三話 奴隷
ゾンビ、もとい自分の母親は自力では動けないようだ。暗闇の中で真っ黒な目だけを動かして俺を見つめる。
「ああ、今日も無事に帰ってきたよ。ただいま、母さん」
そう言った途端に一瞬目を見開いた。ように見えたが、俺の見間違いか……?
この体の記憶では、この世界には危険が満ち溢れている。野生動物、魔物や盗賊、それに病気もそうだ。現代日本では簡単に治るような怪我や病気でも、この世界では命取りになる。すぐ目の前に死が待ち受けているのだ。単純な作業とはいえ、まだひ弱な子供の体だ。何かの拍子で簡単に命を落としてしまう。
そんな俺の身を案じてくれていたのだろう。母親は俺の帰りを今か今かと待っていたのだ。
一瞬躊躇したが、そっと母親の体に触れて体を横に向ける。寝たきりらしい母親の床擦れ防止だ。既に皮膚がずるずるで、あまり意味はないかも知れないけど。
部屋の隅に置いてある甕から水を掬い、少しずつ母親に飲ませる。
「あ゛り゛がどお゛ぅ゛」
怪我なのか病気なのか分からないが、どうやら声帯もやられているらしい。
なんとか絞り出している声はしゃがれていて非常に聞き取りにくいが、それでも俺にはすんなりと意味が伝わってきた。
一通り母親の世話をして、垂れ流しの排泄物を処理し、水を汲みなおし、少しだけ空気の入れ替えをして一息つく。
どうやら夕飯はないみたいだ。
この世界の常識なのか奴隷だけがそうなのか分からないが、少なくとも夜に食事をした記憶がない。
明るいうちの作業を終えて家に帰ってからは、ただひたすら朝が来るのを待つだけだ。
やる事もないので自分のゴザで横になる。申し訳ないが母親は放置だ。
横になりながら、今日覚醒した事を考える。今日覚醒したことに何か意味はあるんだろうか。単純にこの体が成長して前世の俺の魂? を受け入れる準備が出来ただけなんだろうか。最悪な想像をすると、この体の魂はあの時死んでしまい、そこに俺が偶然入り込んだのだろうか。
結論は出ない。だが、この醜悪な母親をすんなり受け入れている以上、魂の残滓のようなものは少なからず残っているのだろう。
前世の俺は妻の不貞と、何事もなし得なかった事を後悔し、憤った。この体の持ち主は、奴隷の子供で食事も満足に与えられず、明日も見えない状況に絶望し、祈りでもしたのだろうか。
転生か、憑依か、融合か。方法は分からないが二つの魂が結びつきあって今がある気がする。
今この時、何かをなし得るためにここにきたのであれば、悪人でもなんでもなって状況を打破しろと言う事なんだろうか。いやぁ、厳しい。明日の命もわからん。
ふとした時に鼻につく異臭に視線を向ける。
この人は本当に俺の母親なんだろうか。非常に醜く異臭を放つ存在だ。頭では母親と認めたくないが、でも体がそれを受け入れている。血の繋がりを感じるのだ。
ふう。衝撃的なことがありすぎで、前世の怒りが霞んでしまった。
だがやはり忘れられない、きっと忘れちゃいけない。
何も成せなかった前世だ。転生できたのだとしたら、悪でもなんでも何かを成したい。その為に心から願ったのだから。
頭の中で考えがグルグルまわってまとまらず、気付かぬうちに眠ってしまった。
※ ※ ※ ※
前世の記憶が覚醒し、この身体になって数日を過ごした。やはり若い体というのは凄い。どんなに動いても、どんなにくたびれても、翌日にはほとんど全快してる。怪我をしてもすごい早く治る。おっさんのか体だと、捻挫でも治るまでに半年かかった事があったからな……。
気持ちも体に引っ張られて、多少考え方も若くなった気がする。若いといってもこの体は多分五歳以下。若いより幼い、だな。
その幼い心がもっとも感じたことは、悪い意味での無関心だ。
村人も奴隷も、お互いに関心がない。村人同士なら当然それなりに意識しているが、奴隷に対しては生活圏内に現れない限り見えないモノになっているな。
奴隷が村人に対して考えている事は食事、体罰この二つだけ。与えられて嬉しいものと、与えられたくないもの。どうやって手に入れるか、どうやって回避するかしか考えてない。それで奴隷同士で仲が良いかというと、それもない。仲良しにならずとも、せめて相互扶助の関係であればいいのだが。
他の奴隷が動けなくなれば、ここぞとばかりに見下してくる。自分よりも下がいる、その腐った優越感に浸る事だけが、もしかしたら奴隷に許された唯一の楽しみなのかも知れない。
生きていくだけで精一杯なのは分かるが、凄く理不尽だ。怒りに頭が沸騰しそうだ。
少しだけ相手に思いやりを待ちさえすれば、この状況は劇的に改善するんじゃないだろうか。
この村ををぶっ壊してやりたいとか、逆に繁栄させようなんて気持ちはないが、それでも自分に理不尽が降りかからないくらいの環境は欲しい。
そうは思うものの、俺もまた一日一日を生き抜くだけで精一杯なのだ。自分の無力さを痛感し余計に腹が立った。転生物でよくあるチートな能力は俺にはなかった。
でも、この体は若い。チートがなければ努力で勝ち取るのだ。今のうちから何かに打ち込んでおけば、近い未来に才能が開花するかも知れない。ここは前に成し得なかった、一つの事をとことん突き詰める時だ。
アレだな、正拳突きだな。感謝ではなく怒りを込めて突くのだ。目標一日一万回。いつか音を置き去りにしよう。
※ ※ ※ ※
奴隷の朝は早い。夜明けとともに今日も奴隷としての一日が始まる。
朝だけは食事を貰えるが、その前に奴隷には仕事がある。村人達の排泄物の処理、要はトイレ掃除だ。前日使ったトイレ用の穴を土で塞ぎ、その近くに新たなトイレ用の穴を掘る。
掘るのは大人、埋めるのは子供と分担しさっさと終わらせる。空腹で力が入らず雑に作業をしたせいで、土を埋めた時にお釣りが飛んできてしまって周りに居た何人かにもかかってしまった。すまん。
そこまでやって、やっと食事に。自分と母親の器を持って村の中央に食事を貰いに行く。大人の奴隷達は穴掘りに時間がかかるので、大抵は俺達子供の奴隷が先に食事にありつける。
すでに村人達は食事を終えており、村人の食べ残しのスープを一人に少しずつだけ配られる。
大人しく配給を待っていると、突然横から蹴飛ばされた。
「ど、どけ、俺が先だ」
くそっ、誰だ! と振り返ると作業を大急ぎで終えてきただろう奴隷のおっさんである。ガリガリで髪も髭もボサボサ、汚い事この上ないし、迫力もない。
「なんでだよ、俺が先に並んでただろ」
とっさに俺も足を蹴っ飛ばして言い返す。俺に反抗されると思っていなかったのか、奴隷のおっさんはあ然とし、次第に顔を真っ赤にしてプルプル震えながら喚き散らしていた。
喚いているのを無視して配給の列に戻る。
すぐ近くで叫んでいたが、あのスキンヘッドが一言「うるせえっ!」と言ったら、すごすご退散してどうやら列の最後尾に並んだ様だ。
朝から胸糞悪い。完全に蹴られ損じゃないか。今のは絶対俺は悪くない。もっとやってやれば良かった。
イライラしながらも器にスープを貰う。
麦の様なものが僅かながらに入っただけのスープ。
だが貴重な一食だ。こぼさぬ様に家へ持ち帰り、母親に食べさせる。
相変わらず動けないが母親の体の下に藁束を挟み、少し体を持ち上げて匙で一口ずつ口へ運ぶ。
「あ゛、あ゛……」
多分感謝の言葉だろう。前の俺からしたら介護なんて想像もつかない。母さんには申し訳ないが、こんな見た目の人間の世話なんて普通は出来ない。ただ何故か、今の俺には受け入れることができた。積極的にではないが、今の俺ならちゃんと出来る。
食事を終えると、数珠繋ぎに連れられて畑で作業をする。今日の引率はスキンヘッドでなく普通の男だった。引率はその日ごとに変わるが、スキンヘッドが来るのは週に一度くらいだった。
改めて明るいところで見ると、畑は広大な土地だった。村の規模に比べて随分と大きい気がする。恐らく年貢というか、税の徴収の為に余計に作らされているのだろう。だから俺たちの様な農奴を囲っているのだ。
今日も同じ作業を繰り返す。単純労働なのでどうしてもついつい余計な考え事をしてしまう。
朝、おっさんに蹴飛ばされたことを思い出してイライラしてきた。おりゃっ、と雑草を乱暴に引っこ抜く。
でも自分が蹴り返したことに思い出してハッとした。俺、おっさんを蹴ってしまった。あんなに自然に人を蹴飛ばすなんて。奴隷の生活で心が荒んだんだろうか。
でも正直スッキリした。
頭の中では俺は最強で、奴隷のおっさんもスキンヘッドの用心棒も俺には敵わない。指先一つでチョチョイのちょいだ。そんなことを考え一人悶々としながら作業を続ける。気付いたらそれなりの範囲をむしり終えていて、子供の体でも腰が悲鳴をあげていた。
それでも進捗が早かろうが遅かろうが時間が来るまでは作業が続くので、咎められない程度に休憩を挟みながら作業を続けた。
「ふぅ」
また一箇所の作業が終わり次の箇所に移る時、足元に石が一つ転がっていることに気づく。
あれ? こんな所に石なんてあったっけか? さっき綺麗にしたはずだし、埋まってもいなかったと思うけど。
首を傾げて石を拾ったところに、今度は足に石が飛んできた。
んー、あー、そうだよね。石なんてなかったよね。誰かが放り投げでもしない限り。
転がってきた石の方向へ目をやると、当然の如く朝のおっさんがいた。周りには仲間なのか、ガリガリもさもさの奴隷仲間も立っている。
まあ、それを言うなら俺だって仲間だろうが。
「なんだよ、おっさん」
調子に乗ってたらやっちゃうぞ? 朝の調子でおっさんに対して強くあたる。おっさんはニヤニヤしたままで何もしてこないが、時折取り巻きのおっさん達が石を投げてくる。
「いてっ」
いくつも投げられれば、たまには当たる。頭に来たので拾った石を思い切り投げ返してやった。
「てっ、てめぇ!! ま、またやりやがった、な!!」
沸点の低いおっさんと取り巻き達はそのまま俺に突撃してきた。労働成果の邪魔をされ俺も腹が立っていたので正面から迎え撃つ。いいよ、こいよ。やってやんよ! 俺の正拳突きの威力思い知らせてやる!
流石に無理があった。
初めて滅多打ちにされる恐怖を味わった。
殴られる度に頬がジンジンとなる。鍬みたいなのでも叩かれた。流石に刃の部分ではなかったが、頭をかばった手に当たり多分指が折れたと思う。
途中、俺達を引率してきた奴と目があったが「へっ」と鼻で笑っていなくなった。
俺への暴行はおっさん達の息があがるまで続いた。
いくら奴隷でヨボヨボのおっさんとはいえ、俺もヨボヨボな奴隷ということを忘れていた。
しかも子供だ。せいぜいが三歳から五歳くらい。
複数の大人に勝てる訳がなかった。
「も、もう二度となめっ、舐めた真似、すんじゃねえぞコラ!」
息も切れ切れおっさんが叫ぶが、言い返す気力も体力もなかった。おっさん個人に恐怖は感じなかったが集団での暴力、人の本気の悪意に晒されて俺の昂った気持ちは急速に萎えてしまった。
力なく頷くと満足したようにおっさん達は持ち場に戻る。
この瞬間、俺は奴隷の中の奴隷になった。
※ ※ ※ ※
痛む足を引きずりながら村へ帰る。
私語は許されていないが、おっさん達が上機嫌なのは雰囲気で分かる。くそっ。
中には俺を心配そうに見る奴もいたが、結局は他人事だ。怪我をしている奴隷の子供を見て、自分の立場が良いことを再確認しているだけだ。そんな野郎達ばかりで反吐がでる。
別にいい。変に構われたくない。俺はこんな奴等に負けてなんかいない。子供に対して集団でないと何も出来ない奴等だ。俺が成長すればこんなやつら……!
村の中で解放され、悪臭漂う自宅に帰る。
何も考えずに帰ってきたが、母の存在を思い出し一歩入った所で立ち止まってしまった。
「お゛、がえ゛り゛」
「……ただ、いま」
「あ゛あ゛、ぎょう゛も゛ぶじに゛がえ゛っでぎで……」
母の言葉がそこで止まる。動けない母では、俺の姿はまだ視界の外にあるはずだ。なのになんで。
「あ゛あ゛、な゛んでひどい゛……」
動けぬ母の目から、雫が零れ落ちる。まるで自分の痛みの様に泣いている。
今はその母の優しさすら鬱陶しかった。
なのに自然と涙は溢れ、不思議と体と心の傷は癒えてしまった。
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