(3)

 牧柵に背中を預け、眼下の家並を指差す。陽花も同じポーズで坂の下をぐるりと見回した。


「ガキだった俺らが来てた頃には、裾の家はまだこんなになかった。今はびっしり家で埋まってる。陽ちゃんが有美ちゃん連れて来てた頃より、もっと家が増えてるんだ。でもここはずっとそのまま。何も変わらない」

「お兄ちゃんが手入れしてるとか?」

「牧柵の外は、な。草木や蔓がはびこった上にゴミだらけになると、住人からすぐ苦情が来るから」

「そっか……」

「でも、中は何もしていない。そのまんまだよ」

「うーん、信じられないけど」

「俺もさ」


 信じられないと信じたくないは、自分の予測や希望とのずれが極端に大きいという点ではよく似ている。だが、その二者の意味は天と地ほど違う。信じられないは感想。信じたくないは感情だ。

 陽花は、望む方向と真逆に人生をねじ曲げられてきたと思っているはず。どれほど目を逸らそうとしても現実からは逃れられないから、起こってしまった変化は受け入れるしかない。だから、変化に抗って今を保ち続けることなどできないと諦めているように『見える』。

 陽花が心底から諦めているならいいが、本当は違うんだろう。陽花は、何一つ思うように行かない現実を絶対に認めたくない。だから、徹底して変化を拒絶している野原の存在を『信じたくない』。信じられないってのは建前で、本当は信じたくない、だ。


 ただ。陽花が自身の半生をどう思っているかはわからないが、俺には陽花のこれまでの足取りが自業自得のように見える。陽花が望まなかった運命に追い込まれているのではなく、人生が悪化する方向に陽花自らが歩いてきたように見える。なぜか。陽花の選択基準が……もっと言えば陽花の真情が誰からも見えないからだ。親や俺にすらよくわからないものが、それ以外の第三者にわかるはずがない。

 どれほど陽花が寛容で鷹揚なことを装おうとしても、内実を見せない人物は誰からも信用されない。全身に貼り付けられた意欲や笑顔は、作り物だと看破された途端に最悪の欠点に転落してしまう。魂胆が見えない人の好意表現は、すぐ悪意に取られてしまうんだ。


 小さい頃から自身の欠点を熟知しているはずの陽花が、この年になるまで、そしてどんどん状況が悪化していくことを知りながら、自分の真情を頑なに隠し続けているのはなぜだ? 俺にはちっとも理解できない。

 親父やお袋は表立って陽花をサポートしなかったものの、精神的支えにはなり続けた。俺も、親ほどではないが気にはしてきた。だが、あいつの方から俺らを頼ろうとしたことは一度もない。それならもっとしっかりしてくれと言いたいところだが……逆にどんどん劣化しているように見える。


「ふう……」


 俺がこっそり漏らした溜息は、陽花には聞こえなかったようだ。幼い有美ちゃんとここへ来ていた時と同じように、疲れ果てた表情でぼんやりと野原を眺めている。目の焦点がどこにも合っていない。

 さっき久しぶりに野原を見た時の高揚感は、ほんの一瞬だけだったようだな。


◇ ◇ ◇


 陽花の転落は中高の頃から予兆があった。とにかく人に流されやすい。外面が明るいから友達の輪にはすぐに入れるが、自発性や意思表示が求められるタイミングで一歩引いてしまう。それでいい、と誰かに合わせてしまう。陽花の選択が積極的な意思の発露なのか、消去法の残り滓をいやいや受け入れているのか、よくわからないんだ。当然、陽花は友達群の最縁部にしかいられなくなる。外されることはないが中心には入れてもらえない……そういう位置しかゲットできない。

 俺は鈍だったが、好悪の線引きははっきりしてたし、集団の中に居続けようという強い執着もない。外から見えるマイペースと俺の中身との間に大きなずれはなかった。ただ……その分、いつも損をした。置いていかれ、放置され、馬鹿にされた。だから損した分を自力で取り返すことに必死だった、ほとんど年の差のない兄でありながら、先回りして陽花を心配する余裕などどこにもなかったんだ。

 だから俺と陽花が揃って家を離れた時も、あいつの不安定さが心配だったが先回りはできなかった。転落の予感はずっと前からあったのに……。


「ふうっ」

「お兄ちゃん、溜息ばっかだね」


 ぼんやりモードを少しだけ脱した陽花が、力のない声でそう訊いた。


「まあな」


◇ ◇ ◇


 陽花が人生をこれでもかとくすませてしまった直接の原因は、出来ちゃった、だ。大学生活が始まって早々に妊娠してしまい、双方の親が仰天して対応に追われた。一浪して陽花と同じタイミングで大学に通い始めた俺は、鈍ゆえに新生活に馴染むことだけで精一杯。陽花の悲劇には直接タッチしなかった……と言うか、出来なかった。あとから親に何があったか聞かされて仰天したんだ。

 ただ、俺にはなんとなく「やっぱりか」という予想的中感があった。先生や校則というガードがかかっていた義務教育や高校の頃と違い、基本オールフリーの大学では対人関係の構築に十分な用心や警戒心が要る。流されやすいあいつは特に、な。そこがずっと不安だった。その不安が最悪の形で現実になっちまった。


 親父は陽花の自立には時間がかかると踏んでいた。大学進学時に自宅を出て下宿することには反対だったんだ。だが基本放任だった親父が、その時だけ厳しい父親を演じることはできない。あらゆるリスクにきちんと備えろと繰り返し警告しただけで、あっさり自活を認めた。それがどうしようもなく裏目に出たんだろう。

 新歓コンパで隣席の男にナンパされてまんまとひっかかり、初体験でいきなり出来ちゃった、だ。陽花が体調の変化にすぐ気付ければ堕胎が可能だったはず。だが、陽花が相手の男に妊娠を告げた時にはもう五ヶ月を過ぎていた。それが相手の男への好意から来ているのか、復讐なのか、俺には知るすべがない。陽花は誰に対しても妊娠の事実しか告げなかったのだから。

 相手の男は無責任なナンパ野郎だったが、まだ未成年の学生だから逃げ隠れしようがない。当人同士に両家の親という形で話し合いが持たれたものの、出来てしまった子供は産むしかないのだから、要点は生まれて来る子供をどうするかという一点に絞られた。

 もし陽花と男との間に好意が介在していれば、変則の出来ちゃった婚というオチになったのだろう。だが男にとって陽花は女遊びの駒に過ぎなかったし、ひたすら黙り込んだ陽花の本心は最後まで明かされなかった。陽花は、関係者の誰ともまともな接点を作れなかったんだ。


 だが陽花は、生まれて来る子供を男に認知させるだけではなく、一度入籍するという形にこだわった。当時は、それが陽花の相手の男への好意表明だろうと誰もが考えた。俺は……違うと思う。あいつは、戸籍を汚す形で自分と男の両方に罰を科したのだろう。不実な相手をどれほど責めたところで、反省するどころかまともな反応すら返ってこない。ならば、己の愚かしさも含めしでかした事実を消せない文書に刻むしかない、と。

 親父もお袋も、そんな陽花をただ見守った。陽花が純粋な被害者であれば全力でサポートしたと思う。しかし親父の強い警告をつらっと無視したのは陽花だ。絶縁を言い出さない代わりに、援助もしない。自分の人生なんだから、ちゃんと自力で組み立てなさい。そう……言うしかなかったんだ。

 陽花は有美ちゃんを出産してすぐ大学を中退し、同時に入籍したものの一ヶ月後に協議離婚。有美ちゃんを一人で育てることになった。不毛な一年で陽花が得たものは、宇沢姓だけ。佐々木姓を捨てたのは、何もかも飲み込んでしまう父親の影響圏から自分を強制的に切り離すためだったのかもしれないが、本当のところはわからない。ともかくも、全ての不利益は陽花一人が被ることになった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る