名前を失くした日
「ここだよ」
鷹に案内され、辿り着いたのは白く殺風景な空間だった。
開いた扉の先に恐る恐る足を踏み入れる。そこは小さな部屋で、窓のないそこは床も壁も天井も全てが白に染まっていた。中央にはひとつだけベッドがあり、それ以外は何もない。
「そこにいるのが、彼だよ」
後ろから鷹が声を掛ける。
ちらりと目を向けると鷹は扉の前で立ち止まりそこから足を踏み入れようとしなかった。
視線をベッドに戻す。
そこには、彼がいた。
彼の姿に息を飲んだ、一瞬本当に彼なのか疑った。髪は白く伸び切り、体は痩せ細り、肌は血色の悪い白を纏っていた。目を開ける様子はなく、胸の上で組まれた手は固く微動だにしない。あまりに静かに横たわる彼はまるで、まるで――
「ただ眠っているだけだよ」
強張る体に気付いたのか、速まった鼓動の音が聴こえでもしたのか、鷹はそれを打ち溶かすかのようにそう告げた。
眠っているだけ。鷹の言葉を耳に、改めて彼に目を向ける。よく見ればその胸は小さく上下に動き、顔を近づければ微かに息が行き交うのがわかった。彼の呼吸を確認すると自身の口からも深く息が漏れた、緊張が緩み少し体の力が抜ける。
――それも、続いた鷹の言葉により瞬く間に張り詰めることになる。
「もう目が覚めることはないけど」
どういうこと?唐突な言葉に振り向く、鷹の静かな瞳と視線がぶつかった。鷹はそれ以上言葉を続けず、その眼差しをただただ向けてくるだけだった。
再び問いかけようと口を開いて、ふと過る、もしかして――と思考が巡り、即座に彼の方へ視線を戻した。
「どうして」
小さく声が零れ落ちた。
もしかして、いや、絶対にそうだ、彼は自分の代わりに――。
「どうしてあんたが……!」
疑惑は確信へと変わっていき、感情が抑えられずに声が荒くなる。
「勝手なことしないでよ、誰もそんなこと望んでない、こんなことして僕が喜ぶとでも思ったの、あんたを犠牲にしてまで僕は――!」
違う、こんなことが言いたいわけじゃない。
ぐっと言葉を噤む、深く閉じた彼の瞼を前に、行き場のない憤りを手の平と共に強く握りしめる。
「それは、僕が背負っていくものでしょ」
やり場のない感情は弱々しく言葉になり、力なくその場に膝をつく。
「どうしたらこの人から取り戻せる?どうしたらこの人を目覚めさせることができる?」
鷹の方へ振り返る。どうすれば良いのか鷹はきっと知っているはずだ。しかし縋るような瞳を向けられながらも鷹は意に介す様子もなくけろりと呟く。
気に病むことはないよ。
「君は自分の意志とは関係なく背負わされたけど、彼は自分の意志で全てを受け入れたんだから」
そんなことはどうでもいい!こんなの僕は認めない!
鷹の言いようにまた言葉も感情も荒れていく。そしてそれと対照的に、鷹は変わらず静かに言葉を続ける。
「だけど、どのみち彼の命は残り少ないんだ、目覚めてもすぐに尽きるだけだよ」
何それ、どういうこと?
唐突に突き付けられる言葉にまるで水を掛けられたように熱が引いていくのを感じた。胸が嫌な鼓動を刻み、体中の血液が冷えるのを感じる、寒いのに汗が滲む。だけど鷹の顔色は変わらない。
そのままの意味だよ、彼はもう長くなかったんだ。
まるで大したことでもないかのようにさらりと流してしまいそうなほど淡々と告げられる鷹の言葉は、その淡白さとは裏腹に胸の内に衝撃を落とし息の仕方すら忘れてしまいそうだった。
呆然とする中で鷹はこちらに構うことなく言葉を投げる。
「君は彼の生を否定するの?」
鷹は相変わらず扉の前から動かないままだ、それなのに、そばにいないのにまるで顔を覗き込まれ問われているように感じた。
「これは彼が選んだ生の在り方だよ」
そう、彼だって軽はずみな気持ちで全てを投げ打ったわけではないよ。苦悩もあったし覚悟も決めた、命も生涯も全てを抱えてこの選択に辿りついたんだ。
彼にとっては君が全てだったから。
「彼は最期の時を使って全てを抱えてここで眠り続けることを選んだんだ」
彼の覚悟を、意志を、生涯を、彼の全てを、君は否定するの?
「君には彼の生を否定するだけのものがある?」
淡々と一方的に投げられる鷹の言葉に何かを言い返そうとしたが、何も口から出てこなかった。逃げるように鷹から目を逸らす。彼が視界の端に映ったが、それも上手く見ることが出来ない。
そうして、力無く項垂れるしかなくなった背に向かい、鷹はぽつりと言葉を零した。
「ごめんね、これだけは譲れない」
――どれほどの時間が経っただろう。
彼の眠るベッドのシーツを握り締め顔を埋めたまま蹲ることしか出来ずにいるのを、鷹はただ静かに待っていた。
どれくらいの時間を待つことになろうが、鷹はただ静かに待った。
「……あんたはら僕と出会うためにやってきた、って言ったよね」
ふと気付くと埋めた頭が持ち上がっていた。
鷹はまた淡々と問に答える。
「そうだよ。君に出会って、君と生きるため、僕は在る」
それが、彼の最期の願いだから。
鷹が答えた後に、またしばらく静寂が訪れた。鷹は同じように静かに待った。彼のことも自分のこともすぐには受け入れるのが難しいかもしれない。それも仕方ない、それでも構わない、自分は自分がするべきことをするだけだ。
そうしてただ待っていると、ひとつ、大きく息を吐くのが聞こえた。
「カダル、僕はあんたと一緒には生きれない」
背を向けたまま言葉が投げられる。
表情は見えないが、先程までの弱々しさを今はもう感じない。
「僕は――、***はこの人と一緒にここに眠るから」
それは決意を宿した声だった。
視線が眠る彼に向いている、その背からちらりと強い瞳が覗いた。
「この人が全てを僕に捧げたように、僕も僕の全てをこの人に捧げるから」
だから、あんたと一緒に生きることはできない。
「……彼はそんなこと望んでないよ」
「……僕だってこんなこと望んでなかった」
だからおあいこ。
――でも、
振り返ると、鷹は怒るわけでもなく悲しむわけでもなく、ただそこに静かに佇んでいた。
でも、だから――
「名前も失って誰でもなくなった僕と、……一緒に、生きてくれる?――カダル」
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