第4話 出版社

 佐知が姿を見せるようになって五年近くになる。

月に一度は素肌を付け合わせていた。

 その年の十月だった。創語の作品「たったひとつの殺人事件」が日本最大のミステリー作品賞である「日邦ミステリー小説大賞」の受賞が決まったと佐知が知らせてきた。

ミステリーやサスペンス小説を出版する大手出版社で構成する日邦ミステリー・サスペンス協会が主催するもので、毎年一作品が選ばれる。作家にとって最高の名誉ある賞なのだ。賞金も超一流だ。

作品はひとつの殺人事件を通して、被害者の家族、加害者の家族のほか会社、住民など多くの人々の心の葛藤を繊細なタッチで描いたものだった。

ミステリーだがトリックを解明してゆく面白さのほかに、人の心の動きが細やかに描写されていて読者に感動を与える場面が多く用意されているほか、読後感はなんとも爽やかで幸福な気分を味わえるすばらしい作品だと評価された。

創語が自作の取材ノートとネタ帳から作り上げた初めて作品での受賞であり、心から嬉しかったしこれで作家としてやっていけると自信になった。

 

 十二月に授賞式が行われ著名な作家や審査に当たったミステリー作家、出版社のお偉方など普段お目にかかる事の出来ないような面々から丁寧な挨拶と祝辞を頂いて、天へも登る心持で応対していた。

現在出版を任せている《関東文芸社出版(株)》と創語が就職した最大手の《日本文学出版(株)》、佐知の務める《日本文庫本出版(株)》の経営陣から担当者までが出席してくれていた。

 式の後に続いて立席の懇親会が催され、主催者に連れられて一人ひとり挨拶をして回った。

中には縁遠い電化製品の大手メーカーや大手ゼネコンの役員までもが顔を出してくれている。

商魂たくましいとはこういう事なんだろうなと感じる。

全行程二時間と長くはないはずだが、疲労困憊、酒はシャンパンを一口付けただけなのだが、もう飲めないと思った。

 午後三時には家に着いて着替え、リビングで手足を伸ばしてやっと落ち着く。

時間を空けて出版二社のいつもの顔ぶれがそろって席が設けられた。

身内のようなものなのでいつものように高飛車な創語に戻っていた。

乾杯をして腹を満たしたところで話があると言って立ち上がった。

「今回の受賞はみんなのお陰だと思っている。これまで支えてくれてありがとう」

頭を下げると拍手が起る。

「で、今回のコンテスト大賞受賞作品の出版は《日本文庫本出版(株)》に頼もうと思う。《関東文芸社出版(株)》には今後も継続してお願いするが本作品についてのみ理解して欲しい」

「先生、それはないでしょう!」

席を立って怒鳴ったのは、文芸出版の根田だ。

「これまで先生のために随分尽くしてきた積りです。それをこんな形で裏切るなんて酷いじゃないですか!」

創語に掴みかかろうとする根田を周りが押さえるが興奮は収まらず

「何とか言ってください。先生っ!」

「君には申し訳ないが、《日本文庫本出版(株)》は長く俺のところへ通ってくれているんだが一度も出版を頼んだことがないんだ、色々世話になりっぱなしで俺の心の中にわだかまりとなってずーっと引っかかっていてな、今回この一作品をお願いすることですっきりさせたいんだよ。分かってくれ、根田くん」

創語は頭を下げたが根田は収まらない。

「そいつだな、その女が身体で仕事を盗ったんだな。そうなんだろう!」

根田が佐知を睨みつけて怒鳴る。

「根田くん関係ないよ。理由は今言った通りなんだ」

創語がそう言っても「いや、違う。その女のせいだ。ぶっ殺してやる」

「根田くん、そんな物騒な事言うもんじゃない、これで君の所を全面的に止めるわけじゃないんだから分かってくれ」

「そんな我儘、僕は、僕はこの仕事に命を賭けてるんだ。突然、こんなところでそんなこと言われて納得できるはずないだろう! そもそもコンテストへの応募は僕が先生にやりませんかと声をかけ手続きも全部僕がやったんだ。それなのに一言もなくこんな仕打ち酷過ぎる。ばかやろーっ」

根田が創語に殴りかかった。

創語は黙ってそれを受ける覚悟をしていたのだが根田の上司が間に割り行ってそのパンチを受けてしまった。

倒れ込む上司を周りが支えるのと同時に根田を押さえつけ玄関から外へ突き出し、鞄も靴も放り出した。

「済みません。先生」

口元に血を滲ませながら頭を下げる上司。

「いや、彼の気持ちも分からんじゃない。じゃないが、俺の気持も分かってくれ。頼む」

「はい、今回に関しては分かりました。でも、次作品からは従来通りうちでお願いできますか?」

「あぁもちろんだ。お願いする」

 

 

 根田は元来のんびり屋で、親の影響もあって春の山菜採りに秋のキノコ採りが好きで良くひとりで出かけていたのだが、仕事を始めて営業部門に就くと他社も含めて厳しい競争の世界に埋没してゆき、他人を蹴落としてでも仕事をとって行くことが身体に染み込んでしまった。

 赤井川先生宅での暴走行為もそうした意識の為せる技だった。

 萎れて社へ戻ると赤井川先生宅での武勇伝は既に社内に広まっていたようで、社員の目は殺人鬼でも見る様に冷たいものだった。

誰一人声を掛けてこない。自分の席に戻ると部長に呼ばれ、応接室で事の詳細を聞かれる。

作家に暴力を振るおうとした行為は許されるものではなく、後日何らかの処分があると伝えられた。

 根田は早退し赤井川沙希に電話を入れた。

蛮行を詫びて依頼されている件の報告があるので会いたいと伝え、個室の有る料亭で待ち合わせした。

根田はそこでも軽々な行為を詫びた。食欲は無く酒に手が伸びた。

「私は全然気にしてないから大丈夫よ」沙希は微笑んでくれて、萎れた草に水が与えられたような気がした。

それからメモ帳を見ながら創語と佐知の不倫を事細かく時を追って説明した。

……

「そのホテルで今回の作品を佐知に任せることになったんですね」

意外に冷静な沙希に驚きながらも当然だなと納得もする。

「はい、おそらく佐知はあの受賞作品がどの程度売れるのか分かった上で、強引に先生に近づいて話を付け、上司の湖立辰馬ともベッドの中で赤井川先生の担当者にしてくれるよう頼んだものと思われます」

「そう、随分、肉体労働の好きな編集者さんね」沙希がそう言って笑う。

「ははは、肉体労働とは上手い事言いますね。沙希さん」

根田はちょっと怪しげな目で沙希を見詰めながら言った。

「ふふふ、まぁ私も肉体労働で何かとあなたに頼み事してるから偉そうなことは言えないけどね」

沙希の姿が妙に色っぽく見えて根田の中に欲性がたぎり始める。

「それに佐知は社内で先生の担当者だった桂を誘惑して、恋人の佐久間春奈との仲を引き裂いたようなんです。理由ははっきり分からないんですが、春奈の友人がそんな風に話してくれました」

「まぁ酷い女ねぇ。色々ありがとう。で、心付けはまだ足りてます。それだけ情報を集めるには結構使ったんじゃないです?」

「はぁ、まぁ補充してくれると助かります」

「ふふふ、じゃ場所変えて、懐への補充とあなたの心と身体への補充もしてあげましょう? もう、身体の補充は要らないかしら?」根田は沙希の瞳にエロスを見た。

「いえ、そっちはまったくの空になってますので満タンにお願いします」根田は正直に言った。

「ふふふ、じゃお夜食とビールでも持って行きましょうか」

沙希が先に立って会計をしタクシーを拾い根田を先に乗せ、それから自分が続く。

そしてそっと根田の手に万札を握らせる。

根田はこういう沙希の細やかな気遣いが好きで、仕事抜きで沙希に惚れていると自覚している。

それにしても佐知と言う女、身体を使って何でも思い通りにしようとするあくどさが憎かった。

根田が佐知に乗ろうとしても乗れない悔しさがあるのかもしれないと思いつつも、許せない! どっかで仕返しをしてやろうと決意し、隣の沙希の手を優しく強く握った。

 

 

 桂との関係がぎくしゃくしてきて、佐久間春奈は佐知が憎たらしくてしようがなかった。

別に桂なんかはどうでも良くて、佐知の性悪さにしてやられたことが腹立つのよ。分かる?

何か復讐したくて、スキャンダルを掴んでやろと尾行を始めたのよ。

最初は作家の赤井川創語とホテルで食事をしその後部屋にしけ込んだ。

その数日後には、同じ会社の上司の湖立課長とホテルのレストランで食事をしその後部屋へしけ込んだ。

佐知が赤井川先生の担当になるらしいという噂もその辺から出たことなのかしら。

さらに別の日、佐知が産婦人科へ行った。気付かれぬように待合室に座っていると、佐知が母子手帳を欲しがっているようだが看護師から「まだ、四週目だから色々ある時期だから……、次回来た時には出せると思いますよ」と言われている。

妊娠しているんだわぁ。

相手は誰だろう? 三人も相手がいたら本人も誰が父親か分からないんじゃないかしら?

 それから何気なく辺りを見回すと、佐知の方へ視線を送る男性が目についたの。

それで様子を窺っていると佐知が病院を出ても尾行を続けるようだった。

男はそのまま尾行を続け佐知の住むマンションまで行ったのよ。

しばらくそこに留まっていた男がその場を離れようとしたので、春奈は思い切って声を掛けた。

「あのー佐知を尾行しているようですが探偵さんですか?」

「あなたは?」男は失礼なことに春奈を不審者でも見る様な目で上から下まで眺めてから訊き返してきたのよ。

「私は、ちょっとあって彼女を病院まで尾けていたんですけど、そこにあなたがいてここまであなたを尾けてきたんです。私は彼女と同じ会社の者です」

春奈がそう言うと男はどぎまぎした様子で、「……いやー、探偵じゃないんですが、ちょっとあって彼女を尾けていたんです」

何か言いずらそうにしているので、「誰かに頼まれて、彼女の素行調査ですか?」

「えっ、えぇ、まぁ」

「だったら情報交換しません? その方がお互い楽できるでしょ」

春奈は情報より誰が男に調査を頼んだのか? の方に興味があった。

「そ、そうですね。じゃカフェかファミレスへでも行きますか?」

「えぇ」

近くにそれらしき建物が見当たらないので、歩きながら互いに名刺交換をし名乗りあった。

男は山笠颯太(やまがさ・そうた)という赤井川創語の助手だそう。

……

山笠が知らなかったと言ったのは、佐知が桂と春奈の仲を割くような真似をしたことくらい。

逆に春奈は、赤井川創語の妻沙希と出版社の根田の関係くらいかな知らなかったの。

色々喋って今後も情報交換をしましょうと落ち着いた。

その時、目の前にファミレスの看板が現れた。思わず山笠の顔を見た。

「どうします?」今更だが一応春奈は訊いた。

「いやぁ、でもせっかく美人と知合えたので、このままさよならは俺としては辛いので食事くらい一緒に食べてもらえませんか?」

お世辞でもそう言われるとつい嬉しくなって誘いに乗ってしまう。

「はい、お世辞でも嬉しいのでお付き合いします」

……

 食事をしながら山笠が言い始めたの。

「実は僕も小説家を目指していて、あるとき佐知さんがそれに気付いて ’見せて’と言うもんだから、つい見せてしまったんですよ。もしかして……なんて期待もしながらですけど、そしたら……」

山笠がそこで言葉を飲んだ。

「そしたら、何か言われたの?」

「えぇ、駄作だとか、面白味がないとか、そこまでならまだ我慢もできたんですが、 ’あんた小説家になんて百年頑張っても無理。ここの先生に助手で拾って貰って良かったじゃない、そうでなきゃ、こんなゴミ持って歩いて出版社へ行ってもゴミ箱に捨てられるだけよ。ははは’ そう言って原稿を投げてよこしたんです。

殴ってやろうかとも思ったんですけど、先生の愛人にそんなことしたら、即、首だと思って我慢したんです」

山笠は思い出したのか鼻息を荒くして言うのよ。

「それは酷い。よく耐えたわねぇ」春奈にはとても耐えられない。

「でも、その時に優しく声をかけてくれたのが奥さんの沙希さんなんです。 ’あの娘はまだ駆け出し、小説の良し悪しなんて分からないからあぁ言って蹴落としたいのよ。彼女あれでも小説家希望なんですから。ふふふ’って笑って言ってくれて落ち着いたんですよ」

春奈は山笠が奥さんに憧れているのだろう思いにんまりしながら聞いていた。

「へぇ、奥さんて優しいんだ。前に先生の授賞式の時にお見かけし時は冷たそうな感じがしたけど、実際は違うのね。で、あなた好きになっちゃったんでしょ。ふふふ」

春奈がそう言って山笠の顔を覗き込むといい年をして赤い顔をしているのよ、純ねぇ。

「だけど、これだけ彼女に男関係あって妊娠もしているとなれば、先生に言って担当者を替えるよう進言した方が良いですよね」春奈には、山笠が赤らむ顔を見られた恥ずかしさを隠そうとして話題を変えたのが手に取るように分かった。なんて可愛いんでしょう。

「えぇその方が良いと思うわ。……だったら、その時に私を推薦してくれないかしら、私もあの先生なら担当してみたいわ」ひょっとして幸運が……と思って、種だけは蒔いておかなくっちゃ。

「いやぁ、俺なんかが言ったら、一発で ’お前の女か?’なんて言われそうだからダメですよ。佐知さんみたいに乗り込んで自分を売らないと」

春奈の前では良いかっこするかと思ったらちょっと裏切られた気分ね。女が仕事を取るためなら誰でも身体を張ると思ってるのかしら、とんでもない考えだわ。

「いやよ、身体張って仕事取るなんて芸当は私には出来ません!」

「まぁ先生が近々北海道へ取材に行きたいと言ってたから、その時に話はしてみますよ。だから帰って来たら声かけますから会って下さい」

「ふふふ、山笠さんのその言い方だと、仕事抜きで私をデートに誘っているみたいね」

「えっ、いやっ……本当はその通りです」

山笠はまた顔を赤くしている。

これなら扱いやすいわねぇ、先生の奥さんもそう感じてこの人を使ってるってことなんだわ。

……

 

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