(4)

 ごうっと冷たい風が押し寄せて、俺の顔を強制的に持ち上げた。そうだな。今後のことをあれこれ考えたところで、変えられることを拒むこの野原に俺ができることは何もない。書類上の所有者が俺の血族かそうでない者かに変化するだけで、あとは如何いかんともし難いのだ。


 ふと。章子だったらここをどうすると言うかなと考え、その追求をすぐに諦めた。


「あいつは、俺に何か主張するってことがほとんどなかったからなあ」


 散らかすなとか、身ぎれいにしろとか、生活態度には何かと突っ込みが入ったが、決定事をあいつが引っ張るということは極めて稀だった。自宅をしつらえる時に、マンションではなく一軒家にしてくれと懇願した時くらいか。その理由もあいつらしかったが。


「ご近所付き合いは戸建てでもマンションでも同じだと思うけど、顔を合わせる頻度が違うでしょ。一戸建ての方が立てこもりやすいの」


 ネクラでも非社交的でもなかったが、大勢の中で強く自己主張するのがとにかく苦手なやつだった。決しておっとりでも鷹揚でもないのに、気づけばいつも貧乏くじを引かされる。あいつの愚痴をどれほど聞かされ続けてきたか。きっぱり断るとか、押し返すというアクションが苦手だから、最後に面倒ごとがあいつにだけ降りかかるのはある意味必然だった。

 俺が庇える時は防波堤になったが、親父の世話で走り回っている間はあいつのサポートがどうしても後回しになった。そのストレスがあいつの寿命を縮めたんじゃないだろうか。今更悔いても仕方ないんだが、どうにもこうにもやりきれない。


「ふうっ……」


 でかい溜息を寒風に吹き流したら、背後からでかいしわがれ声が聞こえて驚いた。


「なんだなんだ、のぶちゃん! 辛気臭いね。この寒いのに溜息なんかつくんじゃないよ!」

「ああ、豊島とよしまさん。お久しぶりです」

「全くだ。結局せいちゃんにもあきちゃんにも最後まで会えずじまいだった。残念無念だよ」


 目を三角にしてぶりぶり怒っているのは、新住民その一の豊島さん。いや、今はもう旧住民か。死んだ親父と同じくらいの年恰好で、恐い恐いばあさんだ。口を閉じていればしんどそうに杖に寄りかかっているしわくちゃばあさんに過ぎないが、口から飛び出すのは棘ではなく砲弾だ。俺らがまだ子供の頃は、ここでどれだけ豊島さんにどやされたかわからない。


 豊島さんは、エゴイストばかりの新住民の中でもとびきりのエゴイストだ。自分の主義主張を頑として曲げず、徹底的に押し通そうとする。その上、理屈がまるっきり通用しない。ダメなものは誰がなんと言おうとダメ。嫌いなものは未来永劫嫌い。交渉や駆け引き、妥協とはまるっきり無縁で、説得も制御もできない異星人と恐れられていた。

 誰に対しても自分の原則適用を曲げようとしない豊島さんは、エゴイスト揃いの新住民の中ですら浮きまくっていたのだ。


 で、穂坂さんや親父ともがちんこすると思いきや。意外や意外、二人とはとても良好な関係を保っていた。

 先住者の誇りを高々と掲げ、新住民の理不尽な圧力に抵抗し続けた穂坂さんも。ゴリ押しや無理難題のふっかけを、柳に風と受け流してしまう親父も。人当たりは柔らかいが、譲れないところからは一歩も引かない。我を折ってまで群れ集うことを優先するタイプではないのだ。豊島さんは、媚びない、逃げない、日和らない男衆二人を気に入ったんだろう。穂坂さんや親父のことを苗字ではなく名前の方で徳さん、征ちゃんと呼ぶのは、恐らく豊島さんだけだったと思う。


 敵の敵は味方。新住民の異分子である豊島さんは、新住民のエゴに屈したくない穂坂さんや親父にとって数少ない理解者であり戦友だった。穂坂さんや親父がここに来ると、野原の周りを歩くのが日課の豊島さんに必ず出くわす。そこですぐによもやま話が始まる。牧柵に寄りかかった三人がでかい声でしゃべっているのは、野原の反対側からも聞こえた。

 親父の代わりに俺が妻と子供たちを連れてくるようになっても、豊島さんは必ず現れた。体は年とともにしぼみ、おばさんからおばあさんに変わっていっても、豊島さんの気質は不変。永遠の野原と同じくらい、変えられることを拒んでいるかのように思えた。


 そして、豊島さんとは水と油の関係になるはずの章子が、いつも屈託無く談笑していた。それも豊島さんのごり押しに屈するという受け身ではなく、対等に。それが……俺にとってはずっと不思議だったんだ。


 俺がしげしげと顔を見ているのが気になったんだろう。豊島さんがじろっと俺を睨んだ。


「しっかし、あんたもついてないね」

「全くです」


 御愁傷様でもお気の毒様でもない。いきなり「ついてない」と来たもんだ。年は取っても丸くなってはいない。やっぱり豊島さんだなあと思わず苦笑する。


「章子をもう一度くらい連れてきたかったんですが……」

「仕方ないよ。明日のことは誰にもわかんないからね」

「ええ」


 俺ではなく、野原の向こうをじっと見つめて。豊島さんが持論を放り投げた。


「だから。わたしゃ腹に溜めるのが嫌なんだよ。明日に持ち越したら、持ち越した分だけ気が重くなる。そんなのまっぴらだよ。章ちゃんにもそう言った」


 なるほど……。章子が豊島さんの言葉をどう捉えたのかはわからないが。章子の中でなんらかの変化があったのは間違いなさそうだ。


「ただね。宿六がいた頃は毎日がちゃがちゃ吐き出せてたものが、今はここでしか吐き出せない。独りはやだね」


 俺も野原の向こうを見やる。豊島さんもまた、ご主人、穂坂さん、親父、章子……腹蔵なく何もかもぶちまけることができる戦友を次々に失ってきたんだろう。今は孤立無援か。だが、それは俺も同じなんだよな。


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