エピローグ

 薄暗い談話室のソファーに腰かけたまま、純悟は窓の外を眺めた。病院の3階から望む街並みを、曇天から零れ落ちた大粒の雨が濡らしていく。


 そんな“いつもどおり”の光景にため息をつく純悟に、戻ってきた“赤”一色の彼女が声をかける。結子はどこか困ったように笑いながら、手にしたペットボトルを掲げてみせた。


「ごめんごめん、すぐそこの自販機、軒並み売りきれちゃっててさぁ。結局、一階の売店で買ってきたよ」


 純悟が「おかえり」と手を掲げると、結子はペットボトルの緑茶を軽快に手渡してくる。水滴が掌をわずかに濡らし、伝わってきた冷たさが緩んでいた意識を覚醒させてくれた。


「悪いな。なにからなにまで、やってもらっちゃってさ」

「いいのいいのぉ。なにせ純ちゃんは、まだ安静にしなきゃあいけない身なんだからさぁ。飲み物買ってくるくらい、どうってことないって」


 痛快に笑うと、結子の赤いポニーテールがふわりと揺れた。薄暗い病院のなかですら、彼女の赤一色といういでたちはまるで明るさを失わず、影のなかに浮き上がって見える。


 そのいつも通りの姿に苦笑しながら、純悟は受け取った緑茶を開け、口に含む。苦味を喉に滑り込ませ、冷たいため息を吐き出した。


 結子もまた椅子に腰かけながら、改めて入院着姿の純悟を眺める。彼女は微かに目を細め、かつての“騒動”を思い出しながら口を開いた。


「随分と怪我も治ってるみたいで、良かったよ。特に肩のそれ――まだ、痛む?」

「いや、もう痛みはほとんどないよ。傷跡が突っ張るくらいさ。本当、矢で突き刺されるなんて、初めての経験でいまだに現実味がないな」

「そっか……重ね重ね、純ちゃんには怖い思いさせちゃったね。“穢れ”を祓うはずが、まさかあんな闇の深い場所に足を踏み入れることになるなんて」


 どこか申し訳なさそうに告げる結子に、純悟は「いいさ」と困ったように笑う。彼もまた手元のペットボトルに視線を落とし、自身が体験した数々の苦難に思いを馳せた。


 二人が諏訪邸から脱出し、生還を果たしてから既に半月が経とうとしていた。凶暴な“穢れ”と諏訪京志郎という“殺人鬼”に打ちのめされた二人は直ちに救出され、満身創痍のまま都内の病院へと運ばれたのである。


 幸い、結子は適切な措置を施すことで大事には至らなかったのだが、一方で純悟の肉体に刻まれた傷はかなり深刻であった。屋敷内での逃走劇で負った傷はもちろん、諏訪との殴り合いや、彼から射られた矢による傷はしばらく痛み、そのまま入院を余儀なくされたのである。


 一足早く退院した結子は、あれから事あるごとに病院に姿を現し、差し入れと共に見舞いに訪れてくれた。その度に純悟はこうして談話室の一角に陣取り、あれやこれやと他愛のない会話に華を咲かせてきたのだ。


 そんな純悟だからこそ、事の顛末はすでに聞き及んでいた。あの後、あの屋敷が――諏訪邸がどうなったのか、改めて彼は思いを馳せ、少しだけ物悲しい表情を浮かべてしまう。


 純悟らから事の真相を報告された警察部隊――毛塚が手配してくれたようだが――彼らは諏訪邸の奥底にある隠し部屋で、“彼”の姿を発見した。


 屋敷の持ち主であり、すべての元凶となった“殺人鬼”・諏訪京志郎は地下室で事切れていた。彼は椅子に括り付けたままの“母親”の死体の目の前で、まるでミイラのように干からびた姿で発見されたのである。


 その表情は筆舌に尽くしがたい、おぞましいものだったと聞いている。この世のものとは思えない“なにか”を目の当たりにしたのか、彼は外傷などないまま、精神が限界を迎え“ショック死”したようだ。


 なにが起こったのかは、純悟と結子にとっては知る由もない。しかし、二人にとっては彼を“連れていった者”の正体が、おのずと分かるような気がした。


「結局、最後の最後まで俺たちは彼女――諏訪の母親に助けてもらったんだな。彼女がいなけりゃきっと今頃、俺らはあの屋敷の真相にもたどり着けなかったし、諏訪を前になすすべなくやられていたかもしれない」

「そうだねぇ。彼女、ずっと純ちゃんに憑りついたまま、機会をうかがっていたんだよ。あの時――厨房で諏訪に純ちゃんが飛び掛かったとき、ほんのわずかに彼女の“髪の毛”が見えた気がしたんだ。あのときにはもう、彼女は覚悟を決めていたのかもね」

「そうだな……俺も今思えば、自分でもどうしようもない“衝動”に突き動かされていた気がするよ。普段の俺なら、あんな場面で殺人鬼に飛び掛かる勇気なんてないからさ」


 自虐的に苦笑する純悟だったが、彼は最後に「ただ」と付け加えた。結子は腕を組んで座ったまま、彼の横顔を見つめる。


「それでもあの時――中庭で“穢れ”を祓ってからは、自分の意思で奴と向き合ったんだ。“穢れ”になった動物たちの無念に、なんだかどうしようもなくやるせなくなってさ。自分でも馬鹿なことをしたって思うよ。一歩間違えれば、今頃、俺があの世に行っていたかもしれないだからさ」


 かつて、中庭で諏訪と対峙した時のことを、今でもしっかりと純悟は思い出すことができる。雨と泥に濡れ、それでも彼は内に滾る“熱”の感触を頼りに、恐怖を振り払って足を前に出した。


 思えばそれは、純悟が長い人生の中で初めて体験した、“本能”からの行動だったのかもしれない。彼は思わず自身の手のひらを見つめ、軽く握りしめてしまう。


 そんな純悟を見つめ、結子が「ふう」とため息を漏らす。彼女の眼差しはいつしか、窓の外――強く振りしきる雨へと向けられていた。


「だから何だと思うよ。彼女が――諏訪の母親が純ちゃんを選んだのは」

「それは、どういう……?」

「馬鹿だろうが何だろうが、純ちゃんは自分が抱いたまっすぐな気持ちのまま、あいつと真っ向から向き合おうとしたんだ。恐怖や不安を跳ねのけて、痛みすら構わずになにかに立ち向かう――それができる“純粋”な人間だから、あの母親も純ちゃんを信じたんだよ」


 なんだか随分と過大評価されているようで、純悟はわずかに気恥ずかしくなってしまった。反射的に後ろ頭をかいたが、肩の傷が突っ張り、どうにもおさまりが悪い。


 苦笑を浮かべる純悟を前に、なおも結子は続ける。彼女の眼差しに、ほんのわずかに真剣な色が宿っていた。


「だからだろうね。きっと、彼女だけじゃない。もっと大きな“なにか”に、純ちゃんはずっと愛されてきたんだと思う」

「大きな“なにか”……いまいちこう、ぴんと来ないな」

「これは私の予測なんだけどね。純ちゃんはやっぱり、――“雨”に愛されてるんだよ」


 どこか聞き覚えのある一言に、純悟は目を丸くして彼女を見つめてしまう。それはかつて、“打ち上げ”の際に赤ら顔で彼女が語っていた言葉と同じ内容であった。


 だが、改めて口にする結子の横顔には、どこか真剣な色が宿っているように見える。純悟は彼女を見つめたまま、黙って耳を傾けた。


「前に、純ちゃんが子供の頃、山の中にある“溜池”に落ちておぼれかけた、って話してたでしょ? ゴミ拾いをしてて、池に落ちて――偶然、“雨”が降って増水したことで、命からがら脱出できたってやつ」

「ああ、その話か。それが一体なんで、“雨”に愛されてるってことに繋がるんだよ」

「私が思うに、純ちゃんを助けてくれたのは――その、山の“神”みたいな存在だったんじゃあないかな?」


 予想だにしない一言に、純悟は「ええっ」と声を上げてしまう。閑散とした談話室に情けない声が響くが、結子は苦笑いと共に続けた。


「きっとさ。山にいる“神様”は、嬉しかったんだと思うんだよ。小さかった純ちゃんが、ゴミを拾ってくれたことが。そんな子が池に落ちて苦しんでるのを、“雨”を使って助けてくれたんじゃあないかな」

「随分と都合のいい解釈だなぁ。まぁ、なんかこう素敵な考え方ではあるけど、けれどあれが“神様”の仕業だったとして、俺が“雨男”だってこととは関係がないだろう?」

「けれど、あれからもたびたび、“雨”が純ちゃんのことを守ってくれてる――そう思いはしない?」


 唐突に問いかけられ、純悟は目を丸くしてしまう。驚く彼に対し、結子は腕を組んだまま、深々と椅子に腰かけ笑った。


「もちろん、外に出たいときに“雨”に降られるってのは良い気分じゃあないかもしれない。けれど、ここぞという時に、“雨”が純ちゃんを助けてくれてるように思えてならないんだよ。特にあいつ――あの諏訪って男とやり合う時は、それが顕著だったでしょ?」


 言われて、思わず純悟もかつての忌まわしい記憶を思い返す。中庭で諏訪と取っ組み合いになったときの出来事を、順序立てて思い返していった。


 中庭に飛び出した時にはすでに“雨”が降っていた。“雨音”が激しかったからこそ、純悟らは気配を殺すことができたし、ときには“雨”でぬかるんだ地面に足を取られ、致命的な一撃を交わすことができた。

 あの時もそう――諏訪に立ち向かった際、“雨”が唐突に彼の顔に吹き付け、ボウガンの照準を狂わせてしまったのだ。


 ようやく純悟も、“祓い屋”が語ろうとしていることが見えてき始めていた。そんな彼の背を押すように、結子は頷く。


「私の“力”でも、すべては見えない。けれど、なんとなく見守ってくれてるような気がするんだ。純ちゃんが、前に進めるように。この世の邪悪なものに足をからめとられないように、“雨”がそれを押し流してくれてるみたいでさ」


 それはどこか空想的で、夢見がちな考え方のように思う。だが一方で、純悟もまた自身の行く先々にまとわりついてきた“雨”という存在に、思いを馳せてしまった。


 いまもそう――談話室の外には、強い雨が打ち付けていた。それは街へと降り注ぎ、喧噪にまみれた都会の姿を優しく霞ませている。


 純悟はほんのかすかに笑い、ため息を漏らす。彼は椅子に深く腰掛け、視線を窓ガラスの外に向けたまま肩の力を抜いた。


「“神様”か……もしそんなのがいるなら、この世界にいる“穢れ”も消し去ってくれると、楽なんだけどな」

「そこまでうまくはいかないさ。そういうのは私たちみたいな、“祓い屋”が泥臭くお掃除する必要があるんだよ」


 振り向いた純悟の目の前で、結子は白い歯を見せて笑う。彼女の赤い髪が、なおも仄暗い談話室のなかで浮き上がって見えた。


「結子は――これからも、“祓い屋”を続けるのか?」

「もちろん。なにせ、こんな“力”を授かっちゃったんだからね。眠らせたまま普通の人生歩むなんて、もったいないよ。これだってきっと、“神様”が私に与えた、使命のようなものなのかもしれないからさ」


 またも登場した“神様”という単語に、改めて純悟はため息をついてしまう。だがやはり、結子はまるで揺らぐことなく、どこか無邪気な笑みを浮かべていた。


 その答えは半ば、純悟には分かりきっていた。だがなぜか改めて、目の前に座る赤一色の“祓い屋”の口から、あえてその答えを聞いてみたくなったのだ。


 彼女はきっと、これからも戦い続けるのだろう。どれだけ恐ろしい存在が立ちはだかろうとも、その身に宿した“力”を振るい、常に不敵な笑みを浮かべながら進んでいくのだろう。


 世界に焼き付く“穢れ”を洗い流すために。


 “祓い屋”の姿を前に、傷だらけの純悟の肉体が脈動する。入院中、幾度となく自問自答してきた言葉を、彼は気が付いた時にはふっと、自然に口走っていた。


「退院したらさ……俺にももう少しだけ、手伝わせてもらっていいかな? “穢れ”を祓うって仕事をさ」


 これまで笑みを浮かべていた結子が、初めて明確に驚いてみせた。目を丸くする彼女の顔がどこか滑稽で、たまらず純悟は笑ってしまう。


「手伝うって……いいのかい、純ちゃん? あんな怖い思いしたのに」

「ああ。今でも、思い出すだけで怖くなるよ。この数日で出会ったなにもかもが、本当に恐ろしいものばかりだった。だから正直、これをきっかけに元通りの日常に戻ろうかな、って思ったこともあったんだ。ただ――」


 純悟が告げた「ただ」という言葉の先を、結子は黙したまま待つ。彼女の眼差しを真っ向から受け止め、純悟は思いを告げた。


「元に戻るにはもう、色々と知りすぎちゃったからさ。この世界には、俺たちが知り得ない“なにか”がいる――それに知らんぷりをしたまま、またうだつの上がらないサラリーマンに戻るなんて器用なこと、俺にはできそうにないんだよ。もし、少しでも俺にもなにかできるなら……この世界に縛られたままの“誰か”の力になれるなら――そんな“生き方”をしたいな、って」


 それはどこかあっけらかんとして、締まりのない一言だったように思う。だが一方で、気安いその言葉の奥底に、純悟の曲がらぬ“意思”の輝きが覗いていた。


 彼が放った等身大の一言に、結子は「あは」と嬉しそうに笑い声を上げる。純悟もまた自然な笑みを浮かべたまま、嬉しそうにこちらを見つめる“祓い屋”に告げた。


「まぁ、結子みたいに力がないから、迷惑はかけちまうけどさ。また、“穢れ”が視えるように、新しい眼鏡も作ってもらわないとだし」

「それくらい、どうってことないさ! 純ちゃんみたいな几帳面な“相棒”は大歓迎だよ。なにより、一人で街を歩き回るより、話し相手がいた方が随分と楽しいしねぇ」


 純悟がそうであったように、結子もまたまるで飾らない言葉で返してくれる。なんとも彼女らしい言葉の数々に、純悟は肩を揺らして笑ってみせた。


 二人でいた方が楽しい――きっと、そんな程度でいいのだろう。世界にはびこる“穢れ”と対峙するために、二人が並んで歩くには、そんな理由があれば十分なのだ。


 どこか背を押されるように、結子の心が弾む。彼女は納得するかのように、腕を組んだっま頷いた。


「実は私も、色々考えたんだよね。“穢れ”とやり合っていくには、まだまだ人手も足りないでしょ? だからいっそのこと、“穢れ”を祓う専門の“業者”みたいなのを作って、大々的にチームを作ったらどうかなぁって」

「業者、か……なんだか話が大きくなってきたなぁ。けれど、そういうのって手続きとか面倒に思えるけど、やり方、分かるのか?」

「ううん、全然! けどまぁ、毛塚ちゃんとかもいるし、どうにかなるっしょ」


 壮大な夢を語ったかと思えば、あまりにも無鉄砲な結子の物言いに純悟は目を丸くしてしまう。だが、なおも“祓い屋”はまるで怯むことなく、嬉しそうに構想を語っていった。


「色々と忙しくなりそうだけど、それでもワクワクするねぇ。やっぱり何事も、楽しんでやってくのが一番だよ。晴れてようが雨が降ろうが――笑ってりゃあ、案外、なんとかなるもんだからさ」


 言いながらも彼女は、内ポケットからアロマパイプを取り出し、火を灯す。久々に香るラベンダーの煙に、純悟もまた全身の力が抜けてしまった。


 この世界にどれほどの“穢れ”がいるのかは分からない。もしかしたら、怪異などよりも恐ろしく、おぞましい人間も大勢いるのかもしれない。


 そんな仄暗い事実を前にしてもなお、純悟の気持ちは沈み込むどころか、隣に座る彼女に呼応するかのように、弾んでいく。清も濁も合わせ、これから踏み込んでいくであろう新たな“未知”を前に、わずかに期待してしまう自分がいた。


 純悟はまだ、この世界のなにもかもを知らない。そこにいるであろう存在も、縛られる誰かも。

 光があるからこそ、影がある。その影のなかにいるであろう存在を感じ、それでも純悟は恐れることなく、自然体で向き合うことができるようになっていた。


 純悟は視線を持ち上げ、改めて窓の外を見つめた。アロマの煙がゆらゆらと立ち上るその向こうでは、なおも雨粒が勢いを増し、容赦することなく世界を濡らしていく。


 白んだ景色のその奥に、見えざる“なにか”がきっといる。


 そんな荒唐無稽な事実はなおも、早乙女純悟という男の鼓動を力強く加速させ、全身に心地良い熱を滾らせていった。


 雨がなおも降りつける。窓ガラスを叩く不規則な音は、再起しようとする二人を祝福するかのように、どこか心地良く、小気味よい音色で談話室に歌った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

清葬員の挽歌 創也 慎介 @yumisaki3594

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画