第11話 可能性

 目を覚ました途端、純悟の全身を大小さまざまな痛みが襲った。頬に固いコンクリートの感触を確かめながら、ゆっくり、慎重に四肢に力を込めていく。

 痛みこそ走るが、幸い骨は折れていないらしい。体に覆いかぶさっていた瓦礫をどけながら、彼はゆっくりと体を起こす。


 気持ちを落ち着かせるため大きく呼吸を繰り返すが、ほこりっぽい空気を吸い込んでしまったことでむせてしまった。大きく咳をするたび、肉体の節々が痛みを放つのがなんとも辛い。


 そこは変わらず依頼主・諏訪京志郎が所有する豪邸の中だったが、その景色は大きく変容してしまっていた。

 衝撃によって壁や床が崩れ落ち、瓦礫が幾重にも重なっている。どうやら純悟は一階に落下してしまったようだが、目の前の通路は落ちてきた瓦礫の山で完全にふさがってしまっていた。


 その壮絶な景色に唖然としてしまう純悟だったが、すぐに先程、自身が体験した出来事を思い返し、“彼女”の姿を探してしまう。しかし、どれだけ視線を走らせようとも、瓦礫の隙間にあの“赤い”姿を発見することができなかった。


「結子……なあ、結子?」


 虚空に向けて言葉を放つも、返事はない。積み重なる瓦礫を見つめていると、純悟はどうしても最悪の展開を想像し、身震いしてしまう。


 まさか、この下に――一歩、瓦礫を取り除こうと踏み出したが、もろくなっていた天井が容赦することなく崩れ落ちてくる。純悟は慌てて後方に飛びのき、尻もちをついてしまった。


 目の前でコンクリートが砕け落ち、粉塵がもうもうと立ち上る。天井を見上げると、なおも支えを失った壁や天井がぐらぐらと揺れ、わずかの振動を契機にこちらに落ちてきそうだった。


 “彼女”を探したいという気持ちはあったが、それでも純悟は自身の身の危険を感じ、まずはその場から退散してしまう。ぜえぜえと肩で呼吸をしながら、壁にもたれかかり、必死に前へと体を押し進めた。


 まだ自身が生きているということに安堵はしたが、一方でその生の実感が生々しい恐怖を湧き上がらせ、体を内側から揺さぶり、震わせてしまう。純悟はゆっくりと歩きながらも、気が付けば身を包む寒気にカタカタと歯を揺らし、涙まで浮かべながら前へと進んだ。


 いまさらになって自身が置かれている状況を理解し、絶望感に打ちひしがれてしまう。対峙した“穢れ”の強大さもさることながら、その悪しき存在に彼女が――遊子屋結子ゆずやゆうこの力が通じなかったという事実が、純悟の心をへし折ろうと襲い掛かってくる。


 これまで、結子が“けがれ”を相手に苦戦するシーンなど、一度足りとなかった。どんなときも彼女は飄々と、無邪気に笑い、酒が入っていてもなお圧倒的な力によって“穢れ”を退けてきたのだ。


 そんな彼女があのとき、確かに押し負けるのをこの目で見た。今となっては彼女の行方も分からず、純悟はただ自身が生き残るために屋敷の出口を求めさまようしかない。


 前へと進みながら、それでも純悟は何度も立ち止まり、元来た道を戻ろうかとも考えた。だが、意を決して振り返ろうとしても、どうしても肉体がそれを拒んでしまう。


 戻ればまた、あの“穢れ”と対峙しなければならない――その一念が、純悟にこの場から一刻でも早く逃げる道を選ばせた。結子の行方を捜すよりも、まずは自身が安全圏へと逃れることを本能が選び取ったのである。


 その事実がただただ虚しく、そして悔しかった。

 恐怖に背を向け、苦痛から逃れようと必死にあがく自分の姿が、酷く身勝手でちっぽけに思えてしまう。


 助けを呼ばねば――純悟はつなぎのポケットからスマートフォンを取り出すが、画面に入ったひびを見つめ、絶句してしまう。どうやら先程の衝撃を受け、大破してしまったらしい。

 唯一の連絡手段を断たれ、また一つ、心が軋む音が聞こえた。しかし、弱音になる自分を叱咤し、なおも前に進み続ける。


 逃げるのではない。まずは外へと脱出し、助けを呼んでこなければならない。

 たとえ怪異が彷徨っていようとも、崩壊しボロボロになった場所であろうとも、このまま逃げてしょげかえることだけはするつもりがない。


 彼女を――結子を助け出さなければ。


 その一念を頼りに、純悟は湧き上がる後ろ向きな感情をひたすらに殺しながら、広大な屋敷の廊下を進み続ける。


 感覚を頼りに進み続けた純悟だったが、三つほど角を曲がった所で妙な気配に気づき、足を止めた。見れば奥の通路に、こちらへと近付いてくる人影が見える。そのおぼろげなシルエットから、それが女性のものであることをいち早く悟った。


「結子……結子なのか?」


 どこか嬉々として声をかけたが、反応はない。こうしている間にも影はどんどんと大きくなり、すぐ目の前の角にまで近付いてきている。

 本能的に純悟はそこで足を止めてしまった。丸眼鏡を覗き込んだまま、静かに、慎重に呼吸を繰り返す。


 なにかがおかしい――こうしている間にも女性の影は刻一刻とこちらに近付いてきているのだが、その光景になにか言い知れぬ違和感を抱いてしまう。


 怪我と痛みを負い、疲弊し打ちのめされたからこそ、純悟の精神はいつも以上に研ぎ澄まされ、目の前で起こることを冷静に分析していく。

 もうかなり近い場所まで、女性の影は近付いている。ものの数秒で彼女は角を曲がり、こちらに姿を現すのだろう。


 だったらなぜ――足音がまるで聞こえないのか。


 純悟が違和感の正体に気が付いた瞬間、廊下の曲がり角から女性が姿を現す。まずは彼女の顔だけがぬっと曲がり角の向こう側から迫り出し、こちらに視線を向けた。


 こちらを覗き込む“彼女”のその表情に、純悟は絶句してしまう。


 彼女の肌は灰色にくすみ、血の気はまるで感じられない。バサバサの長い黒髪が風もないのにゆらゆらと蠢いている。大きく見開かれたその眼は、まばたき一つせずにじいっと純悟のことを見つめていた。


 姿を現したのは結子ではなかった。だがそれ以上に、純悟はその女性の顔がある“位置”に言葉を失ってしまう。


 純悟の遥か頭上――3メートルほどの高さに、彼女の顔がある。

 身動きが取れない純悟の目の前で、女性はゆっくりと角を曲がり、その全身をこちらへとあらわにしてきた。


 真っ黒なドレスを身に纏った、恐ろしく長身の女性がそこにはいた。彼女は地面に足をつけず、ゆらゆらと宙に浮いたまま、高い位置から純悟のことを見下ろしている。


 純悟の鼓動がどくんと高鳴った。全身の血流が加速し、肉体が内側からかぁっと熱を帯びていく。

 味わったばかりの絶望を乗り越えようと奮起していた純悟の心が、新たな絶望によって再び窮地に立たされてしまう。


 この屋敷にいた“穢れ”は、一体ではない。


 巨大な女性は宙に浮いたまま、立ち止まっている純悟を指差す。彼女は目を見開いたまま、その口を異様なほどに大きく広げ、唸り声をあげた。


 「――オオオォオォォォォオ」


 低い女の声が、おぞましい波長となって大気を揺らす。先程まで純悟が対峙していた獣とはまた異なった“人ならざる者”の咆哮が、肉体を貫き細胞を粟立たせた。


 気が付いた時には純悟は踵を返し、反対方向へと全力で走り出していた。体の節々はまだ痛むが、そんなことをまるで気にせず、ただただ肉体に力を込める。


 逃げなければ――もはや、今の純悟に目の前の“穢れ”を退けるための手段はない。


 だからこそ、今は少しでも対峙してしまった“彼女”から距離を取らなければならない。“彼女”がどんな存在かまるで理解できないが、それでも近付くという選択肢ははなから捨て去っていた。


 逃げる純悟を、“怪異”はやはり追いかけてくる。宙にふわりと浮いたまま、音もたてず廊下を真横へと移動し、手を伸ばしたままこちらに迫ってきていた。


 自身に目掛けて迫ってくる巨大な影がただただおぞましく、純悟は振り返ることもせずにひたすら肉体を加速させる。一つ、また一つと角を無茶苦茶に曲がり、とにかく隠れられる場所を探し続けた。


 自身が走っている位置も理解できないまま、純悟はひとまず目の前に現れた扉を跳ねのけ、部屋の中に退避する。見ればそこは“書斎”として活用されていた部屋のようで、そこかしこにいまだに本棚が並び、ほこりと蜘蛛の巣が張ってしまっていた。


 純悟は自身が汚れることも構わず、書斎の奥へとひた走る。手頃な物影を見つけ、そこに滑り込むようにして身を潜めた。

 物影でしゃがんだまま、純悟はただひたすら、自身の呼吸を押し殺す。鼓動が肉体を打つ音がけたたましく響いていたが、全身の動きを止め、気配を消そうと必死だった。


 物音はしないが、やはりそのおぞましい気配だけは純悟にも察することができる。扉すら開けないまま、“彼女”は純悟を追って書斎の中へと入ってきたようだった。


 一つ、また一つと大きな気配が本棚を通り過ぎ、こちらへと近付いてくる。着実に距離を詰めてくるその重く、暗い感覚に、どうしようもなく呼吸が加速し、押さえ込んだ掌の内側でかすれた吐息の音を響かせてしまう。


 物影で体を縮ませ耐える純悟の心中に、耐え難い虚しさが湧き上がってくる。

 巨大な怪異を目の前にし、純悟にできることはあまりにも少ない。全身の汗にほこりが張り付こうが、涙が首を伝いつなぎにまで染み込もうが、それでもただ痛いほどに体を丸め、見つからないことを“祈る”ということしかできないのだ。


 そんな自身の情けなさに歯噛みしながら、それでもひたすらに純悟は願い続ける。部屋の中にいる“彼女”がこのまま立ち去り、何事もない静寂が戻ってきてくれることを。


 純悟はついに痛いほどに目をつぶり、暗闇のなかで叫び続けた。こちらへと近付いてくるその巨大な影目掛け、「消えろ」と何度も心中で訴えかけ続ける。


 もはやそれは、どうしようもない現実から目を背けようと駄々をこねる、“子供”のそれと同じであった。ここぞという場面で、そんな不格好極まりない立ち振る舞いしかできない自身の無力さが、なおも肉体を内側から震わせ、悲しい雫を湧き上がらせる。


 肌に伝わる空気の感触が、ぐぐぐとたわむ。無色透明の大気は、巨大な“彼女”の存在によって引き延ばされ、ぐにゃりと歪に形を変えていく。


 もう、すぐそこに、それがいる――純悟は暗闇のなかに乱反射する自身の鼓動の音だけを頼りに、呼吸を止めて時が過ぎるのを待ち続けた。


 数十秒か、あるいは数分か。

 もはや時間の感覚すら分からなくなってしまった純悟は、ゆっくりと、恐る恐る目を開いた。涙でぐっしょりと濡れた視界は酷くぼやけていたが、ゆるやかに、静かに書斎の光景が映りこむ。


 目の前にはやはり、打ち捨てられた書斎の薄暗い風景が広がっていた。隊列が乱れた本棚と、床に散乱した本の群れ、片付け終えられていないダンボールの山などがそこには鎮座している。


 静かに、微動だにしないまま純悟は視線だけを走らせ、周囲を確認した。しかし、先程廊下で対峙したあの巨大な“女性”の姿はどこにもない。本棚の隙間からゆっくりと部屋の隅々を観察してみたが、やはり荒廃とした書斎の景色が広がっているのみだ。


 しばし、物言わぬ書斎の風景を前に、純悟はまばたきすらせずに身構えていた。だがやがて、何一つ変化が起こらないことを察し、その身に宿った警戒心や恐怖が遠のいていく。


 諦めて、去ってくれたのか――そう思いながら、純悟は大きなため息をついた。軋む肉体に鞭を打ち、ゆっくりと物陰から立ち上がる。


 改めて、自身がいるこの館が“怪異”の巣窟になっているのだということを痛感してしまう。先程の巨大な女性の霊のように、他にも館のどこかを彷徨い、襲ってくる存在がいるのかもしれない。


 そう考えるだけで、純悟の背筋を薄寒い感覚が撫で付けた。しかし、とにかく一つの脅威が立ち去ってくれたことを受け、ほんのわずかに安堵もしてしまう。


 一刻も早くこの“化物屋敷”から脱出せねばならない。改めて意思を固めなおし、純悟は体を慣らすために伸びをする。

 背中に心地の良い痛みを感じながらも、おもむろに首を上に向けた。しばらく首筋を伸ばしていたが、目を開いた瞬間、再び全身が硬直してしまう。


「――えっ?」


 ついに耐えきれず、純悟の喉元から声が漏れる。伸びをしたまま動きを止め、書斎の天井を見つめてしまった。


 そこには、“彼女”がいた。


 黒く長い髪の毛や身に纏ったドレスの裾が、重力を逆らって空間に広がっている。

 去ったと思っていた巨大な女性の“霊”が、天井に張り付くように浮遊し、高くから純悟を見下ろしていた。


 彼方の“それ”と、純悟の視線が交わる。“彼女の”の灰色に染まった水気のない肌がぐぐぐと歪み、口の端が確かに持ち上がった。


 笑みを浮かべた瞬間、巨大な黒い影がこちらへと落下してくる。急速に近付いてくる怪異を前に、純悟の生存本能が再び爆発的な力で駆動し始めた。

 反射的に、本能的に地面を蹴って前に出る。駆け出した純悟のすぐ背後に、巨大な気配が音もなく着地するのが肌で分かった。


 だが、純悟は一切、振り返るつもりはない。呼吸を乱し、あらんかぎりの力で書斎の唯一の出入り口であるドアを目掛けて駆け抜ける。


 純悟の手がドアに到達し、ほんのわずかに押し開けた。その隙間に誰もいない廊下が見えたが、冷たく、重々しい感覚が純悟の足首を絡め取ってしまう。


「――ッ!?」


 反射的に振り返った純悟は、飛び込んできた光景に言葉を失ってしまう。自身を追ってきた巨大な“彼女”が地面を這うように倒れ込み、長い手を伸ばして純悟の足首を掴み取っていた。


 再び怪異と視線が交わり、呼吸を止めてしまう。女性は目をカッと見開き、口をあらんかぎりに開いて吠えた。


「おぉぉおおぉおぉぉおお」


 大気が鳴動し、純悟の全身を震わせる。あっけに取られていた彼の体は、怪異によって地面に引きずり倒されてしまった。


 背後へと引っ張られる純悟だったが、絨毯に爪を立て、必死に抵抗する。肉体や関節がどれだけ痛みを発しようとも、まるで気にすることなく、限界を超えた力で前へと這っていった。


 ずるり、ずるりと純悟の体が少しずつ、後方に引き寄せられてしまう。巨大な女性と純悟の距離が、刻一刻と縮まっていた。


 いやだ――純悟の心の中に、幾度となくそんな言葉が湧き上がり、肉体に力を滾らせた。敵わないとしても、それでも純悟は全身全霊で背後の怪異に抗い続ける。

 歯を食いしばり、ついには目すら閉じた闇の中で前へと手を伸ばす。肉体を波打つ冷たい感覚に、呼吸すら止めて抵抗した。


 また一つ、女性は叫び声を上げる。

 そのどこか物悲しい波長が、不意に純悟の脳裏に無数の“風景”を浮かび上がらせた。


「えっ……?」


 それらの意味は分からない。だが純悟は目を見開き、おもむろに自身の足首を手繰り寄せる“彼女”へと振り返ってしまった。


 目の前にはやはり、巨大な女の顔があった。血の気を失った表情で、彼女は大きな口を開き、純悟を見ている。


 言葉はなかった。だが、その表情と、足首を掴む彼女の手から、確かに伝わってくるものがある。


 あなたは――純悟が声をあげそうになった、その瞬間であった。


 伸ばしたままになっていた彼の手首を、暖かく、確かな感触が掴んだ。予想だにしなかった力強い感覚に、純悟は再び前を向く。

 そこに立っていた“紅蓮”の姿に、純悟はまた一つ、声をあげそうになる。だがそれよりも先に、純悟の手を掴んだ“祓い屋”が笑った。


「お待たせ。よく頑張ったね、純ちゃん!」


 瞬間、遊子屋結子はありったけの“力”を純悟の体目掛けて流しこんだ。それは電流のように純悟の体にわずかな刺激を残し、手から足首に向けて流れていく。


 彼女の放った“力”は、そのまま純悟を橋渡しとし、巨大な女性の“霊”へと炸裂した。

 巨大な女性が悲鳴を上げる。衝撃によって彼女は純悟を掴んでいた手を離し、後方へと弾き飛ばされてしまった。


 純悟の足首にまとわりついていた感覚が消え、肉体がふっと軽くなる。その一瞬を逃さず、結子は「どっせい!」という掛け声と共に、純悟の腕を引き寄せた。


 二人は転がるように廊下に飛び出て、尻餅をついてしまう。結子は急いで開いていたドアを閉め、その表面を押さえつけた。


 純悟は呼吸を荒げたまま、結子が押さえつけるドアを見つめてしまう。あの巨大な女性がドアをぶち破り追ってくるのではと想像してしまい、反射的に絨毯に爪を立ててしまう。


 しかし、待てどくらせど、ドアが開く様子はない。しぃんと静まり返った空気のなか、結子は「ふう」とため息をつき、ゆっくり両手をドアから離す。


「やれやれ、なんとか諦めてくれたか。ひとまずは大丈夫そうだね」


 腰を落とし、「ははっ」と笑うその赤い姿に、純悟は一瞬、言葉を失ってしまった。

 何を言うべきか、なんと声をかけるべきか。幾度となく自問自答してしまう純悟だったが、ついに耐えきれず、彼女の名を叫んでしまう。

「――結子!」

「悪い悪い。ちょっち、遅くなっちゃったね。いやぁ、無駄に広い家ってのも困りもんだね」


 あくまで結子は変わらぬ笑顔を見せてくれた。しかし、彼女のボロボロになった姿に、純悟は笑みなど浮かべることはできない。


 赤いレディーススーツの至る箇所が破れ、傷跡からは鮮血が滲み出ていた。頭部も傷付いているらしく、赤く染まった髪の毛の隙間から、一筋の血がつぅと流れ落ちている。

 結子はそれを乱雑に、スーツの袖で拭いとる。傷付いた彼女の姿に、純悟はわなわなと震えながら言葉に迷ってしまう。


「結子……すまない、俺……俺、あの時――」


 二階で“穢れ”と対峙した際、何もできなかったこと。そしてなにより、崩壊した館の中で彼女を置き去りにし、その場から逃げ出してしまったことを、純悟は酷く恥じた。再会した彼女に向けて、どんな贖罪の言葉を告げるべきかを、必死に考えてしまう。


 しかし、うろたえる純悟の意図をいち早く読み取り、結子は笑ったまま先手を打った。


「純ちゃんが謝ることなんてないって。こんなの、大したことないっての。まぁ、スーツの方は新調しなくちゃあいけないっぽいけどねぇ」

「けれど、俺……俺、なにもできなくって……」

「何もできなかった、なんて思わないの。あの時、純ちゃんがあの“御神酒おみき”を投げてくれたから、結果的にあいつ――あのでっかい“犬っころ”を追い払えたんだからさ」


 予想だにしない返答に、純悟は「えっ」と呆けてしまう。かつて四足獣の“穢れ”と対峙した際の記憶が、徐々に蘇ってきていた。


 あの時、純悟は咄嗟に、すぐ手元にあったペットボトル――神聖な力を持つ“御神酒”が並々と蓄えられたそれを、目の前の“穢れ”目掛けて投げつけたのだ。

 反射的な行為だったが、結果的にそれが結子の力を増幅させ、襲いかかってくる“穢れ”の巨体を退けることに繋がっていた。


「だから、必要以上に背負い込むことなんてないって。実際、あのアシストがなきゃあ、私も危ないところだったんだよ。本当、ありがとうね」


 なんとも複雑な気分に、純悟はたまらずうつむいてしまう。てっきり、逃げ出したことを叱咤されるとばかり思っていただけに、再会した彼女からの賞賛を素直に受け取ることができない。

 なおも混乱してしまう純悟だったが、一方で結子は「ふう」とため息をつき、さらに話題を先へと進ませていった。


「けれど、この屋敷は思った以上に厄介極まりない場所みたいだね。二階にはあの“犬っころ”、一階にはさっきの“大女”と、どこもかしこも“穢れ”だらけだ」

「な、なんなんだよ、あいつらは? なんであんなのが、この屋敷に……」

「さあねぇ。理由はいまいち分からないけど、これまで相手にしたどんな“穢れ”よりも強力で厄介さ。少なくともあの“犬っころ”のほうは、生者に対してとんでもない“怒り”を抱いてる。どうやら、対話って道はなさそうだね」

「あんなの、俺たちだけでどうにかなるのか? もし、また襲われでもしたら……」


 弱気になるべきではないと純悟も分かってはいるものの、どうしても対峙した存在の圧倒的な力を前に、後ろめたい感情が湧き上がってしまう。

 もし、この屋敷でまたあの“穢れ”たちに遭遇した場合、果たして無事で済むのだろうか、と。


 その危険性は全身に傷を負った結子も重々承知していた。彼女の不適な眼差しの中に、それでもわずかばかりの影が覗いている。


「一旦、後退して体勢を整えたほうがいいだろうね。なにせ、あんな“大女”さんまでいるんだ。多勢に無勢――一度こちらも、毛塚ちゃんにでも連絡して協力を仰ぐべきかも」


 人ならざる者を相手取ってきた結子とて、無敵の存在などではない。もし万が一、複数の“穢れ”に同時に襲い掛かられでもした場合、生き残れる可能性は限りなく低くなってしまう。


 次なる一手を見据え、結子は「やれやれ」とまたため息をつく。だが一方で、彼女が口にした“大女”と言う単語に、純悟はどうしても反応してしまった。

 彼は我に帰り、先程、自身が逃げ込んだあの書斎のドアを見つめてしまう。


「どうしたの、純ちゃん?」

「いや。さっきの、彼女は――」


 思いを巡らせた純悟の脳裏に、突如、先程湧き上がってきた数々の情景がフラッシュバックする。頭がズキズキと痛んだが、目を閉じ、暗闇の中でその無数の“思念”に向き合った。


 当初こそ、その無秩序な光景の数々に圧倒されていた純悟だったが、やがてそれらが指し示すある事実に気付く。気がついた時には彼は目を開き直し、再び、閉め切った書斎のドアを見つめてしまっていた。

 結子が「純ちゃん?」と問いかけるが、まるで反応を返せない。だが代わりに、純悟は生唾を飲み込み、喉を潤す。


 まさか、あれは――自身が胸中に抱いたわずかな可能性に、純悟の意識が覚醒していった。


「なあ、結子。ちょっとだけ、時間をもらっていいか? この書斎の中を、調べてみたいんだよ」

「なんだって? だって、この中には――」


 結子もまた、視線を目の前のドアに向ける。言わずもがな、この先には先程の“大女”がいる可能性が大きい。そこにわざわざ舞い戻ろうとする純悟の真意が、結子にも分かりかねてしまう。


 純悟自身、これが“賭け”なのだと分かってはいた。だがどうしても、自身に流れ込んできた光景――とある人物の“記憶”が、嘘偽りない真実なのではないかと、気になってしまう。


 確証はない。だがそれでも、その先にこの豪邸が“化物屋敷”となってしまった、核たる部分が眠っているような気がしてならない。


 純悟の眼差しにただならぬ気迫を感じ、結子も黙したままドアの向こうへと意識を巡らせる。


 相変わらず、書斎の中からは物音は聞こえてこない。

 そこに誰もいないことの証左なのか、はたまた二人を招き入れるための罠なのか。


 自身を待ち受ける“なにか”を予感したまま、しばし二人は物言わぬ大きなドアを睨みつけてしまった。

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