とある老夫婦の話

「この人とのね、約束したの」

 

 眠りついている老人の傍ら、「秘密よ」とまるで子どもが内緒話をするかのように老婦は無邪気な瞳を見せる。

 窓からは柔らかな日が差し込んでいた。


「どんなことがあっても、お別れのときは笑顔でいましょって」


 最期の思い出は笑顔が良い、どちらが言い出したのかは忘れたが、二人で決めた約束事。ふふっと老婦は少女のような笑みを浮かべる。


「残されるのが私でよかった」


 そんなことをぽつりと呟く。

 なんで?と不思議そうな顔をすると、老婦はまた微笑みかける。


「だってこの人、私が先に行ったら、絶対泣いちゃうもの」


 

 ***


 

「行っちゃったわね」


 懐かしい来訪者が出ていった部屋に、老婦と老人は残された。老婦は来訪者の帰った後も開いたままの扉をいつまでも見送りながら、それでも寂しさは覗かせず微笑んでいた。


「寂しくないのか」


 老人の口から思わず出てしまう。すると老婦は可笑しそうにくすくすと笑い出した。


「ふふ、あの子にも同じようなことを言われた」


 寂しくないの?心配そうに見つめる瞳を思い出す。


「寂しいけれど、それ以上にいっぱい思い出をもらったから」


 老婦は名残惜しそうに見つめていた扉から視線を外し、そしてその視線は老人へと向かう。

 寂しがりのくせに。老人がぶっきらぼうに呟くのが聞こえた。

 

「あなたこそ、一人で先に行って寂しがらないでね」


 私はあなたのことが心配。なんて言いながら、老婦は老人の手に触れ優しく握り締める。ひんやりと冷たい老人の手に、老婦の手のぬくもりが伝わる。


「おまえに心配される筋合いはない」

「そんなこと言って。私はすぐにあなたのところには行ってあげないから、まだまだいっぱい、あなたの分まで楽しんでやるんだから」


 老婦はすこしいじわるな言い方をしながらも無邪気な笑みを見せる。

 出会った頃から変わらない、過ごした日々を重ねても、しわの数が増えても、老婦にはいつまでも少女のような面影が見えた。あどけなさの滲む瞳を細める。

 

「それで、あなたのところへ行くことになったら、あなたにいっぱいお土産話を聞かせてあげるの」

 

 しかし言葉を紡ぐほどに、その瞳は徐々に潤みを帯び始めた。老婦の声がわずかに震える。ただそんな中でも笑みだけは崩さない。瞳からは今にも零れ落ちそうなほどの雫が、それでも形になることはなく、老婦の瞳をきらきらと煌めかせていた。

 そうして微笑む老婦の表情はまるで小さな宝石のようだった。


「楽しみにしてる」


 老人は少しだけ、優しく微笑んだ。


「ああでも、あなたのところに行く頃には、私は今よりも、あなたよりももっとしわくちゃになってるかもしれない」

「今更変わらねえよ」

「もう、あなたはいつもそんなことばかり」


 老人のこの憎まれ口には穏やかに微笑むだけだった老婦も頬を膨らませた。ぷいとそっぽを向いて、そして、少しして二人して笑い出す。

 長年連れ添ってきた二人の戯れになんだか懐かしく感じ、そして――

 

「……少し、疲れたな」

「……眠るの?」

「……そうだな」

「…………そう」


 老人はどんなときでもそばにいてくれた伴侶へと目をやる。そこには少し寂しげな瞳が覗いたが、視線に気付くとその色は引っ込みいつもの笑みが返ってきた。

 ――最期の思い出は笑顔が良い。


「ありがとな」


 老人は微笑む。普段乱暴でぶっきらぼうな言葉しか口にしない老人からのそんな言葉に少し嬉しくなったが、同時にまた、少し寂しくなった。


「おまえと過ごせて、幸せだった」


 またな。老人はそう呟くと、静かに目を閉じた。


「私も、幸せだった」


 またね。微笑む老婦の頬に一筋、涙が零れ落ちた。

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