわずかばかりも見えはしない。彼は正真正銘、自身が殺めた母親のことを“煩わしい”程度にしか感じ取っていない。


 その無機質極まりない男の姿に、純悟、結子が戦慄していく。なおも諏訪は棍棒を揺らしながら、ついには笑い声まであげてみせた。


「しかしまぁ、死ぬ寸前まで頑固な女でしたよ。てっきり心が折れて命乞いでもするのかと思えば、最後の最後まで僕に『馬鹿な事はやめて』――と、訴え続けたんですから、たいした道徳心だ。腕を切り取って、腕をもいでもなお意思が変わらないとは、案外、できた母親だったんじゃあないですかね?」


 諏訪のそのリラックスした一言が、またしても純悟の心臓を鷲掴みにし、不規則に鳴動させた。どぐん、という鈍い音色と共に、彼の全身を駆け巡る血流が痛いほどに加速していく。


 純悟の脳裏には、地下の隠し部屋――諏訪の“実験室”で見た、“彼女”の死体の姿が鮮明に蘇っていた。枯れ木のように痩せ細り、そのうえで全身をくまなく痛めつけられ、拘束され放置された“母親”の遺体の記憶に、純悟は思いを巡らせてしまう。


 彼女がどんな人物だったのかは、定かではない。だがそれでもきっと、彼女は目の前に立つ彼――京志郎と名付けた息子を、大事に育て上げてきたのだろう。

 たとえ息子が他者を痛めつける“破壊衝動”を有していたとしても、彼女は恐怖を押し殺し、知りながらにしてそれを黙殺し続けてきたのだ。


 それが母親として、正しかったかと言えば否なのかもしれない。どんな事があろうと、息子が間違った道に足を踏み入れるなら、それを正してやるのが母親のすべきことだったのかもしれない。


 けれどもなぜか、純悟は死体となった“彼女”を責め立てることができない。一度も話したこともなければ、生前の正しい姿も知らない彼女に対し、なぜかその存在を否定することができないのだ。


 体を拘束され、肉体を刻まれ、叩かれ、穿たれ――四肢を失ってもなお、彼女はきっと訴え続けたのだろう。罵るでもなく、泣きつくでもなく、京志郎が改心し、凶行をやめてくれることを願って。


 最期のそのときまで彼女は、目の前にいる息子を信じたのだ。


 事切れ、死体となり放置された“彼女”の激情が純悟にも伝わってくる。だが目の前の諏訪は構うことなく、ついに視線を片膝で立ったままの結子へと向けた。


「なにからなにまで暴かれてしまいましたが、それでも特に問題はないですよ。むしろ、これはこれでとても面白い事態になったと喜んでるんです。特にあなたは素晴らしい。“化物”と真っ向から戦うことができる女性を“解体”できるなんて、なんだかワクワクしてしまいますよ」


 一歩、諏訪が前へと足を出す。ブーツが薄暗い厨房の床を踏みしめる音が、二人の意識を覚醒させていく。


 研ぎ澄まされた感覚のなか、純悟はまばたき一つせず、凶器を手にした諏訪の姿を見つめる。歯を食いしばり彼を見上げる結子に対し、なおも“殺人鬼”は嬉しそうな笑みを浮かべていた。


「まずはその肉体の叩き心地から、試しましょうか。大丈夫、すぐには殺したりしませんよ。そんなことしても――つまらないでしょう?」


 誰かを傷付けるという愉悦に満ち満ちた彼の笑みが、二人にとってはただひたすらにおぞましかった。“穢れ”でもなんでもない生身の人間のはずなのに、諏訪という男の体から滲み出る黒く、どこまでも深い“悪意”に全身の細胞が粟立つ。


 諏訪のその姿を前に、純悟の鼓動がまた一つ、強く体内を打ち付ける。人の姿をした“人ならざる者”を前に、特上の恐怖が眼前から襲い掛かり、肉体へと纏わりついた。


 肉体と精神が震えていく。身をすくませながらも純悟は、目の前で起ころうとしている事態を両目でとらえ、そしてシンプルに汲み取っていった。


 諏訪はまだまだ、楽しむつもりなのだ。“狩人”として、この屋敷に迷い込んだ新たな獲物を痛めつけるべく、手にした武器を存分に振るっていくのだろう。


 彼の視線の先には結子がいる。決して負ける気などない強い眼差しを抱いた彼女に、諏訪はそれでもどこか嬉しそうに近付いていった。


 またしても純悟の脳内に、“彼女”の亡骸が浮かんだ。そしてなぜかその顔が、今、目の前に立つ“赤”一色の彼女のものにすげ変わってしまう。


 諏訪はこれからも、まだまだ殺すのだろう。己の衝動に突き動かされ、道徳も倫理も捨て去り、進み続けていくのだ。


 そこまで考えたとき、自然と純悟の肉体が動いていた。彼はすぐ脇に落していたモップの柄を反射的に掴み取り、力強い一歩で体を前に押し込む。


 結子はもちろん、諏訪もまた、その咄嗟の行動に目を見開いてしまう。彼らが動揺するなか、気が付いた時には純悟がモップを振りかぶり、両の腕にあらん限りの力をこめていた。


 なぜだか、自身でも理解できない。だがそれでも純悟は、肉体の奥底に宿る強烈な“思い”を胸に、固まりかけていた肉体を再始動させた。


(――やめろッ!!)


 一撃、渾身の力を込めて真横にモップを振りぬく。しかし、純悟のそれを諏訪は悠々とかわしてしまった。


 また一撃、切り返すようにモップの先端が空気を斬り裂く。諏訪は一歩後退しながら、「ははっ」と目を丸くして笑ってみせた。


「驚きましたね。てっきり、怖くてしょげかえってるばかりの“ポンコツ”かと思ってましたが。意外と男気があるのかもしれませんね」


 さらに一撃、純悟は叩きつけるようにモップを振り下ろす。しかし、これも諏訪はひらりと身をかわし、直撃を避けてしまった。


 結子が「純ちゃん!」と叫ぶ声が聞こえる。なおも純悟は歯を食いしばり、眼前でヘラヘラと笑う“殺人鬼”を食い止めるため、手にした唯一の武器を振るい続けた。


 だがやはり、“暴力”に関しては諏訪のほうが一枚上手だ。彼は純悟の一撃を避けながら、まるで躊躇することなく距離を詰めてくる。


 純悟が「あっ」と声を上げるなか、諏訪はすでに手にした棍棒を振りかぶっていた。


「けどまぁ、余計なことはしないでいただきたい。無力なら無力らしく、隅っこで縮こまっていてくださいよ!」


 やはり諏訪は躊躇などすることなく、一撃を振りぬいた。大振りのモップとは違い、棍棒の先端は純悟の顔面を的確に捉え、彼の顎を真上にかちあげてしまった。


 骨と肉が衝撃で弾かれる、鈍い音が響く。大きく体勢を崩す純悟の姿に、ついには結子までも言葉を失ってしまった。


 純悟の意識が激痛により刈り取られていく。視界がぼやけ、足腰の感覚がおぼろげに霞んでいった。渾身の一撃が命中したことで、諏訪も思わず口の端に笑みを浮かべてしまう。


 純悟の全身に滾った力が、刻まれた痛みによって消えかけた。膝ががくりと崩れ、真下へと彼の肉体が落ちていく。


 気を絶しかけるそのさなかで、やはり純悟の眼は目の前に立つ“彼”の姿を捉える。真っ黒なアーミースーツに身を包み、明確な凶器を手にし、歯を見せて笑う諏訪京志郎の姿を。


 彼はやはり、無邪気な笑みを浮かべていた。それは狂気的というよりむしろ、どこまでも無垢な“少年”のような輝きに満ち満ちている。


 そんな諏訪の姿を前に、たしかに純悟の肉体にはとめどない恐怖が絡みついてくる。だが一方で、押し寄せる“黒”を退ける確かな熱が、肉体の奥底からとめどなく湧き上がってきていた。


 対峙した諏訪という男の“穢れ”を知らぬ殺意を前に、純悟の体内で激しい感情が暴れ狂う。


 気を絶しかけた純悟の肉体を、その激しい“怒り”が突き動かしていった。


「――えっ?」


 声を上げたのは諏訪だけではない。二人の激突を俯瞰して見ていた結子までも、そんな端的な一言を漏らしてしまった。


 倒れかけた純悟は踏みとどまり、そのままさらに前へと肉体を加速させる。彼は両手で握りしめたモップの柄を、諏訪の胸に真正面から叩きつけた。


 細身のモップゆえに、決定的な一撃になどなりはしない。だがそれでも、純悟はモップを押し付けることで諏訪の動きを抑え込み、そのまま彼の体を前へと押し込んでいった。


 その凄まじい勢いに、さしもの諏訪も困惑せざるをえない。だが一方で、やはり離れた位置から見ていた結子だけが、そのほんのわずかな変化に気付き、息をのんでしまう。


 一瞬、純悟の背に被るように、長い“黒髪”が見えた気がした。結子はその正体を自身の力で読み取ろうとしたが、構うことなく純悟は歯を食いしばり、衝動に突き動かされるように突進していく。


 純悟はそのまま、滾る力に身を任せ前へと足を踏み出した。彼は諏訪の肉体を、ついには背後にあった勝手口の扉目掛けて叩きつけてしまう。


 ガシャンという音と共に、扉の枠とはめ込まれていたガラスが砕け散る。鍵がかかったままの扉を破壊し、二人の肉体は厨房の外へと続く中庭へと転がり落ちてしまった。


 いつしか降り始めた雨が、随分と強さを増している。雨水がぐっしょりと染み込んだ地面の上に、純悟と諏訪の肉体が容赦なく転げ落ち、泥水を跳ね上げた。


 天地上下を失い、幾度となく肉体を打ち付けたことで二人はすぐさま立ち上がることができず、揺れる視界のなかで酷く困惑してしまう。そんななか、諏訪はいち早く泥水のなかに片膝をつき、体勢を立て直しはじめていた。


(なんだ……さっきの力は一体――)


 “殺人鬼”は、うだつの上がらない清掃員が見せた一瞬の爆発力に、冷や汗をかいていた。意識の断ち切れかけた純悟の肉体から溢れ出た底力を、諏訪はまるで押し返すことができず、気が付いた時には見事に薙ぎ倒されてしまっていた。


 激しく雨が打ち付ける音と、体を濡らす冷たさで純悟もまた覚醒する。全身で騒ぎ立てる痛みと熱に我を取り戻し、たまらず顔を持ち上げた。


 純悟のすぐ目の前に、顔を歪ませ殺気立つ諏訪の姿があった。黒装束に身を包んだ御曹司はすでに全身に力を滾らせ、手にした棍棒を痛いほどに握りしめている。


 純悟はとっさに、すぐ近くに落ちていたモップを掴み上げていた。彼は木製の柄を持ち上げ、自身に向けて振りぬかれる一撃へとぶつけ、反射的に防ぐ。


 諏訪の棍棒と純悟のモップがぶつかり、ガッという鈍い音が走る。衝撃で雨粒と泥水がはじけ飛び、互いの体をかすかに濡らした。


 敵意をあらわにした諏訪の力は圧倒的であった。彼は相手を傷付けることに対し、まるで躊躇などしていない。ゆえにその一撃には迷いがなく、確実に対象を潰し歪めるだけの重さを秘めていた。


 一撃に弾かれ、純悟は思わずのけ反ってしまう。彼は転ばないように泥水の上を何度も踏みしめながら、思わず背後へと後退してしまった。


 たった一撃ではあったが、腕に伝わってきた衝撃――その奥底に秘められた“殺意”の濃さに、改めて純悟は戦慄してしまう。自身が対峙している諏訪という人間の容赦ない敵意が、棍棒の重みからまざまざと伝わってきた。


 だからこそ、雨水に晒された純悟の肉体の奥底から、熱く、生温い汗が一気に湧き上がってくる。対峙している男がどれほどの“怪物”なのかということを、理屈ではなく感覚で理解してしまったのだ。


(真っ向から相手しちゃあだめだ。それじゃあ、やられる!)


 また一撃、諏訪は距離を詰めながら棍棒を真横に振りぬいてきた。しかし、純悟はもはや防御などせず、そのまま大きく後方へと飛び退き、駆け出してしまう。


 ほんの一瞬、諏訪の顔に驚きの色が浮かんだ。彼がうろたえてしまったわずかな時間で、純悟は一旦、距離を取ってしまった。


 諏訪邸の中庭は広大で、そこには無数の“植木”が配置されている。背が高く、庭師によって形を整えられたそれらは、まるで緑色の“壁”のようにいたるところに配置され、降りしきる雨を受け青々と濡れていた。


 その植木の影へと、純悟は退避し姿を消してしまう。たまらず諏訪は彼を追いかけたが、ついにはその姿を見失ってしまった。


(――小賢しい!!)


 諏訪は歯噛みし、思わず手にした棍棒を強く握りしめてしまう。視線を走らせ中庭の景色に目を凝らすが、その緑の隙間に純悟の姿を見つけ出すことはできない。


 そのうえ、降りしきる雨の弾ける音が、“殺人鬼”の聴覚を見事に遮断してしまっていた。大胆に動く純悟のその位置が、今の諏訪には感知することができない。


 焦りをあらわにする諏訪の姿を、離れた位置から純悟はじっと観察していた。彼は植木の陰に身を潜め、ぜえぜえと呼吸を整えていく。


 厨房からここまで、どれもこれも本能に従った咄嗟の行動ばかりだった。純悟自身、なぜあそこまで諏訪に対し激しい怒りを抱き、突き動かされたのかをうまく理解できていない。


 だが結果的に、純悟の爆発的な行動が活路を切り開き、屋敷の外へと脱出することができていた。わけが分からないなりに、純悟はとにかく気持ちを落ち着け、次の一手へと思考を巡らせていく。


 なにをすべきか、どう動くべきなのか――植木の隙間から諏訪の姿を睨みつけていた純悟の肩を、不意に柔らかい手が叩く。


 びくりと驚く純悟だったが、いつの間にかすぐ隣にいた“彼女”の姿に、「あっ」と小さな声を上げてしまった。


「にひひ。うまいことやったねぇ、純ちゃん」

「――結子!」


 見ればいつの間にか、厨房に取り残されていたはずの結子が純悟のすぐそばに辿り着いていた。彼女は純悟同様に植木の隙間から彼方の“殺人鬼”を見つめる。


「まさか、純ちゃんがあそこまで動ける奴だったとはね。けれど、おかげさまで助かっちゃったよ。あの御曹司さんに一杯食わせることができたんだからさ」

「そうかな……け、けれど、ここからどうすれば? このまま、あいつから逃げることは、できるのかもしれないけど――」


 純悟が言い澱んだその先を、すでに結子は先回りして読み取っていた。だからこそ、もはや多くの言葉を交わさず、自然と彼女も呼応していく。


 地の利を生かし、あの“殺人鬼”から逃げることもできるのかもしれない。だが、純悟だけでなく結子も、その選択肢を安易に“是”とすることができずにいた。


 諏訪は凶器を手にしたまま、雨に濡れ、なおも必死に二人の姿を探している。その目には先程のような余裕の色はなく、獲物を逃がしてしまったことに対する純粋な“憤怒”の色が浮かんでいた。


 彼こそが――あそこに立つ“怪物”こそが、この屋敷で起きていたすべての元凶なのだ。


 多くの命を奪ったことで、“穢れ”が生まれ、屋敷のなかで暴れまわっている。その原因を作り上げた悪しき人間が今、二人の目の前にいる。


 このまま彼を放っておいて逃げれば、いつ、どこでまた、凶行が繰り広げられるのか分かったものではない。


 剥き出しの殺意を前にしたことで、確かな恐怖が二人に襲い掛かってくる。だがそれ以上に、純悟と結子の心の奥底を、したたかな熱さが打ち付け、前を向かせた。


 逃げれば、きっと誰一人救われることはない。


 この屋敷から“穢れ”を払い落すには――彼方に立つ巨悪に立ち向かう他ないのだ。


 傷を負い、自らも血を流し、それでも揺らぐことのない“赤”一色の祓い屋が不敵に笑う。


「あんな大馬鹿、野放しになんてさせておけないね。逃げたところできっと、あの執念でどこまでも追いかけてくるだろうしさ。あいつとはここできっかりと――“決着”をつけないと」


 結子の一言に、純悟は一瞬だけ息をのんでしまう。だがそれでも、彼女の決意にいまさら、反発する気など毛頭もない。


 雨がさらに強さを増し、豪邸と中庭を容赦なく濡らしていく。結子は曇天をかすかに見上げ、ふと思いを巡らせてしまった。


(この雨があったから、あいつから気配を消すことができる。そうか、やっぱり――)


 隣で身をかがめる純悟が「どうした?」と問いかけてくるが、結子は「いや」と短く返し、ごまかしてしまう。彼女はそれ以上考えることをやめ、改めて植木の隙間から彼方の諏訪を睨みつけた。


 誰一人いなくなった広大な中庭で、三つの影が揺れる。純悟は眼鏡に流れ落ちる水滴を軍手の甲で拭い取り、苛立つ諏訪を見つめ続けた。


 “殺人鬼”は今もなお、二人を探し憤っている。その憤怒の表情を見てもなお、純悟たちの心に宿った確かな闘争心が揺らぐことは、まるでない。


 雨を受け、体温を奪われてもなお、心の奥底で炎が揺れる。それはさらに強さを増し、次なる激突の時に備えるかのように、肉体に力を滾らせていった。

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