とある吸血鬼の話

 月の綺麗な夜だった。

 少女は吸血鬼になった。


 少女は小さな村で両親と幸せに暮らしていた。富はないが貧しくもなく、両親からの愛をいっぱいに受けた少女から笑みが絶えることはなかった。

 ――しかしその幸せはその晩、一人の吸血鬼により呆気なく崩れ去った。

 道に迷ったと嘯く吸血鬼は少女の両親の厚意により家へと招かれるとその途端、少女の目の前で両親の血を喰らい尽くし殺した。そして息付く間もなく、次にはその光景に怯え動けない少女に血に染まった牙を突き立てた。痛みと恐怖の中、少女の意識は途絶えていった。

 しかし、少女の命はそこで尽きなかった。

 吸血鬼が去った後、静まり返った部屋で少女は一人目を覚まし、そして絶望した。目の前には無残な姿で転がる両親、そして残されたのは、両親を殺した化け物と同じ存在に成り果ててしまった自分だった。

 その日を境に少女からは笑みが消えた。


 受け入れがたい惨憺たる現実に少女はただ涙した。




 月の綺麗な夜だった。

 少女は生まれ育った村を飛び出した。


 少女は森に囲まれた小さな村で暮らしていた。そこに住む者は皆情が深く暖かで、村全体がまるでひとつの家族のようだった。村人たちは突然両親を亡くした少女を気の毒に思い、当然のように少女のことを気遣い見守った。

 しかし何年経っても変わらない容姿、死人のように青白く冷たい肌、ちらりと覗かせる鋭い牙、そして陽を避け夜な夜な森の奥へと姿を消す少女に、村人たちは次第に少女のことを気味悪がるようになっていった。

 ついにはある夜、少女が動物の生き血を啜っている姿を目撃すると村人たちの態度は豹変した。少女のことを化け物と罵り、石を投げ、髪を引っ張り、棒で殴りつけた。それまで暖かい笑顔を向けてくれていた村人たちの顔からは嫌悪や怯えが滲んでいて、少女はそれがとても辛かった。

 少女は優しかった村の人間から虐げられることに耐えられなくなり、村から出た。

 それからはどこへ行けど同じことの繰り返しだった。化け物と罵られ、殴られ、虐げられ、少女は人間と関わるのが怖くなった。


 ひとりぼっちの夜が幾度も続き少女はただ涙した。




 月の綺麗な夜だった。

 少女は寂しさに耐え切れず人でいることをやめた。


 どれだけ人間の振りをしても、化け物である自分を隠し切ることができなかった。

 少女は人としての生を諦めた。

 人間の中で生きることはできなくても、化け物の中で生きることはできるかもしれない。両親を殺し自分をこんな姿にした化け物と同じ道を歩むことは苦渋の選択だったが、孤独な少女にはもうどうすることもできなかった。

 その夜、少女は初めて人間の血を吸った。

 その行為には嫌悪しか抱かなかったが、それを欲していた体はそうでもなかった。自らの意思に反し、求めていたものがようやく与えられ体が悦びに震える感覚を嫌でも実感した。少女は酷くおぞましくなり、同時に自分はもう人間ではなくなったという事実を改めて痛感した。


 人でなくなってしまった少女はただ涙した。




 月の綺麗な夜だった。

 少女は自分と同じ化け物たちを見つけ出した。


 幾月もの時間を掛け、様々な土地へ足を運び、探し続け、少女はようやく彼らに出会うことができた。

 少女の中で彼らに対する恐ろしさと憎悪は拭いきれなかったが、その反面で、孤独に震える生活ともこれで最後だと安堵と喜びも覚えた。

 しかし彼らが少女を迎え入れることはなかった、少女の存在が不完全で脆弱なものだったからだ。力は劣り、特異の才も持たず、従者も眷属も作れず、不死性もない、少女は成り損ないの吸血鬼だったのだ。

 プライドの高い彼らはそんな少女のことを仲間だと認めることはなかった、少女が自分たちを同族として捉えていることを烏滸がましく汚らわしいと不快にさえ思った。彼らは不完全な少女を嘲笑った。成り損ないと罵られ、殴られ、虐げられ、少女は彼らの元から逃げるように去った。


 人でなくなり化け物にもなれなかった少女はただ涙した。




 月の綺麗な夜だった。

 少女は森の奥にある古びた教会を見付けた。


 人間にも化け物にもなれず、行く宛もなくただただひとり幾つもの夜を彷徨い歩いた少女の前に、それは姿を現した。

 人里を離れた深い森に佇む朽ちた教会は、どこかおどろおどろしく異様な空気を醸し出していた。良くないことが起こる予感に胸がざわつくが、まるで何かに誘われ抗えないように少女はその教会の扉に手を触れた。

 扉を開けば、中にはあちらこちらに無残な人間の亡骸が転がっていた。少女はその光景をただ眺めた。酷い異臭の中、無造作に転がる人だった物体にぞくりと背筋が冷えたが、生きている人間よりは恐ろしくなかった。こんな場所に安堵を覚える自分に、――こんな場所でしか安堵できない自分を酷く惨めに思い、目の前に広がる惨状は神に見捨てられた者たちの末路を物語っているようで、自分にはお似合いだと自嘲した。

 少女はこの死に包まれた教会を自分の住処にすることに決めた。ここならきっと死を恐れる人間も神に怯える化け物も寄りつかない。

 少女の望みはひとつだった。この先をずっと、永遠に、――ひとりで。


 彷徨い続け疲れ切った少女の涙は枯れ果てていた。




 それからは、何年も、何年も、何年も、幾度もの月の満ち欠けを眺め、 幾度もの夜を迎え、幾度もの朝に眠り、心はすっかり擦り切れて、笑うことも泣くこともなくなり、そうして少女はずっとひとりきりで過ごしてきた。


 永遠に続く長い長いひとりぼっちの夜の淵で、少女は月を見上げた。





 ――月の綺麗な夜だった。


 少女は一人の旅人と出会った。

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