旅人と呼び名
「ねえ、いい加減教えてってば、名前」
彼は幾度目かになる同じ質問を繰り返す。
「だから、置いてきちゃったから今はないんだ、名前」
それに対し、幾度目かになる同じ答えが返った。
澄み渡る青空の下、陽の光をいっぱいに受け地平線の彼方まで青々と輝く草原を一台の幌馬車が進む。喉かな風景の中、ゆったりと馬車を引く馬はどこか朗らかで、その手綱を握る皺の深い男も人の良さそうな顔を弛緩しているように見える。
そんな、どこまでも穏やかな時間の流れる昼下がり。
その馬車の荷台には相乗りする者が二人いた。
一人は胸元に懐中時計を提げ静かに、しかしどこか人懐こい笑みを携える。一人はまだ少しあどけなさの残る少年で、くるくると表情が変わり笑顔が眩しい。
二人は荷台の後ろから足を投げ出し並んで座り、談笑を楽しんでいた。
軽快に歩む馬の蹄の音、それに引かれ転がる車輪の音、そして揺られる馬車の音と共に景色は流れてく。先程後にした町はもう見えなくなっていた。
「だけどさ、やっぱり、呼ぶ名前がないと不便だよ」
「だからさ、そのまま、『旅人さん』とでも呼んでくれればいいよ」
「でも、それはなんだか紛らわしいというか、ややこしいというか、変な感じがするんだもん」
オレだって『旅人さん』なんだから、と彼は口を尖らせる。
彼は、そして隣に並ぶ名無しは同じ旅人であった。ただ彼らは旅を共にしているわけではなく、それぞれの旅の途中で偶然出会い、気まぐれで道中を同行しているだけで、出会ってからまだ日は浅い。しかしそんなことを感じさせない程に二人は瞬く間に打ち解け、まるで古くからの友人のように親しくなっていた。
だから、彼は名無しと自称する友から名前を教えてもらえないことにほんの少し拗ねていた。
「じゃあもうさ、君の好きな名前で呼んでくれればいいよ」
「オレの好きな名前で?」
「そう、君が僕の呼び名を考えてよ」
思い付きで口にしてみただけだがこれはなかなか面白い提案だ、と思ったのだけれど、名無しのその提案に彼はまた口を尖らせる。
「またすぐそうやって話をはぐらかせて」
君を呼ぶ名前が欲しいんじゃなくて君の名前が知りたいのに、と言いたげなふくれっ面に思わず笑みがこぼれた。
名無しの隣で頬を膨らませる彼の名前はソルといった。遠い地の言葉で『太陽』という意味らしい。眩しいくらいに明るく朗らかで暖かみのある笑みを携える彼にはピッタリな名前だ、と名無しは胸の内で微笑む。
彼はなんだかんだ文句を零しつつも呼び名を考える気になったらしく、腕を組みうんうんと頭を捻り始めていた。
「ノーマッド」
彼がぽつりと口にする。
「ノーマッドってどうかな、そのまま『放浪者』って意味だけど」
安直過ぎるかな?と彼は少し照れたように頬を掻き、名無しの顔をちらりと窺う。
「ノーマッド……、放浪者か、僕にはぴったりの呼び名だね」
名無しは少し考えるようにして宙を見つめた後、「気に入った」と笑顔を見せた。
彼はほっとしたように胸を撫でおろす。しかし名無しが「この先も使わせてもらおうかな」と言えば「本当にそれでいいの?」とまた照れ臭そうにして困ったように苦笑を浮かべた。そんな彼の様子に名無しは少し悪戯っぽい表情を浮かべ、「それじゃあ」と続ける。
「改めまして、僕は名も無いただの旅人、ノーマッドという呼び名で通っているよ」
何それ。彼は呆れたように笑った。
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