第17話 浄化

 天から降り注ぐ雨粒に濡れながら、しばし諏訪京志郎は中庭の隅々に視線を走らせ続けていた。歯を食いしばり、滾る怒りを隠すことなくその表情にあらわにし、逃げ隠れているであろう“獲物”の気配を探る。


 だが、強くなっていく雨音がいたずらに植木や泥を打ち付け、雑音の群れで聴覚を鈍らせてしまう。黒いアーミースーツの隙間から冷たい雫が諏訪の肉体へと染み込んでいくが、体の奥底から湧き出るマグマのような熱が反発し、冷え冷えとした感覚を押し返す。


 わずかな焦りを感じていた諏訪だったが、やがて彼は「ふぅ」とため息をついた後、またもやどこか不敵な笑みを浮かべてみせた。彼はどこかに隠れているであろう純悟らに聞こえるよう、わざと大声で言い放つ。


「なるほど……結構! 獲物を見つけ出し、追い詰めるのも“狩人”の役目ですからね。しかしまぁ、こうなるといささか分が悪い。こちらも少し、“助っ人”を用意させてもらいますよ」


 純悟と結子は離れた茂みの影から、黒い“殺人鬼”の姿を息を殺し観察していた。二人が見つめるなか、諏訪は躊躇することなく腰のポーチから白い“石”のようなものを取り出し、それをおもむろに目の前の地面に放り捨てた。

 純悟はもちろん、結子も彼方の彼がとる謎の行動を、目を細めただ見守る他ない。


 諏訪のすぐそばに、白い“石”が無数に散らばる。様々な形状のそれをしばし見つめていた純悟たちだったが、いち早く気付いた結子が声を上げた。


「あいつ……なんで、“あんなもの”を――?」


 純悟が「えっ?」と声を上げるなか、中庭の大気が鳴動した。諏訪の背後――ドアが破壊され開け放たれた厨房への入り口から、おぞましい“獣”の唸り声が聞こえてきたのだ。

 結子はもちろん、純悟も中庭に迫ってきているその強大な気配に、息をのんでしまう。


(そんな……まさか――!)


 純悟の予想通り、巨大な気配が厨房の奥から、中庭へと飛び出してくる。気が付いた時には、諏訪のすぐそばに一体の“穢れ”が立っていた。


 それは間違いなく、純悟らが屋敷の2階で遭遇した、あの“四足獣”である。無数の獣のパーツを無理矢理つなぎ合わせた異形の肉体を持つそれは、四本の足で泥水を踏み抜き、バックリと裂けた口を歪めている。

 牙が覗くその口元から、無数の唸り声が重なった「がろろろろ」という音色が響く。再びそのおぞましい怪物を目の前にした純悟の肉体に、さあと脂汗が湧き上がってきた。


「おい、なんだよあれ……どうして……なんで、あいつがここに来るんだ!?」


 声を押し殺しながら、それでも純悟は隣で息をひそめる結子に問いかけざるをえない。まるで理解が追い付かぬ目の前の状況に、純悟は自然と拳を握りしめてしまっていた。


 純悟たちの見立てが正しいならば、あの“穢れ”はかつて地下室で諏訪に殺された、動物たちの魂の成れの果てであったはずだ。“殺人鬼”に嬲り殺された獣の“集合霊”――それが時を経て原型を失い、長い年月をかけて“穢れ”と呼ばれるものに変化したはずである。


 だがそれならば、この状況はなおさら辻褄が合っていないように思える。“四足獣”は自分たちが殺された激しい“怒り”や“恨み”に突き動かされ、人間を襲っているはずだ。それがなぜ、自分たちを殺した張本人である諏訪京志郎に呼び出され、そして彼を襲わず、あたかも“猟犬”が如く従っているというのか。


 なにからなにまで困惑する純悟だったが、やはり“祓い屋”は一歩先を読み取っていく。彼女は茂みの隙間から、強い眼差しを彼方の“殺人鬼”と、“穢れ”に向けていた。


「まったく、つくづくこの世で一番怖いのは――箍の外れた“人間”ってことなのかもね。あいつが放り投げたあれは……殺された動物たちの“骨”だ」

「なんだって?」

「あの獣たちは確かに、諏訪に嬲り殺された“怒り”を原動力に動いている。けれど、動物たちの魂はしっかりと覚えてしまってるんだよ。自分たちが諏訪に痛めつけられたときの“苦しみ”や“恐怖”を。その負の念までもが、あの“穢れ”の肉体には融合してしまってる」

「そんな……じゃあ、あの“穢れ”は……“怒り”を抱いたまま、それでも諏訪に従わされ続けてるってことなのかよ?」


 結子はそれ以上、言葉を返しはしなかった。彼女はただ茂みの奥を睨みつけたまま、静かに一度だけ首を縦に振る。純悟もまた、彼方に召喚された“四足獣”の姿を前に、思わず歯噛みせざるにはいられなかった。


 諏訪京志郎という男の狂気にからめとられ、その暴力の的にされた動物たちは、死してなおその魂を縛られ、なすすべなく諏訪に利用され続けている。その残酷極まりない事実に、純悟は肉体に湧き上がる震えを押し殺すことができない。


「怖いのはあの諏訪って男さ。あいつはきっと、“穢れ”に対しての恐怖心なんてこれっぽっちも抱いてないんだ。あいつにあるのは好奇心――“穢れ”を恐れるどころか、その習性や行動原理を観察して、コントロールする方法を見つけ出したんだろう」

「じゃあ、あの“骨”も……“穢れ”をおびき寄せる方法ってことなんだな。諏訪はそれを、自力で見つけ出した。あいつは――あいつは本当に、“人間”なのか?」


 純悟は彼方で笑みを浮かべたまま雨に濡れる“殺人鬼”の姿を、なおも力なく震える眼差しで見つめてしまう。自身が口にしたはずの疑問が、純悟の脳内でぐわんぐわんと乱反射していた。


 だが、その問いの答えは、あまりにも分かりきっていた。彼方に立つ彼は間違いなく“人間”で、純悟と同じく、社会に溶け込み暮らしている一人の成人男性に他ならない。


 腹が減れば飯を食べ、喉が乾けば水を飲む。暑さに汗を流し寒さに震え、喜びに笑い悲しみに涙する。


 今もそう――曇天から降り注ぐ冷たい雨水に打たれ、純悟らが感じているのと同じ冷たさを、彼だって抱いているはずなのだ。


 そんな諏訪という男を前に、純悟は強く歯を食いしばってしまう。人という器のその奥底に、“穢れ”すら従え縛り付ける“邪悪”を宿した彼の姿に、怒りと悲しみが混在した虚しい感情がただただ湧き上がってきた。


 だが、いつまでも“殺人鬼”の姿を眺めているわけにもいかない。

 こうしている間にも“穢れ”は頭を地面に近づけ、なにやら匂いを嗅いでいる。犬がその場に残った微かな香りから逃走者の足取りを辿るように、“穢れ”もまた身を隠している純悟と結子の居場所を探るべく、嗅覚を働かせているのだろう。


 時間は残されていない――声を押し殺し、純悟は慎重に問いかけていく。


「このまま、あいつらをまいて逃げる……ってのは無理そうだな」

「だねぇ。大富豪さんだけならまだしも、あの“穢れ”までいるとなれば、到底不可能だろうさ。どれだけ全速力で駆け抜けたところで、追いつかれるのが関の山だよ。私たちが生き残るためにはどうやら――あの“穢れ”と決着をつける他なさそうだ」


 純悟も心のどこかで、その答えを予測していた。しかしそれでも、改めて結子の口から告げられた事実の荒唐無稽さに、絶句する他ない。


 それはすなわち、二人は再び戦いを挑むということなのだ。

 かつて、その圧倒的な力で蹂躙されかけた、あの巨大な“四足獣”に。


 純悟は思わず、ごくりと生唾を飲み込んでしまう。視線の先の“四足獣”はなおも入念に匂いを嗅ぎ、二人の行方を探っていた。


「やるしかないんだな……この中庭から生きて脱出するためには」

「ああ。戦力は相変わらず桁違い――だけれど、それでも前とは幾らか状況が違う。もしかしたら、勝算はあるかもしれないよ?」


 隣に座る彼女の気安い一言に、純悟はようやく振り向いてしまう。結子は「へへへ」と笑いながら、すぐ傍に置かれた黒いスポーツバッグをぽんと叩いてみせた。


 それは純悟らがこの屋敷に持ち込んだ、数少ない荷物である。厨房に置き去りになっていたものを、結子は忘れることなくここまで担いできたらしい。


 彼女の抜け目なさに肩の力が抜ける純悟だったが、結子はどこか力強い眼差しで頷いた。


「使えるものを全部使って、あいつを“祓う”。やってやろうじゃあないのさ。なにせ、お天道さんも背中を押してくれてるみたいだしね」

「お天道さんって……この雨が、か? 冷たくて寒くて、不吉な感じにしか思えないが……」

「それでも、この雨のおかげで私たちの気配は撹乱できてるんだ。地の利があるのは、こちら側かもしれないよ?」


 雨男の純悟にとっては相変わらず雨なんてものは煩わしいだけに思えたが、結子の言葉を受け思わず曇天を見上げてしまう。

 なおも勢いよく降り注ぐ雨粒は、まるで二人を覆い隠すかのように中庭一面を打ちつけ、そこら中にけたたましい音をばら撒き続けていた。


 やるしかない――自身が置かれた状況を受け止め、飲み込んだことで、純悟もまた覚悟を決める。

 疲弊し、怪我を負い、雨粒にさらされたこの不完全な状態で、それでも純悟らは彼方に待つ“穢れ”と対峙する必要があるのだ。


 純悟の目に光が宿ったことを察し、結子はちらりとスポーツバッグの中身を見つめた。そこに入っていた心許ない物資の数々を前に、それでも彼女は不適に笑う。


 彼女は頭部の傷から流れ落ちた血を指先で拭い、ギラリと光る瞳で茂みの奥を睨みつけた。


「“窮鼠猫を噛む”――ってね。追い詰められた雑魚の怖さ、思い知らせてやろうじゃないの」


 結子が抱いた熱は、すぐ隣の純悟にも燃え移る。二人は黙したまま、ただちに“反撃”のための準備へと取り掛かった。


 中庭に召喚された“穢れ”は、それからもしばらく地面に残った臭いを確認し、感覚を研ぎ澄ませていた。“四足獣”は時折、顔を上げては右往左往と巨体をわずかに進ませたが、やがてすぐにまた足を止めてしまう。


 怪物が思いのほか手こずっていることを受け、ついにはその手綱を握る諏訪が苛立ち始める。彼は不機嫌そうに顔を歪ませ、すぐ隣に立つ“穢れ”に吼えた。


「おいおいおいおいおい、いつまでちんたらやってるんだ? 何のためにお前を呼び出したか分かってるんだろうな。さっさと見つけ出して、駆除してくれよ」


 怒鳴られたことで“四足獣”がわずかに怯む。巨大な異形の肉体を持っていても、その魂に刻まれた諏訪への恐怖心が、怪物の心を縛り上げ、震えさせていた。


 しかし、諏訪のこの一言に、茂みの中から透き通った波長が呼応する。


「そう怒鳴りつけなさんなっての。動物ってのはもっとこう、優しく接してやるもんだよ」


 諏訪と“穢れ”が同時に振り向く。気が付いた時には、茂みの影から“紅蓮”がゆっくりと歩み出てきていた。


 自ら姿を現した結子の姿に、諏訪は「はっ」と呆れたような笑い声をあげてしまう。彼女は体を横に向けたまま、首だけを傾け、諏訪たちの姿をしっかりと睨みつけていた。


「といっても、あんたじゃあ無理か。“躾”と“虐待”の違いも分かってないような、大馬鹿じゃあね」

「相変わらず、口だけは達者ですね。わざわざ自ら出てくるとは、正気ですか? 恐怖に耐えきれず、ギブアップってことでしょうかね?」

「はっ、冗談! こちとら、諦めがつくほど歳食ってるわけじゃあないんだ。ギブアップなんてもったいないこと、できるわけないっしょ」


 悠然と言葉で切り返す結子に、諏訪はわずかに押されてしまっていた。しかし、雨にぬれ、傷からいまだに血すら滴らせている“祓い屋”のみすぼらしい姿を前に、それが“はったり”であると判断する。


 すでに“四足獣”は、姿を現した結子に対し、あらん限りの敵意を滾らせ、唸り声をあげている。怪物が臨戦体勢をとっていることを確認し、諏訪はなおもへらへらとした態度で声をあげた。


「なるほど。逃げずに立ち向かうというのが、あなたの――“祓い屋”としての誇りというわけですか。なんとも気高く、そして馬鹿馬鹿しい思想だ。この世に存在するのは勝者と敗者、狩る者と狩られる者――獲物は獲物らしく、泣き叫びながら逃げ回ってるのがお似合いですよ!」


 諏訪の気迫を受け、ついに“四足獣”が動き出す。巨体は大地を蹴り、“どう”という音を立てながら一気に結子へと飛びかかった。

 “穢れ”が生んだ突風は停滞していた中庭の大気を激しくかきまわし、雨粒の軌道を真横へと捻じ曲げてしまう。


 怪物が飛びかかるその一瞬で、諏訪はゆっくりと動く結子を睨みつけていた。赤一色の彼女はなおも抵抗の意思を見せていたが、“穢れ”と並んで立つその姿に、諏訪は自然と事の結末を予感してしまう。


 かつて諏訪が監視カメラ越しに見ていたとおりならば、結子の持つ“力”は“四足獣”を跳ね除けるほどのものではない。不可解な能力ではあるが、それでも結子は一度、確かにこの“穢れ”を前に敗北を喫している。


 ならばこれから起こることは明白であった。満身創痍の結子ができることなど、たかが知れている。彼女の“力”を“穢れ”は真っ向から押し切り、その連なった牙が結子の首筋を捉え、一瞬で頸椎を捻り折るのだろう。


 本来なら諏訪は、自らの手で彼女を“解体”してみたかった。しかし、背に腹は変えられない。とにかく今は強く拳を握りしめ、爛々とした眼差しで彼方の“祓い屋”が蹂躙される姿に思いを馳せた。


 そんななか、なおも優雅に、堂々と結子は動く。彼女は体の向きを変え、真正面から飛びかかってくる“穢れ”に向き合った。


 瞬間、諏訪も彼女が手にしている“それ”の存在に気付く。結子は体の影に隠すように持っていた“それ”を、ゆっくりと持ち上げた。


 彼女の髪の毛が雨粒を受け、それでも見えざる“力”に反応するように立ち上っていく。“四足獣”との距離があと数メートルまでに迫るなか、彼女は不適に笑ってみせた。


 白い歯を見せ、悠然と。

 吊り上がった二つの眼差しに、曇りなき“怒り”をあらわにしながら。


「あんたの言う通りさ。もう、逃げることなんてしない。どれだけ怖かろうが、最後までできることを全力でやるだけさ。それが私の――“人間”として誇れる、“正しい道”だからね!!」


 構うことなく“獣”は大口を開き、そこに並んだ無数の牙を突き立てるべく、結子の首筋目掛けて襲いかかる。

 結子の顔を突風と雨粒、そして濃厚な獣臭と“殺気”の塊が真正面から叩いた。


 さしもの結子ですら、叩きつけられた圧倒的な殺意に全身の細胞が奮い立つ。呼吸を止めた彼女の心臓を、冷たく、鋭い感覚が鷲掴みにし、無遠慮に引き裂こうと襲いかかる。


 これまでも幾度となく直面してきた感覚だった。“穢れ”という存在と対峙したとき、いつだって結子は心のどこかに“死”を予感し、その冷たく、仄暗い感覚と寄り添ってきた。


 その度に彼女は自身の過去に思いを馳せ、“始まり”ともいえる幼き日の記憶を蘇らせる。あの日から今日までに連なる自身の歩みを、走馬灯のようにわずかな時間で想起してしまうのだ。


 初めは“視る”だけの力だった。それはいつしか成長し、明確に怪異を退ける武器として彼女のみに宿る。

 多くの人々と出会い、幾度となく悩んだ。だがやがてその末に、彼女はたった一つのシンプルな答えに辿り着く。


 どんな物事にも、“意味”がある――授かったこの“力”にも、自身の歩みのなかで出会った人々との“縁”にも、必ずそうあるべき意味があるのだ。


 その一念だけが、遊子屋結子という女性を前に進ませる。退きそうになる自身に喝を入れ、“祓い屋”は手にした“それ”を目の前の“穢れ”目掛けて放り投げた。


 怪物はなおも止まることはない。“四足獣”は結子の投げた“それ”にぶつかりながら、それでも一切の勢いを殺さず、突進してくる。

 唯一、俯瞰で両者の激突を眺めていた諏訪が、結子の投げつけた物の正体にいち早く気付く。


 それは荷を縛り上げるために結子らが持参した、ビニール製の“ロープ”であった。黄色と黒が編み込まれた縄は“穢れ”の口元に絡みつき、雨粒を弾きながら宙で暴れる。

 だが、ロープの表面には所々に、薄い“紙”が巻き付けられている。油汚れを拭き取るための紙なのだが、何やら表面に“赤い文字”が記され、ロープに入念に巻き付けられていた。


 結子はそのロープの端を握りしめたまま、すかさず意識を集中させる。向かってくる“穢れ”の牙を睨みつけたまま、彼女は“力”を流し込んだ。


 結子の赤い髪が広がり、炎のようにざわめく。彼女の肉体が放つ黄金色の輝きが、手にしたロープへと流れ込み、その先の“穢れ”にまで到達する。

 空中で暴れていたロープが、見えざる力に導かれ、怪物の肉体に絡みつく。大地を蹴り飛びかかってきていた“四足獣”もようやく、肉体にまとわりつくロープに気付き、目を見開いていた。


 閃光と共に、大気が軋む。結子が流し込んだ力は空間で弾け、凄まじい出力で“穢れ”の肉体を押し留めていた。

 ロープに縛り上げられたことで、“穢れ”は突進を止められ、空中にその巨体を縛り上げられてしまう。


 予想外の事態に諏訪が目を見開き、言葉を失った。“穢れ”は呪縛を解こうと全身に力を込めあがくが、結子がロープの端を握り、腰を落とし“力”を流し込み続けていた。

 “穢れ”がもがくたび、その力はロープを伝い、反動となって結子の肉体を軋ませる。少しでも気を抜けば“力”ごと押し切られ、肉体をバラバラに砕かれてしまいそうだった。


 だがそれでも、結子は歯を食いしばり、血が噴き出るほど強く縄を握りしめていた。頭部に刻まれた傷からおびただしい量の血が流れ出るが、それすら構うことなく、“穢れ”の動きを封じ続ける。

 たっぷりと“御神酒”を染み込ませたロープに、結子の血で呪文を刻んだ“呪符”を貼り付けた、即席の“呪縛縄”。その唯一の武器目掛け、結子は一切容赦することなく“力”を流し込み続ける。


 無論、そんな出力がいつまでも保つわけではない。こうして“穢れ”を固定していられるのは、それこそ1、2分が限界だろう。


 そのわずかな時間に、結子は賭けたのだ。

 茂みに隠れている“彼”が、必ずやり遂げてくれることを。


 閃光が幾度となく中庭を染め上げ、大気を揺らす。諏訪が結子と“穢れ”の攻防に見惚れてしまうなか、ついに脇の茂みからもう一つの影が飛び出し、走り出す。


 その見覚えのあるつなぎ姿に、諏訪が「ああっ」と声をあげていた。だが彼になど目もくれず、純悟が歯を食いしばり、捕縛された“四足獣”へと飛びかかる。


 勝負は一瞬――対峙する怪物の姿に足がすくむが、それでも純悟はまとわりつく恐怖を置き去りにするように、一心不乱に足を前に出した。

 彼は右手に一枚の“呪符”を握りしめ、巨大な“穢れ”の胴体に的をしぼる。


 しかし、“穢れ”が渾身の力を込めたことで、ついにその体を縛り上げていたロープが引きちぎれてしまう。拘束を解かれた怪物の前足が、近づいてくる純悟を跳ね飛ばそうと真横に振り抜かれた。


 純悟は迫ってくる一撃に息を呑んでしまうが、自身の出した一歩を止めることができない。踏みしめたはずのスニーカーはぬかるんだ泥のせいで、ずるりと大きく滑ってしまった。


 その偶然が、思いもよらぬ形で純悟を救う。泥に足を取られ情けなく滑ってしまう純悟だったが、これによって“穢れ”の前足を掻い潜ることができ、すんでのところで直撃を避けることができた。


 生き延びた純悟に、“穢れ”はなおも襲いかかろうと前足を振り上げる。純悟は尻餅をついたまま、自身を狙う巨大な爪をまじまじと見つめてしまった。


 しかし、またもや“穢れ”の動きが止まる。怪物が予想だにしない事態に唸り声を上げるなか、純悟と諏訪はいち早く、その奇妙な光景に気付くことができた。


 “穢れ”を縛り上げていたロープが千切れ、宙を待っている。しかし、それらはいつしか空中に固定され、光り輝く“線”によって連結されたまま、なおも“穢れ”の体を縛り上げていた。

 それは結子が全身全霊によって作り上げた、“鎖”であった。目の端や口元から血を流しながら、なおも結子は己の“力”を全解放し、怪物の動きを制し続ける。


 泥に塗れたまま混乱する純悟に、赤き“祓い屋”が吠えた。


「――純ちゃん!!」


 その一言が純悟の背を引っ叩く。結子の言葉に弾かれるように、純悟は泥水を跳ね除け、一気に飛び出した。


 呼吸を止めたまま、気がついた時には純悟は目の前の“穢れ”の体へと手を伸ばしていた。彼は手にした一枚の紙切れ――結子が念を込めた“呪符”を、迷うことなく“穢れ”の胴体へと貼り付ける。


 押し込むように突き出した純悟の手から、無数の感情が流れ込んできた。“穢れ”の体から逆流したそれは純悟の体内へと滑り込み、一気に心の内を満たしていく。


(そうか……そうだよな。君たちは――)


 “穢れ”の体が脈打ち、幾度となく獣は悲鳴を上げた。その度に純悟の体に感情の波が押し寄せ、“彼ら”の思いを伝えてくれる。


(辛いに決まってるよな……悔しいに、決まってるよな)


 それは、“穢れ”となってしまった無数の動物たちの、悲痛な心の叫びだった。


 ある者は野良だったところをさらわれ、ある者はペットショップから連れてこられ、諏訪という男に“実験材料”と称され、虐待の末に殺された。

 言葉が分からずとも、純悟には彼らの辛さや痛み、憎しみや悲しみが理解できてしまう。“穢れ”の体から溢れる“殺意”を超越した思いの数々が、自然と純悟の表情を悲しみで歪めてしまう。


 彼らはただただ、生きたかったのだ。大自然のなかで、人間社会のなかで、それぞれの短い生涯を、精一杯生き続けたかっただけだ。


 それを、たった一人の人間が――否、“怪物”が変えてしまった。自身の欲求を満たそうと暴走した一人の男が、彼らの命を弄び、歪めてしまった。


 “穢れ”になど、なりたいわけがないのだ。誰かを傷付けることなど、望むわけがないのだ。


 純悟は降り注ぐ“悲しみ”に、涙を浮かべたまま耐える。

 泥と血、雨と涙に濡れ、それでも彼は歯を食いしばり続けた。汚れた丸眼鏡のその奥の眼差しに、強く、したたかな輝きが宿り、燃え上がる。


(ごめん……せめて安らかに――眠ってくれ)


 純悟が“呪符”を押し込むのと、結子が“力”を解き放つのは同時だった。純悟の貼り付けたそれは“穢れ”の力を奪い取り、合わせるように巨体を縛り上げる“鎖”が力を増す。


 視界が真っ白に染まる。閃光と共に“穢れ”の巨体が崩壊し、粉々に砕け散ってしまった。

 放射状に解き放たれた力が風を生み、まとわりついていた鎖や呪符までをも吹き飛ばしてしまう。


 純悟は声をあげ、ついには目を閉じたまま後方へと弾き飛ばされてしまった。足元の感覚が消え、凄まじい風が肌を引っ張り、痛みを残す。


 目を閉じてもなお抑え込めない光のなかで、目を閉じた純悟の耳に確かに“声”が聞こえた。それが誰のものだったのか、彼は反射的に悟り、呼吸を止めてしまう。


 ありがとう――短く、柔らかく、そして切ない響きだった。

 肉体の芯を貫いた感情に、純悟はたまらず目を見開く。


 気がついた時には、彼は仰向けに倒れていた。泥の鈍い感触を背に受けたまま、しばし、目の前に広がる曇天を見つめ、思いを巡らせてしまう。

 純悟がかけていたはずの丸眼鏡は衝撃で砕け散り、彼方へと吹き飛ばされてしまっていた。


 告げられた一言と、伝わってきた無数の感情に、純悟の目からとめどない涙が湧き上がってくる。逝ってしまった“彼ら”のことを思うだけで、鼓動が痛々しいほどに脈打ち、胸が締め上げられた。


 無痛の熱がたぎる純悟の肉体を、なおも雨が濡らす。降り注ぐ雫は涙と混ざり合い、淡々と、ただ静かにそれを拭い落としていった。

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