第2話 取材ノートとネタ帳
丁度取材ノートとネタ帳を使い切ったタイミングで、山笠颯太(やまがさ・そうた)という大学出たてで小説家希望の若者が何でも良いから使って欲しいと言って創語の自宅へ来た。
随分と強引な奴だ。
百八十センチで九十キロもあると言う大きく恵まれた体形であるにも関わらず、スポーツはからっきしダメで読書好きで作家を希望している。唯一低山に登るのが好きで八王子にある高尾山には毎年数回は行くらしい。
創語と同じ浅草の北道大学文学部を卒業している。
一旦は「俺にそんな弟子を置く余裕はない」と断ったのだが、「何でもやります。一日一食だけ食べさせてくれたらお金はバイトするし、後は何も要らないのでお願いします」と粘られた。
こう言う経験は無くて、それで困って住所と名前と電話番号を書いてもらって、白紙に履歴書みたいな内容を書かせ
「こっちから電話するから二、三日待ってくれ」
追い返してすぐ出版社の根田に相談した。
すると夕方根田がやってきた。
「先生、彼に取材ノートとかネタ帳とか作らせたらどうです?」
みたいに言われ「でもよ、給料とか払えないぜ。あんたのとこで出してくれるなら良いけどよ」
困り果てていたのでダメ元で言ってみた。
「あぁそれでも良いですよ」
余りにあっさり言うので「彼に何かあるのか? そんなにあっさり言って、上司とかに確認しなくて良いのか?」
「えぇ奥さん……」と言いかけて「いや、こんなこともあろうかと先生のように忙しい方には自分以外にもうひとりサポートが欲しいって以前から言ってたんで」と言い直した。
「奥さんって、沙希のことか?」
「えっあぁ、いえ違います。社内の事なんで、それ忘れてください」
妙にこの件に関して心が広いと言うか優しいというか、裏に何かありそうな感じがするが、……
「じゃ金はそっちでということで彼に電話を入れるぞ」
「あっ、いえ、金の話もあるんで僕からしますので番号教えてください」
創語は腹を探るような視線を根田に浴びせながらメモを渡した。
「じゃ早速電話します」
そう言って書斎を出て、玄関も出て、外へ電話をかけに行った。
益々怪しいと創語は思ったが、取材ノートなどを作ってくれたら楽にはなるからと思い直して放って置くことにする。
翌朝、七時過ぎに「おはようございます」
元気一杯の声で起された。
沙希が玄関を開けて迎え入れたようだった。
結婚して五年ほど過ぎた頃沙希から「あなた遅くまで書斎にいるでしょう、だから私が寝る時に隣にいるべき人がいないから寝付けないのよ。だからいっその事寝室別にしたら眠れると思って。別にあなたと寝るのが嫌だとか言う訳じゃないのよ。良いでしょう」
そう言われて嫌だとは言えず、以来その状態が続いている。たまに沙希の寝室へ夜這いに行っても嫌がる素振りは見せないので、創語が嫌われている訳じゃないんだとホッとした部分もあった。
そんなことで、朝はいつまでも寝ていられるのだが、今朝は山笠を呼びつけていたので仕方なく起きて身支度をし書斎に彼を呼んだ。
「やってもらうのは……」言いかけると、「はい、取材ノートとネタ帳作りですね」もう話が伝わっている。
「んー、でな、警察とか報道関係とかから事件のニュースを聞き出すことや昼夜を問わず怪しげな話をしている奴らを見つけたら、盗み聞ぎとか盗聴器とかで情報を得るんだ。そして話しに出てくる人物の姓名と住所を調べ、戻ってからそれらを短い文書にして取材ノートとかネタ帳に書く。それが仕事だ。できるか?」
「はい、やります。盗聴器とかはあるんですか?」
「俺のはあるけど……もう一個買ってこい」
創語はそう言って、カードを渡した。
そんな事があって書籍化できるような作品が出来るまでに一年ちょっと時間を要した。
どうしても山笠の取材は抽象的になってしまうのだ。作品を書くことを前提に取材するのと漠然と取材するのとでは細部に亘って質問できるか、気が付くかという点で大きな違いがでてしまう。
そんな抽象的なものから小説を書こうとすれば、個々の心情だったり情景だったりを文書にするときに想像で書く部分が増えて全体としてリアリティの無い作品になってしまうのだ。
嘗て何のために殺人までしたのか、という辺りを山笠は理解していないのだ。
「山笠、この男が恋敵に仕事を失敗するよう企ててるって言うのは、何時、どんな仕事のどういう邪魔をどうやってやろうとしてるんだ?」と訊いたことがある。
「えぇ確か近々便利グッズの新商品のプレゼンをすることになっているので、それが出来ないようにしてやるって言ってました」山笠が答えた。
「例えばよ、プレゼンする内容がパソコンに入っていて、バックアップをとっていないのでそいつのデータを自分のパソコンから侵入して削除してやるとか、具体的に言ってなかったのか?」
「はい、居酒屋では言ってませんでした」
「じゃどこで言ってたんだ?」
「いや、聞いてないです」
「それじゃ、そこを俺に想像しなっていうのか? 事実は小説より奇なりって言うんだ。俺の思いつかない方法で何かをする。そう言うのが新しいトリックだったり罠を考えるきっかけになるんだよ。居酒屋で言わなかったらもっと尾行して、そいつの仲間とか女とか喋りそうな奴に近づいて情報を盗むんだ。良い?」
そういう類の注意は何回もしているのだが……。
で、パソコンに向かうがさっぱり指を動かせなくて時間ばかりが過ぎてしまったのだった。
そう言いながらも何とかひとつ書き上げて根田に渡すと、
「あれー先生……」
と、今まで言った事の無い注文を付けてきた。
確かに根田の言い分には頷けるところもあって書き直した。
今度はしばらく首を捻ったり、眉をしかめたりしていたが「良いでしょう」と言って持ち帰った。
何か急に根田が偉くなって、創語が新人の作家みたいな、そんな気分にさせられた。
本が出て時間が経つと、評論家とかいう奴が自分じゃろくな文章を書けもしないくせに
「質が落ちた」とか「駄作になった」とか言いやがる。
まあすべてじゃなく「作風が変わった」とか「新しい魅力が加わった」とかいう誉め言葉も頂いた。
取り敢えず従来通りの発行部数にはなって胸を撫で下ろし、執筆に熱中出来るようになった。
数年は優も無ければ不可もないような作品が続いたと自分でも感じていた。
四十歳を過ぎた頃だから、今から十年ほど前になるが、《日本文庫本出版(株)》の湖立辰馬(こだて・たつま)販売促進部課長が久しぶりに家に顔を出した。
そして二千万円をテーブルに置いて「今、《関東文芸社出版(株)》から出している本を我社から出してもらえませんか」ときた。
隣の席には部下だという桂慎一郎(かつら・しんいちろう)を侍らせている。
学校を出たばかりで二枚目だが陰湿な感じのする男だ。第一印象は「こいつ営業できるんか?」だ。
それはさておき、何度か同じ依頼をしてきたことはあるが金を出したのは初めてだった。
「金はいくらあっても悪いもんじゃないが、だからと言って金貰って出版社変えたんじゃ、明日また別の出版社が来て金置いてったら、また乗り換えることになるよ。良いの?」敢えて創語は言ってみた。
「いやぁそれは困ります」
冗談とは分かっていても湖立は笑って誤魔化すだけの余裕がなく顔を引きつらせている。
「だからさ、金は持って帰って。贈収賄はしたくない」
「いえいえ、先生、役所じゃないからこれが罪になることはありませんよ」
真面目腐って湖立が言う。
「冗談だよ。そんなこと断らなくっても分かってる」
そう言って桂の方へ視線を走らせるとにやついているだけで何も言わない。何も言うなと言われているのかもしれないが、時と場合がある。
「桂くんはどんな作家が好きなんだ?」いきなり振ってみる。
はっとして顔をあげて超有名なミステリー作家の名前を数名口にした。
「ははは、桂くんは冗談ひとつまともに言えないんだな」
皮肉っぽく言って湖立を見ると渋い顔を桂に向けていた。
「先生、すみません。こいつまだ新卒なもんで……」
「俺にはその程度の奴がお似合いって訳か。まぁ良いだろう。でもよ、金はいけないな」
「先生、これを置いて行ったからって恩着せがましい事言う訳じゃないし、会社から置いてこいと言われたものを持ち帰ると、私の立場が……」
湖立が拝むような視線を向けて、手まで合わせる。
「おいおい、止してくれ、俺は神でも仏でもないんだ。わかった。金は貰っとくが、が、はっきり言っとく、出版社を今替える気持ちはまったく無いからな。それで良いんだな」
大金だけにここははっきりさせておかなければ後々禍根を残すことになると感じて念押しする。
湖立は「はい」としっかり頷いた。
「じゃ先生それは仕舞って頂いて食事にでも出ませんか?」
創語は沙希を呼んだ。「金を紙袋ごとクローゼットの棚にでも上げといてくれ」
桂の運転ですし屋に向かう。
それからは月に一、二度桂が顔を出し、四半期に一度ほど湖立が顔を出すと言ったことが続いた。
しかし、桂は来るたびに沙希が迎え入れるのだが、ろくに挨拶もしないしお世辞のひとつも言わない。
沙希も桂が帰ったあと、「あの人って出版社の人だよね。私を家政婦か何かだと思ってんだろうか」と首を捻る。
「俺にもそうだ。雑談は殆どしない。ただ居るだけなんだよ。そして適当な時間になったら、必ず ’次の出版はうちでお願いします’と言って帰るんだ。変な奴。湖立もあんなんで仕事取れると思ってんだろうか?」
「まぁ害にはならないからいいけど、ふふふ」沙希は笑うが、創語としては舐められてるのかと些か腹が立つのであった。
数年間も夫婦で我慢してきたが、もうダメだと思った頃、会社からきたと言って若い女が訪ねてきた。
沙希が応対している途中に創語が顔を出す。
「あー何か話が盛り上がってるようだけど、そちらは?」
女性はすくっと立ち上がって、一礼をし
「私、《日本文庫本出版(株)》の湖立の部下で友池佐知(ともいけ・さち)と言います」
身体を二つに折ってお辞儀をする。
「はぁ桂くんは?」
「はい、今日は休んでるので代わりに来ました」ふっくらとした雰囲気の笑顔は創語の好みとするところだ。
「代わりと言っても、するだけの仕事ないと思うんだけど?」ちょっと冷ややかに言ってみる。
「はい、でも社内では絆を繋ぐと言う大事な仕事があることになってるんで……」
言いようはあるもんだと感心する。
「まぁ座って」
対座するとスカートからすらりと伸びる足をやや斜めに揃えていて、膝上から脹脛あたりまでの肌の色と肉感的なカーブがセクシーさを醸し出している。
身体全体をみても女らしさを演出する部分の程良い曲線が女の女たる所以の色気を漂わせている。
それに美人顔じゃなく少し細面だけれど頬や唇には女らしいふくよかさがあり、瞳は二重瞼で大きく濡れているような輝きを秘めている。
それに本人が意識しているのか分からないが、少し俯き加減な姿勢からこちらを見上げる様にする目付きは、口から出る言葉とは別に男と女の会話をしているようにさえ思えてしまう。
それらをまとめる様なソフトにウェーブしたチョコレート色の髪が首筋から胸元にかけて覗かせている白い肌と相俟って、創語の男心を鷲掴みにしてしまった。
創語が座って少し雑談をしていると「ごゆっくり」
そう言って沙希が席を外した。仕事の話でもするのだろうと思ったのかもしれない。
「出版のお話なんですけど……」
沙希が席を立つのを待っていたかのように佐知が口を開いた。その声も沙希が出ていった途端に艶やかさを意識的に作り上げているようだ。
「桂くんと同じことを言いたいんだろう?」
「もちろんそれもあるんですが、彼は担当者としていかがでしょう?」
「ふむ、毎月二回ほど家に来て、帰りがけにお願いしますと言って帰って行くんだが、その事か?」
佐知は微笑んで頷いた。
「俺も妻もそろそろ我慢も限界だなと話してたんだ。悪い人間じゃないとは思うんだが、……君は分かってるんだろう?」
「私、先生を担当したいと思ってるんです。これまで書かれた作品を全部読んでます。途中作風が変わったりしてますが、どちらも素敵です。前に担当していた作家さんは結局売れなくて、今は実家の新潟に帰って家業の稲作を手伝ってます。ですから、将来有望な先生みたいな方の担当を是非やらせて欲しいんです。お願いします」
頭を下げると奥深くまで広がる胸元が肉欲的な感情を作りだし創語の頭の中を占拠しにかかってくる。それに少し座りを浅くしたことで膝上までだったスカートがミニスカートに変身し危うく下着が見えそうで、目のやり場に困る。
視線を佐知の目に合わせると、創語の心を読み切ったかのようににやりとする。すべて佐知の計画的な身体の動かしのようだ。
「こほん、ただ、その担当者は会社が決めるんだろう? 一作家が言ってもどうなるもんでもないだろう」
創語は咳ばらいをし優位な立場を守ろうと威厳ある言い方で言った積りだった。
「ただ、先生にそう仰って頂いてますと言うのは上司を説得する大きな材料になるんです」
そう言う佐知を見るともう零れそうなくらい瞳を潤ませている。
「どうだ、明日、夕飯でも食いに行くか? 俺も考えておくから、続きはその時にしよう」
佐知は帰りがけ「奥様にもよろしくお伝えください」と言って菓子折りを置いて行った。
その歩みに合わせて揺れるウエストからヒップラインに見惚れる創語だった。
「今度は若くて可愛い女の子に替わるんですか?」
沙希がちょっと尖った目でもらったばかりの菓子袋を開け、コーヒーを淹れて言う。
「何? 焼きもちでも焼いてんのか?」
「とんでもない。あなたの目に下心を見ただけです」
さすがに鋭い、だが沙希だって浮気をしていることを創語が知らないとでも思っているんだろうか。
お互い様だと言う気持ちが沸々と湧き上がる。
沙希は知らないが、男に会いに行く雰囲気は大体わかる。それで盗聴器をバッグに忍ばせて尾行したことがあったのだ。
何を食べ、どんな会話をし、どこのホテルへ行きどんな台詞を吐きながら時を過ごしたのか聞いていた。
飛び込んで行きたい気持ちを押さえて、それも全部取材ノートに記載してある。
浮気をされた旦那の気持ちも重要なネタだ。
それらは小説家の宿命だろうと考えていた。
創語が一時書けなくなったあの時から、沙希は俺を避けるようになった。恐らくその頃から浮気が始まったのだろう。
創語も不倫する心境が知りたくて何人もの女と関係をもったが、すべて小説を書くためだった。
夜の街へも出かけ色んな女に声もかけた。
面白そうな女、男を手玉に取る女、喋らない女など種類が違えば、同じことを言ってもやっても反応が違う。
それらもすべてネタ帳に書き込んである。
時折、妻を殺す夫の心情を知りたくてうずうずとすることもあるが、さすがに我慢している。
離婚する話でも出た時には実行するかもしれないと内心では思うが、そう思う自分が怖くもある。
友人を刺した時のあの感触をもう一度と思い自身の掌をじっと見詰める事もある。
それと小説を頭の中で考え過ぎると、それが夢の中に出てきて夜中に目覚め一瞬現実との区別がつかなくなることがある。
夢を見ている積りで実際に人を殺したらどうしようと不安になることもある。
そんな小説のネタのひとつに佐知という女も含まれたという事だ。
翌日、出版社へ顔を出した後待ち合わせしたホテルのレストランへ向かう。
沙希へは出版社のメンバーと食事すると言って出てきていた。
何も言わずにぶらっと出ることもあるのだが、後ろめたさがそう言わせたと自己分析した。下心を持って出かける夫の心境としてメモを忘れない。
遅れ気味にきた佐知は家に来た時よりも胸元の空いたミニを纏っていた。
ミニなのにスリットが入っていて太ももをほぼ丸出しにしているように見えてしまう。
佐知がコース料理を食べながら、ワインでも飲まなければ聞けないような質問をしてくる。
「先生はどんな女性が好みなの?」
酒が入った瞬間からため口になる佐知はそっちの方へ話を持って行こうとする。
「そうだなぁ、出会った事のないタイプの女が良いな」
「へぇ面白い好みですね。でもそんなに沢山タイプって有ります?」
「おーあるある。佐知ちゃんもそのひとりだな」
「私が? そんなに変わった女かしら?」
「あーセクシーが身体から溢れている。男を知り尽くしたような女に見えるなぁ」
こう言う会話もまぐわいの始まりとの思いを込めて言った。
「あらやだ、私、えっちな女に見えるってことですか?」
……
スイートルームに移ってもワインを飲み続ける佐知は足下が覚束なくなって椅子に掛ける。
「じゃぁ先生、お願いしますよ。次に何かの賞をとったら私に任せて下さいね」
「あぁ良いだろう。その前に佐知を俺に任せてくれ……」
そう言って後ろから佐知の肩に熱くなった手を優しく置く。
佐知は首を後ろに倒して顎を精一杯伸ばし両の手で創語の顔を挟んで引き付け唇を重ねた。
……
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