旅人と鷹
夏川
旅人と鷹の途次
プロローグ
薄暗い路地裏、人の足からも喧騒からも距離を置いたその場所で、影の濃くなっているそこから古びた扉の開く音が聞こえた。
「ここに来るのも久々だね」
影からはひょいと一人の青年が姿を見せる。男性とも女性とも取れる顔立ちをしている青年は、ぱっちりと開いた目できょろきょろと辺りを見渡す。歳は二十代前後に見えるが、好奇心旺盛な幼さを残した表情に、それに反する落ち着いた雰囲気のせいか実際のところはよくわからず幾つにでも見える。
赤茶色に染まった髪、それを編んだ三つ編みを揺らす。と、首から掛けている古びた懐中時計も一緒に揺れた。
彼、あるいは彼女は「ノーマッド」と呼ばれていた。
それは青年本来の名前というわけではなく、単に「放浪者」という意味を表す呼び名だ。
ノーマッドは旅人だった。
「君も物好きだね」
ふと声が聴こえた。振り返ると影から、ノーマッドが今しがた出てきた扉から一羽の鷹が翼を広げ飛び出し、そのままその肩へと止まる。
声はそこから発せられた。
「表の賑やかな通りと繋げばいいのに、こんな寂れた通りと繋ぐなんて」
「この閑静さがいいんだよ。そもそもあんた人の多いところ苦手でしょ」
「まあね」
鷹の名前は「カダル」といった。
鷹でありながら人の言葉を操る彼はノーマッドの旅の相棒で、その付き合いも長い。一人と一羽のやり取りから、どこかカダルのほうが大人びていてノーマッドより目上であるように感じた。
流暢に人語を話す鷹は旅人の肩から離れ、建物の見下ろすよう広い空を旋回しはじめる。
「あれ、あんたは来ないの?」
ノーマッドは声を張り、頭上を優雅に舞うカダルに問う。
「僕は遠慮しておくよ」
カダルの声が降ってくる。離れた空からにも関わらずまるで隣にいるような錯覚を覚えるくらい、不思議とよく通る声をしている。
「せっかくの水入らずを邪魔するのは悪いし」
「……でも、」
「もしかして、一人じゃ心細い?」
カダルのからかうような声にノーマッドはムッとする、――図星だった。
しかしそれを気取られるのは癪だったので「そんなことはない」とだけ否定し、カダルに背を向けて足を進める。
今回この街に訪れたのはただの気まぐれではない。
普段宛てもなく各地を放浪する彼らにしては珍しく、目的があったのだ。
ノーマッドはひとつ大きく深呼吸をする。
心細い、というより、緊張していた。この街に来ることも、この通りを歩むことも、そして、これから向かう場所に訪れることも、全て久しいことだった。
自分の記憶にあるものと変わりない風景が目に入ると懐かしみ安堵したが、それと変わらないほどに自分の記憶にない見知らぬものが目に入ると少しだけ不安を覚える。そんな気を紛らわせるためにノーマッドは足早に薄暗い通りを進んでいく。
そして、幾ばくも経たないうちに歩みを止めた。
視線の先には古びた一軒の家。
ノーマッドはその家の扉の前まで足を進める。
もう一度深く息を吸って、吐く。
扉の横に付いているブザーに手を伸ばす。が、それに触れようとするノーマッドの指は直前で止まる。手にはじんわりと汗が滲んでいた。
らしくない。と思いつつ、指先はブザーに触れようとしない。
「押さないの?」
ここまで来て怖気ついた?
そんな鷹の癪に障る声が頭上から投げ掛けられてる気がして、「そんなことはない」と声には出さず否定した。
ブザーの音が響き渡る。
家の中から物音が聞こえ、それは段々と扉へ、ノーマッドのほうと近づいてくる。それにつれノーマッドの心音は少しずつ落ち着きをなくした。
「どなた?」
扉が静かに開いた。
中から一人、しわくちゃな顔に柔らかい笑みを湛えた老婦が顔を出した。
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