(4)

 有美ちゃんが生まれてからのあいつは働きづめだったが、どんな仕事も長続きしないくせに好ましくない男遍歴だけは律儀に積み重ねた。いや……好ましくないというのはあくまでも第三者から見て、だ。陽花自身は一つ一つの出会いと別れにちゃんと意味を置いていたのかもしれない。その内情が誰からも見えないだけ。だが、隠している内情が美しくも光ってもいないことは置かれた状況から漏れ出てしまう。だからいつまで経っても悪循環が断ち切れない。

 陽花の最大の誤算は有美ちゃんだろう。手塩にかけて育てた愛娘が、まさか自分と同じ轍を踏むとは思ってもいなかったはずだ。形式上は結婚しているものの、有美ちゃんの夫には実質的な妻子がいる。有美ちゃんが勝ち取れたのは書類上の妻という地位だけで、実状はシンママなんだよ。

 陽花と違って有美ちゃんはトラだ。喜怒哀楽がはっきりしていて、好悪の感情を剥き出しにする。母親の腰の据わらない生き様を、自堕落でだらしないと毛嫌いしている。俺に言わせてもらえば、直情に振り回されて足元すら見えなくなっている有美ちゃんだって無定見な陽花と五十歩百歩だよ。母親に反発しているのは同族嫌悪なのかもな。

 それはともかく。有美ちゃんが陽花から離れたがっていることは事実だ。今は手がかかる子供を抱えて自活する経済的余裕がないから渋々同居しているが、嫌っている母親との同居をいつまでも先延ばしするとは思えない。有美ちゃんのどろどろ愛憎劇に巻き込まれて疲れ果て、仕事を辞めて引きこもっている陽花にはもう後がないんだ。


 俺にもう少し心の余裕があれば、踏み込んで陽花のサポートに乗り出せるかもしれない。だが、俺自身まだ喪失や虚脱の沼から抜け切れていない。こうやって気晴らしに連れ出すくらいで精一杯なんだ。どうしたものかな。


「ああ、来てたのかい」


 突然豊島さんのしゃがれ声が聞こえて、慌てて振り返った。


「こんにちは、豊島さん。この前よりは暖かい日を選んできました」

「やれやれだよ。夏は猛暑、冬は底冷え。日本はどうなっちまったのかねえ」


 いきなりお天道様に嫌味をぶちまけた豊島さんは、ぎょろっと目を剥いて陽花を睨みつけた。


「相変わらず辛気臭いツラしやがって!」


 こんにちはも、ひさしぶりもない。しょっぱなからばっさり袈裟斬り。

 陽花はここに来る前、あの頃の豊島さんよりも今のわたしの方がずっと年寄りだからと余裕をかましていたが、おそらく虚勢だったんだろう。当時と全く変わらない豊島さんの激しいどやしに、くったり俯いてしまった。


「人生を丸々どぶに捨てるならそれでもいいさ。あんたの人生だからね。勝手に腐ってろ!」


 ああ。なるほどな。今ならわかる。俺らがガキの頃、陽花がなぜ豊島さんをこれでもかと苦手にしていたか。両親も俺も、陽花の奥底には手を突っ込まなかった。家族よりも心の距離が離れている近所の友達やクラスメートは、陽花が立てている明るい看板の裏を見ようとはしない。陽花は、誰からも強い敵意をぶつけられたことがなかったんだ。

 でも、豊島さんは容赦しなかった。陽花が心の奥底に後生大事にしまい込んでいる自己愛の欺瞞を引きずり出して、容赦なく糾弾する。自分さえよければいいのか、このクズ野郎! ……と。それをスーパーエゴイストの豊島さんが言うかという気はするけれど。


「豊島さん。陽花のことは父から聞いてたんですか?」


 砲弾の衝撃を和らげようと思って、話を俺に振り向ける。だが、豊島さんの厳しい視線は陽花に据えられたままだ。ぴくりとも動かない。


「聞いてた。でも征さんにすらわかんないことが、あたしにわかるわけないだろ。あたしゃ、こそこそ隠し事するやつが大嫌いなんだよ!」


 豊島さんが、情け容赦なく吠える。


「あんたはあの頃とまるっきり変わってない。どうやったらちゃらちゃら飾った自分を見てもらえるか、それしか考えてない! ばかばかしいっ!」


 よたよたと牧柵に近づいた豊島さんが、持っていた杖でロープを思い切り殴りつけた。

 ばいん。古びたロープがやめてくれと言うように短く鳴った。


「まるっきり子供らしくない。薄気味悪い。性根が腐ってる! あたしゃ、あんたを見るたんびに虫酸が走った! だから、会うたびにどやした。このいいかっこしいがってね!」


 さっきよりもっと強く、杖がロープを打ち据える。ばん! 今度はロープの音が乾いた抗議音に聞こえる。


「全然変わってないじゃないか!」


 ひたすら耐えているのか内心反発しているのか、目を伏せ俯いてしまった陽花の表情からは何も読み取れない。

 変わらない……か。変えないことが自分の生き方に芯を通してくれるのなら、その強情には意味があると思う。人生が窮屈になっても、自分自身が納得できるからだ。豊島さんのエゴ徹底がその典型だ。だが陽花の変化拒絶はまるっきりその逆。自我の隠蔽に百害あって一利もないのはもう十分自覚しているはずなのに、頑なに仮面を外そうとしない。被っている仮面がもう腐ってぼろぼろになっているのに。


 かさにかかってどやし続けると思っていたんだが、豊島さんはぴたりと口をつぐんだ。それから、そっぽを向いてぼそっと言った。


「あたしもトシだ。いつどうなるかわかんない。征さんから頼まれていたことは今のうちに果たしとく。陽ちゃんが変わってなかったら、子供の頃のように全力でどやしてくれって言われてた。頼まれなくてもどやしたけどね!」


 あ……。

 驚いたように陽花が顔を上げた。


「征さん、心配してたよ。心配してたけど、そうは言えなかったんさ。俺が手を差し出したら、その時点であいつが終わりになる。変えられるんじゃなくて、自分から変わんないと意味がないからってね」


 どすっ。腰が抜けたように枯れ草の上に座り込んだ陽花が倒れ伏して泣き始めた。最初はすすり泣きだったが、嗚咽は徐々に強くなっていった。……号泣へと。


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