エピローグ
久方ぶりに足を運んだ街、久方ぶりに訪れたある家、そして久方ぶりに顔を合わせた人物。
その柔らかな表情を湛え佇む老婦を前に、ノーマッドは少し言葉に詰まる。
「あ、えっと、」
何も変わってなかった。
雰囲気から表情から、目の前に佇む老婦はノーマッドの記憶にあるその人のままで、懐かしさと嬉しさが込み上げる。
しかしそれとは別の感情もじわじわと沸いてきて、手に汗が滲む。
自分のことは、こんなに変わってしまった自分のことは受け入れてもらえるのだろうか。
「あの、わかんないかもしれないけど、その、僕、」
「***」
ふと、懐かしい響きが聞こえた。
一瞬それがなんだったのかわからずにきょとんとするノーマッドに、老婦は柔らかく笑いかける。
「ああやっぱりそうなのね。全然変わってないからすぐわかっちゃった」
ああ、そうだった、随分聞いてなくて忘れてた、それは僕の――
「おかえり、***」
――僕の名前。
ノーマッドは老婦に家の中へと通された。
つい先程まで騒がしかった心音も今ではすっかり落ち着いていて安堵すら覚えている。自分を案内する老婦にちらりと目をやるとこっそりと顔を綻ばせた。
歩く度に床はぎしぎしという音を立てる。そしてその音はひとつの部屋の前で止み、次にはぎい……と扉を開く音が鳴った。
「あなた」
老婦は部屋の中に入ると、その隅にあるベッドまで歩みを進める。
ベッドでは一人の老人が眠っていた。
彼女の主人なのだろう、老婦は傍らにある椅子に腰を掛けると柔らかく微笑みかけ、その手を握り、眠りついている老人に話し掛ける。ノーマッドが訪れてきてくれたことを話しながら、嬉しそうにしわくちゃの顔を綻ばせた。
しかし、老人が目を開けることはない。
ノーマッドは朗らかに語りかける老婦と、目を覚まさない老人のそばへ寄る。
「最近はずっと寝てばかりなの」
せっかく帰ってきてくれたのに。と優しげな瞳で老人を見つめながら老婦は困ったように微笑む。
「何かお話ししましょう。いろいろと、話したいことも聞きたいことも、いっぱいあるの」
老婦はノーマッドに向き直り、真っ直ぐと見つめると懐かしさと嬉しさを滲ませた微笑みを見せた。
ノーマッドもそれにつられて顔を綻ばせる。
「そうだね。僕もいろいろあり過ぎて、何から話そうかな」
ノーマッドと老婦は眠り続ける老人の傍ら、空いた時間を埋めるよう語らう。それぞれのこれまでの話から一緒になって懐かしむ思い出話、変わったことと変わらないこと、時折老人にも声を掛け会話に混ぜる。しかし返事はない。
次々と紡がれ途切れることのないように思えたその談笑は、ふうっと息を吐くように一息ついた。
「そういえばお茶もまだだったね」
変わらず柔らかい笑みを浮かべながら老婦はそう言い残すと静かに部屋から出ていく。
ノーマッドは今しがたまで老婦がいた場所、老人のすぐ隣まで寄り、そのまま老人の眠るベッドに腰を掛けた。足を投げ出しながら開きっぱなしにされた扉から老婦が帰るのを待つ。
「……遅えよ」
ノーマッドの耳に細い声が届く。
声のした方へと視線を向ければ、先程まで閉じていた老人の目が微かに開いていたのに気付く。ノーマッドは一瞬驚いたように目を丸くして、そしてすぐにその目を細めた。
「おはようねぼすけさん」
頬を緩ませ、こぼれんばかりの笑みを見せながらそう言葉を掛ける。すると老人もまた口を開き、今度ははっきりとした声色で言う。
「帰ってくんの遅えよ、アホ」
老人の口からは乱暴でぶっきらぼうな言葉が飛び出した。
起きていきなり、久しぶりに会ったのにいきなり、もう少し他に言うことあるんじゃないの、っていうかそっちは起きるの遅すぎ、いつまで寝てるつもりだったの。
ノーマッドの口からは思わず次々に言葉が飛び出しそうになったが、それを飲み込み老人に向けてただにやりと笑みを見せた。
「相変わらずで安心した」
老人は体を動かさず、と言うより、動かすのも辛いのか、視線だけをノーマッドに向ける。
「まだ持ってんのか」
「何を?」
「時計、オレがやったやつ」
「うん、ちゃんと持ってるよ、ほら」
「それ、動いてんのかよ」
「ううん、随分前に止まっちゃった」
「アホ、壊れたら持ってこいって言っただろ」
「あはは、ごめん」
「動かない時計なんて持ってても意味ねえだろ」
「いいんだよ、大切なものには変わりないから」
不機嫌そうに言葉を吐く老人に、ノーマッドは無邪気に笑いかける。
懐かしさを感じながらも、まるで離れていた時間を感じさせないような、二人の間には他愛のない会話が紡がれる。
「あのね、僕、いろんな場所に行って、いろんな人に会って、いろんなものを見てきたんだよ」
ふと、ノーマッドは腰を上げベッドの方に向き直るとしゃがみ込み、そして老人の視線に合うようベッドに肘をつき寄りそった。ノーマッドは聞き取りやすいようゆっくりと言葉を紡ぎ、老人は静かにその話に耳を傾ける。
「何をすればいいのか、どこに向かえばいいのか、それはまだわからないけど、だけど、立ち止まりたくはないんだ」
ノーマッドはいつもの笑みを湛えながら、しかし瞳には何か強いものを宿していた。
その眼差しに、老人は一息置いた後ふんと鼻を鳴らしつつ「そうかよ」とぶっきらぼうに呟く。そして視線をノーマッドから外したかと思うと、代わりにその手をノーマッドの頭へ向けて伸ばした。老人の細くしわくちゃの手がノーマッドの髪をくしゃくしゃと撫でる、懐かしい感触に頬が自然と緩んだ。
「あら、起きたの?」
お茶を淹れに出ていた老婦が戻ってきた。老人が目を覚ましていることに気付くと嬉しそうに微笑む。ノーマッドはその様子にまた頬を緩め、静かに老人の隣を譲る。老婦は老人の手を握り視線が交わるとさらに嬉しそうにしわくちゃの顔を綻ばせた。
懐かしくあり、今も昔も変わらない心地よい空気感、このままこんな時間がずっと続けばいいのにとさえ思う。
ああ、やっぱり僕は―――
「じゃあ、そろそろ行こうかな」
お茶を飲み終え、ノーマッドはそう口にする。
こんな時間がずっと続けばいいけれど、それは叶うことのない話。
もう行っちゃうの?もう少しいたら?と老婦は寂しそうに声を掛け、その隣で老人は何も言わずにただじっとノーマッドに視線を向けた。ノーマッドは二人に笑い掛け、短く別れの挨拶をすると、そのままくるりと背を向ける。
「 」
ふいに呼び止められて振り返る。
老人の声だった。老婦に支えられ、体を起こし真っ直ぐノーマッドを見つめていた。
少しの間だけ、沈黙が訪れ、そして老人はゆっくりと口を開く。
「元気でな、***」
名前を呼ばれる、僕の名前を――
胸の奥から熱いものが込み上げる。
このままずっとここで一緒にいられたら。そんな思いが過り、そのまま二人のそばに駆け寄り抱きしめたくなる。
でも、僕はもう「***」じゃないから――
「ありがとう。――大好きだよ」
その名前とともに過ごした時間も、この気持ちも、ここに置いていくよ。
僕の大好きな人と大好きな場所へ。
僕は、立ち止まりたくないんだ、立ち止まるわけにはいかないんだ。
「もういいの?」
二人に見送られ家を後にすれば、それを見計らったようにカダルがノーマッドの肩へと舞い降りた。
ここまで来ていたのなら一緒についてくればよかったのに。と言おうかとしたが、どうせ皮肉をぶつけられからかわれるだけだと思い、ノーマッドは口を閉じる。
「お別れはちゃんとしてきた?」
「してきたよ」
彼らとも、***として過ごした時間とも。
きっともうこの街にも来ることはない、ノーマッドは小さく口の中で「バイバイ」と呟いた。長居をすると後ろ髪を引かれそうだと来た道を真っ直ぐに戻る。
――僕は誰でもなく何でもない、人語を話す奇妙な鷹を連れて宛もなく旅を続ける、
「さあ、次はどこへ行こうか」
――ただのノーマッド。
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