第8話 怪しい雲行き
桂は特に警察にも止められなかったので事件後さっさと東京へ戻っていた。
数日後、昼食を仲見世通りの食堂で食べ終え社に戻ろうとすると、赤井川先生がにやにやしながら歩いているのが目に入った。
桂は、先生を容疑者だと思っていたので、事件からまだ数日しか経っていないのによく東京に戻れたなとちょっと予想外に思った。
だが妙な笑顔が何となく気になって後を尾けた。
浅草の書店の前で待ち合わせでもしているのかぼんやりしている。すると、店から若い女が頭を下げながら小走りに赤井川先生に近づく。
写真を撮っておく。
ふたりは花やしき近くの映画館に入って行った。桂も続く。
最近人気の若手男優主演の「零れ桜の跡」というラブロマンスものを観ていた。
そこを出たのは午後三時半、女は目頭を押さえながらタクシーに乗って向島のスカイツリー近くで降りて、徒歩で高級ホテルへ向かっているようだった。
女はラストシーンで感動のあまり止めどなく涙を流したのだろうホテルについてもまだ涙を拭っている。
最上階のレストランに入っていくので桂も続こうと入口まで行ったのだが、「お客様、予約席のみでして、申し訳ございません」スタッフにそう言われた。飛び込みでは入れないようだ。
仕方なく非常階段付近で煙草をふかして待つことにする。
六時過ぎに揃って出てきたが女の方は足下が覚束ない。まだ夕刻だと言うのに……もしかすると薬でも飲まされたのかもしれない。
赤井川先生ならなんでもやり兼ねない。
エレベーターに乗ったふたりを見送って階数表示を見ていると、二十一階で停まったままだ。四階下だ。急いで駆け下りる。
汗だくで膝をガタつかせながら廊下を覗くと丁度部屋に入るところだった。
桂は急いでフロントへ行ってふたりが入った隣の部屋を借りたいと言った。
準備ができていないと言うフロントに無理を言って部屋のカードをもらって急いで部屋へ向かう。
壁に耳を当てて聞いていると、微かに言い合いする声は聞こえるが何を言ってるかまでは分からない。
その内声はしなくなって衣擦れの音がする。
男の低い声に女の喘ぐ声が混じりだした。
桂は腹立たしい思いを胸にしまい込んで、部屋を出てロビーでふたりの帰りを待つことにした。
九時過ぎに女だけが出てきた。コートの襟を確りと握り締めて俯き加減で小走りに出ていった。
桂は尾ける。タクシーを拾って浅草方面へ向かうようだ。
商店街の裏通りにある五階建てのマンションに女性は入って行った。
外から窓を見ていると三階の右端に明りがつく。
玄関を入って郵便受けを見ると「桃川」と札が貼ってあった。
郵便物を引っ張りだす。受取人は「桃川心美」とある。
足音が近づいてきたので元に戻して玄関を出た。
*
創語は佐知が殺されたことに多少の戸惑いはあったが、小説のネタになると思い警察にあれこれ訊いて取材ノートにびっしりと書き込んでいた。
東京に戻り佐知の代わりに別の女を抱きたいと思い、サイン会で出会った女を思い出し連絡してみると即オッケーとなった。
それで一流ホテルの部屋とレストランに予約を入れた。
創語は久しぶりに活きの良い身体に触れられると思うと活力が漲るような気がしていた。
初手は、心美が好きだと言う映画を観せて気持の高揚を促す。
次手は、向島のホテル内の高級レストランへ行って
「この高級料理にはこのカクテルが合うんだよ」と言って、強めのカクテルを飲ませる。
その一杯だけで頬を赤く染め目が虚ろになる心美の様子を見ているのは楽しい。心美はアルコールはそう強くは無いようだ。
こういう経験も初めてなので忘れないうちにネタ帳にメモしておく。
しばしの間飲食を楽しんだのち、いよいよ詰めだ。
酔いが回ったのを確かめてから腰を抱えて歩かせエレベーターに乗せる。ややぽっちゃりしている身体は思ったより重い。
スイートの部屋に入ると心美は自らベッドに倒れ込んだ。
「あぁ皺になるから」
脱がし始めると細やかに抵抗する。
「先生、ダメですこんな事。私、こんなつもりじゃ……」
少しの間言い合いになったが、心美の可愛く女らしいぷくっとした唇を唇で塞ぐ。それで静かになった。
ワンピースの背中に手を回してファスナーに手をかける。
……
一緒にシャワーを浴びてコーヒーを淹れカップをテーブルに並べる。
衣服を整えてから
「心美ちゃん生まれは?」
少し言いずらそうに俯いてもじもじする。
「いや、言いずらかったら無理に言えとは言わないから」
「いえ、そうじゃないんです。私、施設で育ったのでどこの生まれと訊かれたら答えられないので……」
「あぁそうか、悪いこと聞いたな。ご両親も分からないんだね」
黙って頷く心美が可愛らしく見える。
そう言えば、そのはず心美はまだ二十歳を過ぎたばかりだったはずだ。
「心美という名は可愛らしい名だけど施設でつけられた名前なのかい?」
「いえ、これは私を拾った時に「心美」と書いた名札が首からぶら下げられていたそうです」
「両親に会いたいでしょう?」
初めてのシチュエーションの女だ。これもまた小説のネタになると思いメモをする。
「いえ、誰かは知りたいですけど、……でも、捨てたんだから会いたくないと思うので、私も探したくないです」
心美の回答は良くドラマで見るそれとは違った。これが現実と想像の違いだと改めて思う。
「そういうものかねぇ。……答えたくなかったら答えなくて良いんだが、都内の施設か?」
「いえ、埼玉の<桃川さくら園>という施設です」
以外にあっさりしている。ドラマじゃ喋りたくないことと設定されているのにやはり違うのか。
「あぁそれで心美ちゃんが桃川なんだ」
「えぇそうです。園長さんの名前です」
「またプライベートなことなんだが、恋人はいるのかな?」
「はい、若井碧人という人と付き合ってます」
「そう何やってる人?」
「小説家を目指しているんですが……」心美の声が小さくなって、創語は不安があるんだろうなと思った。
……
翌日、創語は心美のことをもっと知りたいと思って埼玉の施設に向かった。
その施設は平屋で大きな庭があって、そこでは数人の子供がキャーキャーいいながら楽しそうに遊んでいる。
インターホンを鳴らして桃川という園長に面会した。
心美と言う女の子について教えて欲しいとお願いする。
「赤井川さん、そういうご質問には答えられないんですよ。子供も知られたくない事でしょうし、その子のためになることは無いと思うんですよ」桃川園長は渋い顔をする。
「ちょっと理由は言えないんですが、心美の名前の札を見たいんです。できれば段ボール箱に入れられて捨てられていたのかとか……」
「何か親御さんに心当たりでもあるんですか?」園長が期待するような眼差しで言う。
「いえ、そう言う訳では無いんですが、気になって」
園長は創語を見詰めしばし考え込んだ。
無言の時間が流れる。
……
「ふむ、……見るだけで写真もダメですよ。それでも良いですか?」と園長が言った。
創語は頷いた。
――間違っても小説を書くためのネタとは言えない。……
十分ほど待たされて、園長がベビーバスケットを抱えて来た。
「結構古いものですね」そう言いながらタオルケットを捲って見る。
ピンクの紐にネームプレートがつけられていて「心美」とだけ太い黒字であまり上手とは言えないが優しい感じのする字体で書かれていた。何となく見覚えの有るような気もする。
文字の周りを桜の花弁の絵で飾ってあって可愛らしいと思わせる。
バスケットの中に目を移すと、赤ちゃん用の枕や縫いぐるみが幾つか置かれている。
その中のひとつが目に入った途端、えっと思って手を伸ばした。
それを手に取り良く見る。「そ、そんなバカな……」思わず口から零れた言葉だった。頭から血が引いてゆくのが分かった。
「どうされました?」園長の声が遠のく。
身体が固まって指先ひとつ動かせなかった。心臓が脈打つたびに全身の血管が打鐘する。
どのくらいそうしていたのか分からないが、我に返って「ありがとうございました」
何度も頭を下げてふらふらしながら外へ出てタクシーを拾って浅草まで帰った。
*
旅から戻った沙希は習慣で真っ先にパソコンを開いた。メールやSNSなどに幾つかの連絡が入っているようだった。
事件を知って心配する内容の物も多い。中には夫の不倫相手だと知っていて「あんたは関係ないんだよね」と言ってくる友人も。
そういう類の返事には「夫の浮気はすべて小説を書くためのネタだから私は気にしてないの」と書くことにしているのよ。
それらを確認してから、監視カメラの録画状況を確認したのよ。
リビングや廊下にカメラがあって動きがあると録画される仕組みになっていて、それを赤いランプの点滅が知らせてくれるの。
たまに風でカーテンが揺れて反応することもあるけど今回はお客様のよう。
泥棒にしては普段着のような格好で特に顔を隠すわけでもなく、素手だから指紋をつけまくっている。
少し見ていてサイン会の時にいた本屋の店員だと気が付いた。
そう、あの「心美」だったのよ。泥棒に入るなんて驚いたわぁ……。
書斎へ入って行ったわ、何してんのかしら。一旦動画が止まり二時間後再び写し始める。手には何も持っていない。
何かを探しているのだろうか? あの部屋にも金目のものはあるはずなのに、金品目当てじゃないのかしら?
見ているうちに心美は手ぶらのまま家を出て行ってしまった。
「えーっ何しに来たのこの娘?」思わず呟いちゃった。
そしてまた一時間後、今度は若い男と二人で入ってきたのよ、何探してんだろう?
明らかに合鍵を持っているから創語と寝たに違いない! 沸々と創語に対する怒りが込み上げてくる。
一階と二階を二時間あまり探して「あーやっぱりない」と男が言う。
心美が男に文句を言ってふたりは手ぶらで出ていった。
沙希はパソコンを閉じて山笠を呼んだ。
「あんた浅草の書店の心美知ってるわよね?」
「はい、自宅も分かっています」
「そう、その心美が私たちが旅行中にこの家に入って家捜ししたみたいなの」
「えっ何か盗まれました?」
「いや、それは無いんだけど、金目の物には手を付けてないから、恐らく創語の取材ノートとかネタ帳を探してたんじゃないかなと思うのよねぇ」
「じゃ心美さんも小説家を目指してるんでしょうか?」
「目指してるのは ’あおと’と呼ばれた男なの。心美を尾行してその ’あおと’が誰なのか突き止めてくれないかしら?」
「はい、分かりました。夕方になったら書店へ行ってきます」
沙希はどうしてくれようかと思いを巡らせる。
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