(2)

 年のうんと近い兄妹なら互いのことがよくわかりそうなものだが、残念ながら俺と陽花の性格は幼い頃から相性が悪い。そして厄介なことに、相性の悪さが仲の悪さにリンクしていないんだ。兄妹仲は悪くないどころかむしろ良好で、口喧嘩すらあまりしたことがない。だけど、鈍感な俺はこの年になるまで陽花の思考や感情をまともに読めたためしがないんだ。


 俺はルーズでのんびり、そしてものぐさだ。先回りして人の感情を汲み取るのは大の苦手なんだ。俺の鈍牛のような性質は誰が見てもわかるだろう。陽花は逆だ。名前通りの太陽の花。明るく気さくでおおらかでタフ。誰からもそう評される。

 対照的な俺らだが、揃って鷹揚で懐が深いと誤解される点は似通っていた。そう、誤解なんだよ。俺にも陽花にも親父やお袋ほどの奥深さや許容力はない。俺はただぼーっとしているだけ。陽花の鷹揚はポーズ。そして外圧に耐えるキャパは、俺より陽花の方がずっと小さかった。


 陽花の太陽サイドは一種の処世術なんだが十分に機能していない。外面そとづらが明る過ぎるせいで、内面にしっかり踏み込めた者が誰もいなかったように思う。両親や兄の俺でさえ、陽花の真情は読み取れなかった。

 親父やお袋は、陽花の奥底に手を突っ込まなかった。腫れ物に触るどころか、触ろうとしなかったんだ。それはネグレクトではない。陽花を傷つけずに内心に踏み入るアプローチがどうしてもわからなかったから、陽花の選択や判断を残らず受け入れるという形で見守ることにしたのだろう。陽花がどうしても影響圏の外に出られないと諦めてしまうくらい、ふんわりと、だがしっかりと全てを受容したんだ。それは陽花にとって幸運でも不幸でもあったと思う。親という絶対に崩れない安定地盤を得られた代わりに、それ以外の場所でうまく立てなくなったのだから。


 陽花は自分の窮状を決して親のせいにはしないが、その達観もまたポーズにすぎない。俺は……そう考えている。あいつの内面にどんな闇と空洞が広がっているのかは、あいつの現況からしか見えてこない。その現況は世間一般には失敗もしくは惨状とみなされるんだ。


「ふうっ」


 俺が漏らした溜息の音で、陽花が振り返った。


「お兄ちゃん、どうしたの?」

「いや、世の中、なかなかうまく行かんなあと思ってさ」

「そうね」


 それ以上突っ込んだコメントは返ってこなかった。それが……陽花だ。


◇ ◇ ◇


 陽花が住んでいる古い賃貸マンションは俺の家より都心寄りにあるので、一度目的地から遠ざかる形になる。そこそこの移動距離になるし渋滞も影響してしまうから、俺の自宅に陽花が来てくれた方がありがたい。だが、陽花は実質引きこもっている。俺が迎えに行かない限り家から出てこないだろう。

 もし親父が生きていれば、きっと言うはずだ。そっとしておけ、と。だが、親父はもういない。養護施設にいるお袋とは、実子である俺や陽花すら自由に会えない。親というシェルターはとっくの昔に廃墟になっているんだ。

 もちろん陽花は、自分がすでに楽園の外に追いやられていることを認識しているだろう。だからこそ引きこもるという手段で自分の身を守っているんだが、引きこもれるのは娘の有美ゆうみちゃんがいるからだ。有美ちゃんが幼い娘を連れて陽花のマンションを出れば、収入の途絶えたあいつは家賃を払えなくなる。安全地帯どころか居場所すら失うんだ。

 陽花の変化はいつか来るのではなく、もう目前に迫っている。変化から逃れることも、変化を押し留めることもできない。俺が親父や章子を生き返らせることが出来ないのと同じように。


 おっとっと。


「考え事をしながら運転するもんじゃないな。危うく行き過ぎるところだった」


 急ブレーキでつんのめった陽花が、ぷっと頬を膨らませた。


「気ぃつけてよ」

「わかってる」


 ウインカーを上げて左折し、安全確認ついでに陽花の膨れ面を見て安堵する。変な話だが、膨れ面をしている時だけは、あいつの表情が子供の頃の面影を漂わせるんだよ。だからと言って、始終怒らせるわけにもいかないが。


「まだなの?」

「忘れたのか。もうすぐだよ」

「そうだっけ。子供の頃はすぐ着いたような気がしたんだけど」

「楽しいことが待ってる時は、時間が短く感じられるのさ」

「……」


 しまった。また余計なことを言っちまったな。痩せこけた顔に戻ってしまった陽花を見て、ハンドルに八つ当たりする。俺は本当に気が利かない。


「ほら、見えてきたぞ」


 家並に遮られていた空間の蓋が取れ、ぽかんと明るい青空と、濡れた枯れ草で覆われた藁色の野原が見えてきた。この前の印象と少し違うな。たとえようのない違和感を覚えながらアクセルを強く踏み込む。家の数が急に減り、住宅街が坂の下に残らず沈殿した。


「わっ!」

「はっはっは。俺の言った通りだろ?」

「すごいすごい! 全然変わってない! うっそおーっ!」


 陽花の顔から、一瞬でくすみが消えた。

 前回来たのと同じように、とっつきに車を停めてしっかりサイドブレーキを引く。車から勢いよく飛び出した陽花は、子供のように息を弾ませながら野原の牧柵に突進していった。


「すごいすごいすごい! どうして?」


 どうしてと聞かれても答えようがない。


「さあな。俺にもよくわかんないよ。親父や穂坂さんから聞かされていたのは、ここが永遠の野原だということだけさ」

「とわののはら、かあ。お父さんから聞かされてはいたけど、ぴんとこなかったから」


 さもありなん。陽花の苦難は家を出てすぐに始まった。それから現在に至るまで、平穏無事に過ごせた日は数えるくらいしかないだろう。有美ちゃんを連れてここに来ていた時も、陽花が心の重荷を解放することはできなかったと思う。親父たちが穂坂さんや豊島さんと賑やかに歓談している間、あいつはいつもぼんやりと牧柵に寄りかかっていたからな。

 俺もそうだったが、陽花にとってもここはただの野原にすぎなかった。街中と違って子供を安心してリリースできる場所……それ以外の意味も意義もなかったと思う。


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