狂気の行方
きよのしひろ
プロローグ
赤井川創語(あかいがわ・そうご)少年は、テレビで見た刑事ドラマが面白いと興味を惹かれ、その影響で父親が持っているミステリー小説を小学校の四年生の頃には辞書を片手に読んでいた。
中学生になると自分でも本を買うようになり、将来の夢は「小説家になること」と周囲にも話すようになっていた。
小柄でスリムな創語は、保健体育の授業で第二次性徴について習うと「お前これから第二次性徴で尻でかくなるんじゃないの」と冷やかされ、「女っぽい」とか「本当は女なんじゃないの?」とかよくからかわれていた。
そんな創語でも高校生になると多少は骨格も発達したが依然として後ろ姿は女にも見える。
外見はそんなでも心は立派な男になりつつあることは、同学年の可愛い女の子に初恋をしたことで証明された。
創語はその思い出を力を込めて「半熟の青春」という小説に書いてコンテストに応募したものの賞はとれなかった。「初めて書いたんだから獲れなくて当たり前だ」と自分を慰めた。
その彼女とは手を握るのが精一杯でキスをするまでの勇気もなく、想像でその感触を、心の動きを書いたのだが、後になって彼女とキスをしたとき、まったく別物だと感じた。それが落選の原因だと強く思った。
それを機に、何事も想像で書くのは止めて実際に五感で感じたもの、実際に体験したものを文章にしようと心に決めたのだった。
地元浅草にある北道大学に進学した創語は、文学部に入り日本文学を専攻する一方で語彙力や文章力などを磨き本格的なミステリー・サスペンスを書き始めた。
その学部で創語を含めて男三人女二人のグループができて、その中で互いに書いた作品を回し読みしたり批評したりしていた。
その中のひとりに創語が凄いと思う奴がいて、ほかのメンバーも皆そいつの書いた文章を褒める。
そいつの彼女もグループ内にいて創語も想いを寄せていたが、彼に劣等感を感じていた創語は横恋慕に終わりそうだった。
大学四年生になってそいつがある出版社主催の新人ミステリー・コンテストで優勝した。みんなでお祝いをしたが内心妬ましい思いを強くした。
グループでのお祝いの席で酔ったそいつが、「取材ノートにまだまだ材料があるから一端の小説家になってみせる」と宣言したことが創語の心に深く突き刺さった。
敗北感に苛まれている時、「想像で書くのは止めよう」という自身の思いをはたと思い出す。
それで小説の中に出てくる多種多様な行動をためそうと思い、グループの女子をターゲットにして「尾行」という行為をやってみる。
始めのうちはすぐばれたが女子に怪しまれないよう予め言訳を決めていたので事なきを得たが、その時のドキドキ感はやはり想像したものとはまったく違っていた。
男の尾行もしてみたが、やはり女子を尾行する方が緊張感が違うし、自分が変態のようなストーカーのような感覚に襲われて興奮することが分かった。
繰返すうちに要領を得て、偶々駅のホームから出てきた見知らぬ若い女の尾行に挑戦した。
途中で女が振返って疑いの目を向けられることもあったが、その時はすぐに中断した。
尾行が上手くできる様になると、その女の暮らしぶりを探ってみようと思うようになっていった。
出版社に就職していた創語は勤務時間を除いてその女に張り付いた。デートや友人との飲み会などではなるべく近くに席を確保して話しの内容をメモしたり、病院や歯科医院、スーパーなどへ行ったときには一緒に中へ入ってどんな用件だったのか、何を買ったのかも取材ノートに書いていった。
尾行を繰り返していると自分の知らない女の日常が分かるようになり、いつしか友達のような気分に陥った。
次に、そうした人にどういう事件を絡めるのかを考えた。相手が女なら一番簡単なのは痴漢だろう、あとは空き巣、強盗、殺人などによって金を盗む……。そういう妄想を昼間思い描き続けた。
勤務中に妄想し上司に叱られることも間々あった。
それでもっと自由な時間が欲しいと思ったので、外出を伴う社用には率先して手を上げ、ついでに色々走り回った。
映画やドラマも観るように心がけたし小説も読んでヒントと思しきところをネタ帳にメモする。が、痴漢の出てくる動画や小説もそうだが、痴漢はストーリーの中のひとつの出来事でしかないのでやはり迫力に欠けるしリアリティーがないと感じた。
痴漢をするときの心境やされる女の心情や行動を知るには実際に痴漢をやってみるしかない……。
それで電車から降りる一瞬の隙を狙って背後から尻や胸を触った。女は誰でも良かったので年齢も容姿もまったく気にせずにやって、そして逃げる。スリリングだ。創語はその興奮のしかた、追われる恐怖感を逐一メモした。
しかし、やってみて気付いたのは、不思議なことに痴漢行為そのものに性的興奮は得られず、ハードルの高い作業を成し遂げたと言う達成感からくる興奮だった。
何回もやってみたが同じだった。しかし大声で「痴漢!」と叫ばれた時にはドキッとしたが声の方向を見ると相手が誰かは分からないのだろう近くにいる男を一人ひとり睨みつけている。
胸を触られたある女は胸をバッグで隠し俯き加減に小走りでその場を逃げる。
おそらく性格でその反応は随分と違ってくるように見える。
それで痴漢された女のその後の行動を見たくて尾行する。
日に何度も痴漢を繰返した。それで大体のする側、される側の心の動きや行動が分かってきた。
しかし、分からないことがひとつあった。何故痴漢をするのかだ。手に触れる乳房は大きさこそ違えブラジャーを通すと同じように柔らかいが性的な興奮は起きないし、尻はボニョっとしているだけで自分の尻を触ってみても大差ないと思った。
実際に電車内で痴漢をした囚人に訊いて見たくて、どうしたら面会できるかをあちこちで調べひとりだけ会っても良いと言う人を見つけた。
彼が言うには、十代のころは異性に性的な興味があり、それを満足させるための<感触とスリル>を味わいたくてやったと言う。
しかし、社会に出ると動機は変わってきたと言う。もちろん彼女ができれば性的な欲求は彼女が満たしてくれるからその意味で痴漢に走ることは稀になって、仕事や人間関係で生まれるストレスなどの<憂さ晴らし>、そして何度も失恋し相手にしてくれない<女への仕返し>という気持からしたことが多くなったと言う。
「捕まるかも知れないスリルを味わいたいと言う気持ちは、むしろギャンブルに近いかもね」
囚人は笑って言う。
痴漢後の心境を訊くと、性的興奮じゃなくて、やはり<達成感>だと言う。
それに痴漢されたあとの女を観察していて<女は嫌だといいながら実は喜んでいるんじゃないか>と錯覚していたこともあったと言う。
話を終えてから創語は、囚人はどうやら女性を軽視しているようで、会話のなかで「女なんか」という台詞を何回か吐いた。
痴漢をする奴としない奴の差はその辺にありそうだ。
痴漢から性差別や人種差別など多種多様な差別意識にまで考えが及んでくるとは想像もしていなかったことだ。
やはり痴漢も体験してみて良かったとつくづく思った。
また何人もの中年の女性に道を訪ねるなどして近づいて親しくなり、不倫も経験した。密室での行為は激しく積極的で驚かされる。若い女と違って行為をリードする傾向にある。経験値の違いなのだろう。
自分の心の動きのほか、相手の罪悪感や楽しむ気持を細かく訊いて取材ノートに記載する。
ほどんどの不倫する主婦は当然と思うが夫との仲が良くない、或いは夫婦の営みに満足できない女が多いようだ。
概して、声掛けした段階ではみんな警戒感が顔に現れるが、不倫まで行った女は話しているうちに距離が近くなって、自分の髪や肌を男に触らせようとする傾向があるみたいだし、創語の腕を軽く叩いたり突いたりする。たぶん、本人に意識は無いのだろうが人肌が恋しいってやつかもしれない。
その内、強盗をやってみたくなった。少なくとも空き巣か下着泥棒とか。
実際やってみると、空き巣や下着ドロはあんまり興奮も罪悪感も無かった。洗濯したあとの下着を盗む奴は変態だと思った。なんの魅力や性的な興奮も味わうことが出来ない、恐らく身に着けているものを剥ぎ取る度胸がない小心者の精一杯の努力の成果と自身を慰めるのだろう。女にもひょっとすると男にも相手にされない哀れな生き物でしかない。
創語は女性の下着売り場に立ち、下着を手にする女性の下着姿を空想してみたが、その方が下着ドロより遥かに煽情的で性的な興奮を味わえた。ただそんな顔をしていたのだろう女性店員から声を掛けられ慌てたが……。
空き巣は建物への入り方だけの問題のような気がした。ドアが空いていたら自分の部屋で何かを探しているような錯覚にさえ落ちてしまうだろう。空き巣をやる奴は捕まってもきっと再犯すると思う。
だからどうしても人間の絡む強盗をしたいと思うようになった。
創語は、
「
ある女が結婚し幸せに暮らしていたが、ある時夫が嘗ての恋人を殺した強盗犯だと気付いてしまう。
夫と恋人とは友人関係にあった。
それで恋人の死後慰めの意味もあったのかもしれないが、夫が自分に近づいてきて、落ち込んでいた自分はその優しさに身を任せてしまったのだった。
しかし自分を手に入れるために恋人を殺したのではないかという思いが脳内に溢れ、殺人計画を立てる。
」
というストーリーを考えていた。
それを実践しようと思った。決心したことで創語の心が大きく揺らいだ。神様と悪魔の戦いが心の中で起きていると感じた。
捕まれば当然刑務所に入れられ小説家になるという夢への道が閉ざされる。
――それでもやるのか? ……やる! ……
創語は自問自答を繰返した。幾度も、幾度も、……
――生涯をかけて作家になろうとするならば、すべてを掛けてぶち当たろう……創語は決心した。
で、凶器の包丁は空き巣により得たものにし、解錠のためにネットでピッキング用具一式を購入、自室のドア、家の玄関で練習を重ね、さらに近所のアパートの空き部屋などで練習を繰返した。
すべての準備が整った日の夜、強盗を装いその恋敵でもある友人のアパートに侵入して刺殺した。そして取材ノートやネタ帳のほか、金目の物も盗む。
やはり、妄想と現実とは天地ほどの差があった。
布団の上から包丁を思い切り突き立てた。
驚きと恐怖と激痛に歪んだ顔。あんなに人の顔がゆがむとは知らなかった。別人のようだった。
刃先が肉に埋もれてゆく感触は、もっとゆっくり長い時間をかけて刺せば良かったと後悔するくらい何とも言えない気持ちの良さがあった。
殺し方を指導する書き込みに従って、刃先を上にして腹に刺したら上向きに刃先を持ち上げる。あばらの下から心臓を狙うということなのだろう。
心臓に刃先が当たった瞬間なんだろうか? 友人の全身が魚のようにビクッと跳ね上がって危うく創語は弾き飛ばされそうになり驚いた。
悲鳴のようなものを殆どあげなかった。上げられなかったのかもしれない。
口を大きく開いて、大きく見開いた目は二重だった。仰向けに寝ていた友人は包丁を握るようにして身体を硬直させ動かなくなった。
数秒の出来事なのに、ひとコマひとコマが漫画のコマのように脳細胞に焼きつけられた。
強盗に殺人まで経験できたことは大きな成果だった。友人に跨ったまま忘れぬうちにネタ帳へ書き込んだ。
包丁には知らない奴の指紋がついているはず。そのままにしておく。
部屋を出て施錠し階段を下りながら重ね着した服をゴミ袋に詰め、離れた場所にあるマンションのゴミ収集場所に紛れさせる。予定通りの行動だ。
数日が過ぎて殺人事件は報道されたが犯人不明のままだ。それをニュースで見ていると気持が落ち着いて来る。すると不思議なことに、次何する? と自分に問いかけられた。創語の中にふたりの自分がいるようだ。
ひとり目の自分が強姦してないと思い当たった。
かなり怖いイメージがあった。実行後に相手は生きているから被害届を出す前提で考えればならない。
病院へも行くだろうし警察も念入りに犯人の遺留品を探すはずだから、引っ掻き傷ひとつ、髪の毛一本、汗の一滴でも残せば、創語が被疑者にされた途端に犯人だと確定されてしまう。
逃げられるかという意味では殺人よりハードルは高いかも知れない。
諦めようかとも思ったが、ミステリーには犯罪はつきもの、まして自分の書く小説では男と女の絡み無くしてミステリーは成立しないとさえ思っていた。もうひとりの自分も絶対にやれと言った。
大雑把に人けのない所で睡眠スプレーで女の意識を朦朧とさせてから襲うことにし、後は場所を探してその場に適した方法を考えようと思った。
家からちょっと離れた何カ所かの公園へ夜の十時過ぎに行ってみる。
しばらく歩き回っていると、公園をゆっくりした足取りで通り抜けようとしているミニスカートの女が目に入った。公園内の街路灯が広く開いた胸元を照らし、顔は良く見えないが腰を振る歩き方は若そうだ。
後を追って公園の入口に差し掛かると、「痴漢が多く発生しているので注意!」と書かれた立て看板が目についた。
女もそれを目にしているはずなのにどうしてあんな? 隙だらけ……。
ちょっと疑問に思って、距離を縮めずについて行って家を突き止め一旦帰った。そして早起きして朝六時からその女の家を見張った。
女は八時前に家を出たが公園を通らない。駅まで尾けてゆきはたと気付く、公園を通っても近道にはならないどころか遠回りなのだ。
疑問を大きくしてなお尾ける。
電車を降りて十五分ほど歩いて着いたのは浅草警察署だ。
えっと思って中を覗いていると、女が警官に敬礼している。
危なかった。あれは囮だった。婦警なのだ。
――やばい。ダメだあそこは、場所を変えよう……
昼間、北区と荒川区の境あたりの河川敷を歩いてみた。街灯がないから夜は真っ暗だな。
ジョギングや犬と散歩する人がたまに通る程度だろうと推し測る。
片側一車線で歩道は無い。
夕方再度そこを訪れる。団地から三百メートルほど離れたバス停の近くで乗降客の様子を見ていると、五時、六時には五人、十人と降りる客はいるが、その後は時間の経過とともに客数は減って最終十時半のバスではひとりかふたりになる。
しかし、何故団地と停留所の間にそれほどの距離があるのかバス会社に訊いてみると、以前、バス停前には数棟のアパートがあったのだが老朽化による建て直し中で、完成は三年後だと聞いていると言われて腑に落ちた。
その距離でも夜は静だから悲鳴は十分に届くに違いない。叫ばれる前に河川敷の方へ連れ込まなければ上手くはいかないだろう。ここは歩道が無いからその意味では好都合だ。
数日通ってそこにしようと決めた。
決行の夜、女ひとりだったら決行すると決めて、睡眠スプレー缶を握り締めてバス停に近い斜面に身を伏せて待つ。
午後十時半過ぎ、定刻より数分遅れでバスのヘッドライトが近づいてきた。
薄地の手袋をつける。
客が下りる。膝の曲がりがはっきり見えるから短い丈のスカートを履いた女だろう。
続いて降りる客がいない。ひとりだ!
バスを先に行かせてからかなりの急ぎ足で団地へ向かっている。
テールランプが小さく見えるだけで辺りは真っ暗で女も黒い影にしか見えない。
創語の潜む場所まであと一メートルと近づいて来る。
今だ! 飛び出してスプレーを女の顔めがけて吹きかける。短く悲鳴を上げたが、その時には女の腰にタックルしていて河川敷へと転がっている。
女は突然の事態に訳も分からず只管起き上がろうとする。
女をうつ伏せにしてその身体を跨いで腰を落し、身動きを封じて猿轡をして素早く後ろ手に縛る。
背中側からブラウスをたくしあげブラを外す。
女が身体を捻り、足をばたつかせる。「あー」とか「やぁー」とかくぐもった叫び声をあげる女を無視して創語は足の方へ向きを変え、スカートをめくり上げて下着を一気に膝下まで下げる。
睡眠スプレーが全然効かないほど女の神経が昂っているってことか? 女が必死に暴れるのだが背中に創語が乗っていて、裸の尻と膝から下がじたばたしているだけだ。
……そこで創語は身体を止めた。というより、その景色を眺めていると突如惨めな気持ちが創語の心の奥底で爆発し身体を拘束してしまったと言った方が正確かもしれない。
もう十分レイプの心境、緊張感、焦りは理解した。
女の反応もわかった。
すでに体中に汗が滴っている。
この先に自分にあるのは、小説には書けない部分だけだ。
今の状態でも女は絶望、恐怖、苦痛を感じているだろう。PTSD(外傷後ストレス障害)、フラッシュバック、男への不信などが生涯女を苦しめ続けることになるのかもしれない。
小説を書くために女を生涯苦めるのはやり過ぎだ……。もうひとりの自分も「そうだ。もう良い」と言った。
――もう手遅れかも知れないが。……
もう良いと思った。
……創語は女の下げた下着とめくったスカートを元に戻し、ブラも背中で止めてブラウスをスカートの中へ押し込んだ……。「ちょっと雑だが我慢してくれや……」そう呟いた。
そして「後ろ手に縛った紐は足を潜らすと前に来るから猿轡はずして叫んでも良いし、走って家に帰っても好きにしな」そう言って創語は河川敷を川下の方へダッシュした。
通報されるかもしれない緊張感がまた新たな感覚だった。
三十分走り続けたが、そういう心配は無かった。
女の襲われた恐怖は一生拭えないだろうと心配もした。
初めて襲われる側の気持を考えた。
何故そう考えたのかは分からなかった。
そうだ、仕掛けられた奴の気持ちも小説には大事だ。
事件を通して人物の心情や行動を書くから共感や感動を与えられるんだ。
ミステリーを書き始めて六年余りになってやっと気が付いた。
小説は事象や事故、事件を書くのが目的ではない、その時の人間の心とか行動を……。
思い返せば、友人が受賞できたのは涙するほど人の気持や行動が手に取るようにわかって感動させられたからだった。
創語は自嘲した。
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