そうだ、悪人になろう

しゃみせん

一話 プロローグ

 順風満帆だった。

 俺の人生に特に不満はなかった。……はずだ。


 小さい頃は物覚えも良く、何をやらせても一回でできた。

 一を聞けば十を知り、神童などと持て囃された。


 小学校では運動にも才能を開花させ、足なんかは当然の如く学年で一番速かった。

 球技大会では必ずメインの競技に出場し、誰よりも得点を重ねた。

 両親も自分の活躍に大層喜んだ。この頃から両親を喜ばせることが、自分の中での最優先事項となった。


 中学進学の時には、有名進学校への受験を期待されたが地元を離れる決心がつかず近くの公立中学へ通った。

 ただ持ち前の器量の良さを発揮して、成績は常に上位をキープ。授業の中だけではあるが、スポーツでも高評価を得ていた。


 しかし、中学校とは小学校よりも広いエリアから集められたコミュニティである。全ての分野において特異な者たちがあらわれ、そして俺の存在意義は薄れてゆく。

 勉強だけ出来るクラスの委員長。頭は悪いがスポーツだけは誰よりも上手くヒエラルキーのトップに君臨する馬鹿。

 そして、根性だけに特化した所謂ヤンキー。

 思春期特有の価値観で、ケンカが強い、スポーツが上手い、勉強が出来る人間は羨望の眼差しを集めた。

 勉強では委員長に一歩及ばず、スポーツでは馬鹿に勝てず、ヤンキーに睨まれれば気配を殺して逃げまどう。

 それでも、俺は毒親気味の両親の言う事を愚直に聞き、ただただ品行方正な人間を演じていた。



 そして高校、大学受験。

 かつて神童と呼ばれた男の姿はそこにはなく、かといって決して落ちこぼれにはならない、いわゆる何処にでもいる普通の男が出来上がる。


 そこそこの私立高校に入り、そこそこの成績を残し、それなりにバイトもして、少しだけ恋愛もする。

 そこそこの私立大学に入り、趣味を嗜み、そこそこ学び。

 法を破る事もなく、人の道を外れることもなく。浮いた話もなかったが平均よりも少しだけ高い身長を武器に、ステレオタイプから少しだけズレた、やっぱりステレオタイプな彼女を作り、中小企業に毛の生えた程度の会社に就職をする。


 無難に仕事をこなし、それなりに評価され、少しだけ役職もあがり、無事に結婚をする。


 これでゴールかと思いきや、まだまだそこはスタート地点。

 三年後に子供が出来たことをきっかけに家を建て、小さいながらも一国一城の主となる。

 さらに二年後にはもう一人子供が産まれ、時には厳しい父親を演じ、時には素敵な夫となる。



 何も不満のない、誰もが羨むごくごく一般的な市民の暮らし。

 これでいい、これで残りの人生はもう消化試合だ。

 本気でそう思っていた。その時までは。



「……えっ? なんですか? ……癌?」



 俺を待っていたのは、大腸ガンだった。

 体調を崩し受診した時にはステージ4で、もう体中に転移しており、手の施しようがないと言われた。



「……あなたっ」


「パパ、死なないでっ!!」


「大丈夫、パパはまだまだ死なないよ。お前たちの子供を見るまでは元気でいるって決めてるんだ」



 そうは言ったが、医者からはすでに余命半年の宣告。万が一手術が成功しても、5年生存率は約10%。分の悪い賭けだ。しかも賭け金チップは自分の命。笑えない。どうしてこうなった。

 俺は必死であがいた。いや、あがいたフリをした。

 根拠のない民間療法に手を出し、違法スレスレの薬物に縋り、八百万の神様達にも祈ってみた。




 ……でもまぁ、これも仕方ないか。未練はあるが、思い残す事はあるが、俺はやり切った。

 家族を作り、子供を育て、環境も用意した。強いて言えばまだ親孝行が出来ていないか。

 それでも、俺の生きた証を残せたんだ。俺が死ぬ時に妻と子供が涙の二つ三つ溢してくれれば、俺はもう満足だ。これ以上は望むまい。そう自分に言い聞かせた。



 ※ ※ ※ ※



「……ええ、ええ。もう実際は長くないらしいわ。いやね、やめてよ。私だってそこまで最低な女じゃないわ。ちゃんと最期くらい看取るわよ。ええ、そうね、あなたとの事はその後にね。大丈夫、心配しないで、愛しているわ」



 夢か現か、妻のそんな声が聞こえた気がした。電話だったのか、会話だったのか。その内容は決して良いものではないと言う事は分かる。きっと幻聴だ、俺の妻がそんな事を言うはずがない。

 そう言い聞かせてみるものの、俺の心臓は癌を告げられた時よりも激しく脈打つ。



 妻が見舞いに来た時に、俺はそっと妻のスマホを覗いてみた。普段なら絶対に見なかっただろう、妻のプライベートだ。

 お互いやましいことがないはずだからロックはしないようにしよう。ロックをしなくてはならない時は暗証番号は結婚記念日で。


 そんな事を思い出しながら妻の携帯を手に取る。

 ロックは……かかっている。きっとそういう必要があっただけだ。結婚記念日を入力、よし解除された。

 と、すでに通話アプリに沢山の表示が溜まっている。

 恐る恐るアプリを開き、開いた瞬間に後悔をした。

 そこはもう、俺の知っている妻のやり取りではない。トップ画面に表示される文を見るだけで、それが不貞の内容だと理解できる。



 手が震え、動悸が早まり、耐えきれずにスマホを取り落とす。拾い上げるなんて考える余裕もなく、点滴を腕につけたままトイレへと駆け込み必死に嗚咽と闘った。



 ——どうして、どうして、どうして、どうしてなんだよっ……!!

 胃液を吐きながら、頭の中にはどうしてという単語しか浮かんでこない。


 病気のせいなのか、ストレスのせいなのか、激しく痛む頭と胃を抑えながら必死に体を支える。


 ……ああ、そうか。俺は騙されていたんだ。いや、愛想を尽かされていたんだ。

 そうだよな、俺は何の取り柄もない人間だ。そんなことはわかってた。いつかこうなるんじゃないかと思ってた。

 それでも、そんな俺でも人生をかけて大切にしたいと思ったんだ。



 吐き気が落ち着き少しだけ冷静になる。


 ……そういえば。


 長男は妻に似てると思っていたが、俺に似た部分はあったか?

 長女は手の形が俺に似てると言っていたが、耳の形は俺にも妻にも似ていなかった。

 妻の誕生日、不自然に着飾った妻が出かけていなかったか。


 思い返せば返す程、他の男の影が垣間見える。


 間も無く終わろうとしている俺の人生。最期の最期にこんなことって、あっていいのかよ。

 全身の力が抜けその場にへたり込んだ。胸の痛みで呼吸が浅くなる。



 ……あぁ、まったくもって何もない人生だった。

 夜遊びもせず、非行もせず、親の言う通りに過ごしてきただけ。


 校舎の影に隠れて吸うタバコはうまかっただろうか。

 同級生の女の子とする飲み会は楽しかっただろうか。

 チームメイトと絆を深めた部活はどんな青春だったろうか。



 俺の中にはただ憎しみだけがあった。

 ただただ憎かった。

 俺を裏切った妻が。妻の血を引いた子が。妻をそそのかした男が。俺にこんな人生を歩ませた親が。

 そして、何もしてこなかった自分が。



 憎い、憎い、憎い、憎い、憎くて憎くて仕方ない。

 全てを壊してやりたい、全て無に還してしまいたい。

 だが、俺にはもうそんな時間も力もない。

 怒りのせいか病気のせいか、激しい頭痛と眩暈に襲われる。


 ……あぁ、神様。死ぬ間際にこんな事を言ってすいません。

 今まで真面目に祈ったことすらないのにすいません。

 間も無くあなたの御許おんもとにいきます。無事に辿り着けるかは分かりませんが。

 願わくば、どうか私を悪人にしてください。

 全ての期待を裏切る、史上最悪最低の極悪人として輪廻の輪に乗せてください。

 いるか分からない神様に祈りながら、だんだんと視界が狭まってくる。いよいよ最期の時が迫ってきているのだろう。


 俺はもう誰も信じない。もう誰の言うことも聞かない。

 俺のやりたい事をやりたい様にやる、ただただ最低の人間になってやる。次の人生があるならば、俺は絶対にそうなってやる!!


 ……次第に目が霞み、耳が遠く静かになってゆく。

 暗くなる視界の中で俺は心の中でずっと悪人に、悪人にと呟いていた。








 と、言う事を、木の根を噛みながら突如思い出した。

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