最終話 挽歌

 “穢れ”の姿が粉々になってもなお、しばし諏訪京志郎は虚空を見つめ、言葉を失っていた。雨は相も変わらず中庭を容赦することなく濡らしていくが、彼は顔に滴る雫を拭うことすら忘れ、目の当たりにした“奇跡”に絶句してしまった。


 目の前の光景に動きを止めてしまったのは、彼だけではない。遊子屋結子もまた片膝をついたまま、雨が降りしきる中庭の景色を呆然と眺めてしまう。内なる“力”を消耗したことで全身を熱と痛みが包んでいたが、それでも彼女は気を絶することなく、必死に呼吸を繰り返していた。


 もう、あの巨大な“穢れ”は――無数の獣の怨念が凝縮し生まれた“四足獣”はどこにもいない。唯一、水たまりのその中央に、泥だらけになったつなぎの男性が倒れ、仰向けになったまま雨粒に撃たれていた。

 やがて、泥に染まった肉体をゆっくりと動かし、“彼”もまた立ち上がる。その顔には愛用していた丸眼鏡はなく、結子は久々に素顔の“彼”を目の当たりにした。


 ふらふらと力なく立ち上がる純悟の姿を前に、諏訪はなおも笑う。仕掛けた“獣”を退けられたことなどどこ吹く風で、“殺人鬼”は嬉しそうに声を上げた。

 この場においてもなお、諏訪の肉体を強烈な“好奇心”が突き動かし、狂わしていく。


「すごい……あいつを――あんな“怪物”まで、倒してしまうなんて! 本当に、とんでもない方々ですねぇ!」


 けたけたと壊れたような笑い声をあげる彼の姿に、結子がたまらず息をのんだ。彼女はすぐさま立ち上がろうとしたが、やはり予想以上の消耗に足に力が入らない。


 二人にとって、ここから先の“プラン”は白紙であった。巨大な“穢れ”を祓い去ったとして、まだ危機が完全に去ったとは言い難い。二人が生きてこの屋敷を出るためには、目の前に立つ“殺人鬼”――黒いアーミースーツを身に纏った諏訪京志郎という男をどうにかして退ける必要がある。


 結子は“四足獣”を祓った後、残されたすべての“力”を諏訪に叩き込むつもりだった。彼女の体内で練り上げた“生命エネルギー”が人間にどれほど作用するかは定かではないが、それでも一瞬でも諏訪の意識をかく乱させれば、その隙に逃げおおせることができると踏んでいたのである。


 しかし、“四足獣”の力はあまりに強大で、その肉体を縛り付けるだけでも結子はほぼすべての力を使い果たしてしまっていた。どれだけ呼吸を整え意識を集中しようとしても、体内には一向に“力”の奔流は湧き上がってこない。


 焦る結子の目の前で、なおもゆらりと純悟が立ち上がる。泥に濡れた彼の髪の毛が垂れ下がり、その目元を隠してしまっていた。雨が汚れたつなぎに染み込み、痛々しいほどに彼の全身を濡らしている。

 そんな純悟の姿を前に、諏訪は笑ったまま腰のホルスターに手を伸ばし、新たな凶器を取り出した。


 彼は“ボウガン”に矢を装填しながら、甲高い笑い声をあげる。

 口角をこれでもかと持ち上げ、目を歪め、ただただ楽しそうに。


「面白い……実に面白い! もはや、あんな出来損ないの“犬っころ”なんて、どうでもいいですよ。あなたたちの方が、何倍も興味深い存在だ! 是非ともこの手で、その肉体を隅々まで“解剖”してみたい!」


 まるで躊躇することなく、諏訪の手にした矢弾の切っ先が純悟を向く。彼が一歩を踏み出すと、すぐ目の前に散らばっていた白い“骨片”を踏み抜き、乾いた音を立てて砕いてしまった。

 それは先程、諏訪が“穢れ”を呼び出すために利用した、動物たちの“遺骨”である。だらりと腕を垂らしたままの純悟の眼が、砕かれた白い破片を確かに見つめていた。


「やっぱり、あなたたちに依頼して正解でしたよ。もういい加減、普通の人間を“解剖”するのは飽き飽きしてたんです! 捕まえてきた浮浪者やそそのかした馬鹿な若者――それにあの“女”のような平々凡々とした生き物じゃあ、中身も反応もつまらなくてつまらなくて――」


 諏訪が笑い声をあげる度、彼の肩が奇妙に跳ねた。肉体の内に宿った喜びを抑え込むことができず、もはや肉体そのものが躍動しているのだろう。


 そのおぞましい姿を前に、結子は歯を食いしばる。彼女は必死に呼吸を整え、力を練り上げながらも、水たまりの中央に立つ彼――純悟に向けて叫ぼうとした。


 逃げて――結子が吐きだそうとしたその一言は、不意に響いた“足音”によって遮られてしまう。


「――え?」


 結子は自分でも情けないほどに、間の抜けた声を上げてしまった。だが彼女に構うことなく、またしても一歩、“彼”が水たまりを踏み抜く湿った音が響く。


 気が付いた時には、純悟が諏訪に向けてゆっくりと足を踏み出していた。彼はがくりとうなだれたまま、一歩、また一歩と泥水を跳ねのけながら諏訪との距離を詰めていく。


 彼のその行動の意味するところが理解できず、さしもの結子も絶句してしまった。無手のままの純悟では、目の前に立つ武装した“殺人鬼”に勝ち目はない。近付くことなどせず、とにかく今は諏訪から離れ、身を隠すべきであることは明白なのだ。


 意識が混濁しているのか、あるいは――結子が戦慄するなか、なおも純悟は諏訪へと近付いていく。諏訪はこちらに向かってくるつなぎ姿を見て、「ほお」とまた嬉しそうな声を上げた。


「いやはや、勇ましいことですね。逃げずに立ち向かってくるとは。とはいえ、これ以上あなたがたとドンパチやり合うつもりもありません。“穢れ”――でしたっけ? あなた方は見事、依頼通りに“あれ”を消し去ったのです。もうあなた方の“お仕事”は、終わりなんですよ」


 諏訪は白い歯を見せて笑い、ボウガンを持ち上げる。彼は照準を躊躇することなく、向かってくる純悟の頭部に合わせていた。


 “殺人鬼”が笑い、“祓い屋”が叫ぼうと息をのむ。

 そんな一同のなかでようやく、立ち上がった満身創痍の“清掃員”が声を上げた。


「――るな」


 かすれるような純悟の声に、諏訪はもちろん、結子も目を見開く。諏訪はなおもへらへらと笑ったまま「なんて?」とわざとらしく聞き返すが、純悟は構うことなく前へと肉体を押し込んだ。


 降り注ぐ雨が、純悟の顔にまとわりついていた泥をようやく洗い流す。髪の隙間から覗く彼の眼差しが、至近距離にいる諏訪の視線と交わった。

 

 ボロボロの純悟が投げかけてくる視線――そこに宿った“光”に、諏訪は「えっ?」と声を上げる。


「これ以上――誰かの“命”を、なめるな――大馬鹿が」


 純悟が一歩を踏み抜く。前に出したスニーカーが今までよりも強く水たまりを踏み抜き、泥水に染まったしぶきをまき散らした。


 諏訪は突然のことに、対応できなかった。だが、呆けてしまう“殺人鬼”目掛け、なんら躊躇することなく純悟は動く。

 彼は握りしめた右拳を、迷うことなく諏訪の顔面に叩きつけていた。


 乾いた音と共に、雨粒が弾け飛んだ。突然の一撃に諏訪が声を上げ、結子までも唖然としてしまう。


 衝撃と痛みで、諏訪がたたらを踏み後退する。だが純悟はなおも追いすがるように、離れていく“殺人鬼”との距離を詰めた。

 凶器を持つ男を前にしてもなお、純悟の眼差しには強い輝きが宿っている。


 純悟は笑っていない。一切の表情を失ったその顔に、それでも諏訪と結子は確かにある強烈な“感情”の波を感じ取ってしまう。


 つなぎ姿の奥底で、凄まじい“怒り”が燃えていた。純粋で、透明で――限りなく混じりけのない“憤怒”のみが、純悟の肉体を突き動かしている。


「“あいつら”は――“穢れ”になってしまった動物たちはただ――まっとうに生きたかっただけだ。お前が殺してきた――人間たちもきっと同じ」


 一歩、泥水が蹴散らされる。進んでくる純悟が放つ圧に、完全に諏訪が気圧されてしまっていた。


「お前に、何の権限がある――金持ちって“だけ”のお前が――なんで、誰かの“命”をどうこうする権利がある――」


 一歩、弾けた泥が純悟の頬を汚す。それを拭うことなどまるでせず、彼はさらに距離を詰めた。


「“怪物”はお前だ――さっきから、なにがおかしいんだよ? 誰かを傷付けて、なにかを奪って――なにが、どう、楽しいんだ?」


 本来ならば、結子もすぐさま動くべきだったのだろう。だが、なおも“殺人鬼”へと向かっていく純悟のその姿に、“祓い屋”である彼女もまた圧倒され、身動きを取ることができない。


 憤怒に突き動かされる純悟の姿はもちろん、彼が放つ言葉の一つ一つが、結子の肉体に染み渡る。これまで共に歩んできた“バディ”が身を震わし放つ言葉の一つ一つに、早乙女純悟という男の抱いた哀しみや苦しさ、多くの命を救えなかった無念が確かに伝わってくる。


 初めて見る純悟の怒り狂う姿に、それでも結子は恐れなど抱かない。自身が祓った“穢れ”の思いを汲み、何者かの代わりにありったけの怒りを滾らせる彼の姿が、結子の背中すら強く押していく。

 彼女は気が付いた時には、なおも立ち向かっていく彼の名を呟いていた。


「――純ちゃん」


 一歩、さらに純悟が踏み込んだ。しかし、ここでようやく諏訪が我に返ってしまう。彼は手にしたボウガンを再び持ち上げ、純悟同様に憤怒の色を浮かべた。

 同じ“怒り”に根差していても、二人の表情はまるで違う。諏訪はその顔を禍々しく歪めながら、唾をまき散らし吼えた。


「なめるなよ、この――薄汚れた“ねずみ”が!!」


 諏訪は手にしたボウガンの引き金に、力を込める。照準はすでに目の前の純悟の頭部へと向けられていた。


 しかし、矢の発射がほんの一瞬だけ、遅れてしまう。突如、強い風が吹きつけ、宙に舞っていた雨粒を諏訪の顔に叩きつけ、視界を奪ってしまった。

 諏訪は反射的に引き金を引いたが、顔をそらしてしまったことでわずかの照準がぶれる。放たれた矢は純悟の額ではなく、その右肩へと命中してしまった。


 衝撃と激痛に、純悟が一歩を踏みとどまる。炸裂してしまった一撃に結子が悲鳴を上げそうになった。


 だが、それでもなお――早乙女純悟が止まることはない。


「こんなもんじゃあない――お前が“彼ら”に与えてきた苦痛は――この程度じゃあなかった」


 諏訪が「えっ?」と声を上げるなか、ついに純悟が手を伸ばし、その胸倉を掴み上げてしまう。純悟は肩に矢を突き刺したまま、痛みなど構うことなく肉体に力を込める。


 純悟の“頭突き”が、諏訪の顔面に抉り込まれた。肉が潰れ、鼻骨が砕ける嫌な音が響き渡る。


 純悟が顔を離した瞬間、諏訪の鼻からおびただしい血が噴き出し、純悟の顔面を染め上げた。しかし、それでもなお構うことなく、純悟は再度全身に力を込める。


 一撃、また一撃と、純悟は目の前の男の顔面に、己の頭を叩きこみ続けた。鈍く、どこか粘着質な音が幾度となく響き渡り、そのたびに純悟のつなぎに返り血を染み込ませていく。


 飛び散った鮮血と泥の雫を、降り注ぐ透明の雨粒が撃ち抜き、砕く。ついには純悟の肩からも血が溢れ出たが、なおも彼の動きが鈍ることはない。


 その壮絶な光景に、結子は完全に呼吸を忘れ、立ち尽くしてしまう。怒りに突き動かされる純悟の姿に、“祓い屋”の肉体が微かな震えすら覚えていた。


 どんな痛みを刻まれようが、いかなる恐怖を刷り込まれようが、もはや関係ない。

 純悟は肉体の内に渦巻く“怒り”という原始の感情に任せ、己の肉体を叩きこみ続ける。


 なにをしたところで、失った命など帰ってはこない。だがそれでもせめて、純悟は逝ってしまった者たちの無念を、晴らしてやりたかった。


 自身でも理解できないほどの強い力が、純悟の全身を突き動かす。彼は歯を痛いほどに食いしばったまま、生まれて初めて感じる混じりっ気のない“怒気”を信じ、なおも一撃を叩きこんだ。


 しかし、純悟の肉体もまた疲弊し、制御を失ってしまう。彼は頭突きを叩きこんだことでバランスを崩し、足を滑らせてしまった。


 ようやく諏訪の肉体が介抱され、二人して泥水のなかに転んでしまう、ばしゃりというけたたまし音とまき散らし、純悟と諏訪は水たまりの上に身を預けた。


 結子が「ああっ」と声を上げるなか、一手早く動いたのは“殺人鬼”であった。諏訪は鼻と口からおびただしい血を垂れ流したまま、それでも足に力を込め、立ち上がっていく。

 その表情はやはり、どす黒い“怒り”に染まっていた。自身の顔を歪め、プライドに泥を塗った純悟を、彼は殺意を滾らせた眼差しで睨みつけている。


 もはや諏訪は楽しむ気などなく、一気に勝負をつけるつもりであった。彼は腰のホルスターから巨大なサバイバルナイフを引き抜き、なんら躊躇することなく目の前の純悟に振り下ろす。

 歯が砕け散ったぼろぼろの口元から、おぞましい雄叫びが上がっていた。“殺人鬼”は全身全霊を込め、刃を純悟の首へと加速させる。


 放たれた鋼の刃は、無数の雨粒を切り裂き、霧へと変えた。しかし、その凶刃が純悟の皮膚と肉を切断することは決してない。


 諏訪の放った一刃は、気が付いた時には純悟に当たるすれすれで止まってしまった。諏訪のみならず、至近距離の刃を見つめた純悟までも、予想だにしない事態に目を見開き、驚いてしまう。


 唯一、二人のやり取りを俯瞰で見ていた“祓い屋”だけが、いち早くなにが起こったかを察してしまう。結子は目の前に現れたその姿――“彼女”の大きな体を見上げ、息をのんでしまった。


 結子の抱いた驚きは、すぐに納得へと変わっていく。純悟のすぐ背後に立つ巨大な“影”に、ようやく至近距離に立つ諏訪も気付いた。


「そっか……やっぱり、そうだったんだね。あなたはずっと――純ちゃんの“中”にいたのか」


 唯一、純悟だけはその事態を理解できていない。だが、対峙する諏訪京志郎が、目の前に現れた“それ”の姿に、「ああ」と驚きの声を上げてしまう。


 純悟のすぐ背後に、彼女が――巨大な女性の姿をした“穢れ”が立っていた。


 かつて書庫で純悟を追い回し、彼に地下室の存在を“記憶”として流し込んだあの“穢れ”が、いつの間にか純悟の背後に出現している。彼女の大きな手が諏訪の手首を掴み上げ、振り下ろされたナイフの一撃を食い止めていた。


 一歩遅れ、ようやく純悟も振り返る。背後に立っていた女性の姿に唖然とするも、純悟はすぐにその正体を察してしまった。


 それは間違いなく地下室にいた彼女――息子に殺害され事切れた、諏訪の“母親”であった。


 一瞬、諏訪が抵抗しようと歯を食いしばり、腕に力を込める。しかし、まるでナイフを引き戻すことができない。“穢れ”の大きな手が凄まじい力で諏訪の手首を縛り上げていた。


「なんだ、お前――離せ、離せよ! いまさら、何の用が――」


 “穢れ”となった母親を前に、なおも諏訪は怒りをあらわにする。手を振り払おうとする息子の姿を、“穢れ”はどこか悲し気な眼差しで高い位置から見下ろしていた。


 だが、黙したままの彼女に変わり、ようやく立ち上がった“祓い屋”が告げる。


「どうやら、ここまでだね。もう、“彼女”は覚悟を決めたらしい」

「え……ええ?」

「もう、怖がって逃げるのはやめたんだ。“彼女”はこれまで逃げてきた自分の罪を償うために、ここまでやってきた。“母親”として――一人の“人間”として、あんたを止めるために」


 呆けていた諏訪の腕が、「めきり」と曲がる。純悟だけでなく、諏訪までも目の前で起こった変化に、言葉を失った。


 “穢れ”が――否、“母親”が意を決し、諏訪の腕をあらぬ方向に歪め、へし折っていた。そのまま諏訪の体が真上へと吊り上げられ、なすすべなく浮き上がる。


 諏訪が激痛に声を上げる間もなく、“彼女”は息子の体を掴み、滑るようにして動いていく。彼女は純悟が破壊してしまった勝手口へと、息子の肉体を拘束したまま戻ろうとしていた。


 体をからみ取られ、それでも諏訪は最後まで抵抗をやめなかった。彼は歪に変形していく肉体で、それでもなお叫び声を上げ続ける。


「やめろ――やめろやめろやめろやめろぉおお!! なにを――どこに連れていくつもりだ、離せ――」


 絶叫を上げようとした彼の顔に、さらに数本の“手”が張り付く。そのおぞましい光景に、純悟はついに驚きの声を上げてしまった。


 諏訪の“母親”だけではない。屋敷の奥から伸びた無数の“手”が、諏訪の肉体に絡みつき、奥へ引きずり込んでいく。大小さまざまなそれらを前に、純悟は本能で察してしまった。


 あれは諏訪に殺された者たちの、“怨念”だ――純悟と結子の見ている前で、諏訪が明確な悲鳴を上げた。


 屋敷の奥へと、“殺人鬼”の姿が消える。彼は“母親”に抱きかかえられたまま、広大な廃墟のどこかへと連れ去られてしまった。


 雨が降りしきる中庭には、ぼろぼろになった純悟と結子だけが取り残される。しばし二人は諏訪の引きずり込まれた勝手口を見つめ、身動きを取ることができなかった。


 だがやがて、限界を迎えた純悟の肉体が膝から崩れる。肩に刺さった矢を押さえたまま、彼は歯を食いしばり、水たまりに手をついた。


 そんな純悟に、たまらず結子が駆け寄り、声をかける。しかし、消耗した純悟の耳には、すぐそばで語りかける彼女の声が、どこか遠く霞んでしまっていた。


 辛うじて純悟は「大丈夫」とだけ、彼女に答える。だが言葉とは裏腹に、肉体には力が入らず、四肢の感覚が徐々に薄らいでいった。


 不思議なことに、痛みや恐怖はなかった。純悟はただ雨に冷たく濡れたまま、泥水の上に映る自身の顔を見つめ、考えてしまう。


 自分は“彼ら”のために、なにかしてやれただろうか。

 逝ってしまった“彼ら”の苦しみは、少しでも和らいだのだろうか、と。


 答えなどではでるわけはない。だがそれでも、純悟はうずくまったまま、意識が途切れるそのときまで、自問自答を繰り返し続けた。


 危機が去った屋敷を、なおも雨が降りつける。

 延々と響き渡る感情のない音色は、去ってしまった者たちへの手向けであるかのように、終わることなく世界を揺らし続けていた。


 静かで、柔らかに響き渡るそれが、純悟の耳にはなぜかこの時だけは、酷く柔らかで、優しい音色に聞こえてしまう。


 世界がもたらしてくれた挽歌を全身に受けながら、彼は微かに笑みを浮かべ、冷たい泥水の上で眠りについた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る