第二話 霜野

(1)

 エンジン音がいつもより甲高い。そのノイズに紛れないようにと、大きめの声で助手席の陽花に声をかけた。


「陽ちゃんがすぐ行くって言うとは思わなかったよ」

「そう?」

「そらそうさ。陽ちゃん、トヨさんをすごく苦手にしてただろ」

「まあねー。すっごい怖いおばさんだったから」

「今は?」

「あはは。さすがにねー。わたしは、あの頃のトヨさんよりもっとおばさんだもん」

「それもそうか」

「懐かしいなー」


 豊島さんに陽花を連れといでと言われたからじゃない。うちの子供たちが陽花の家にちょくちょく押しかけ、孫の世話を押し付けて迷惑をかけていることを詫びようと思って電話したんだが、その時に永遠の野原の話を出した。しばらくご無沙汰だったんだが、親父も逝ったことだし、あとのことを考えておかないとならないから見に行った、と。ああそうで終わるかと思った野原の件に、なぜか陽花ががっちり食いついたんだ。どうだったのとしつこく聞かれたから、全然変わってなかったよと答えた。

 俺や陽花が永遠の野原に出入りしていた時期は限られている。俺らがまだ幼かった時と、俺らが子供たちを遊ばせに来ていた時だけだ。野原に興味を失うタイミングは俺らも子供らも同じだから、野原に来ていた時期は俺の半生のうち十代前の数年と三十前後の数年に集約される。それ以外の時に野原に出かけたことはほとんどない。実際、俺が四十を越してから今までは一度も足を運ばなかったんだ。陽花も同じだろう。それだけ訪問頻度が低ければ「何もかも変わっちゃったな」というのが普通の印象になるはずで、「あの頃のままだったよ」という方がおかしいんだ。誰も野原を管理していないのだから。

 陽花もそう思ったのか、面倒くさがりのお兄ちゃんはいっつも適当なことを言うからと、はなから俺の説明を信じていない。面倒くさがりなのも適当なことを言うのも事実なので、電話では反論しなかった。おまえもしばらく行ってないんだから、直接自分の目で確かめたらどうだと切り返した。で、陽花はまんまと俺の誘導に引っかかったということだ。あいつにもいろいろあったから、遠出で気晴らししたいという思惑があったのかもしれない。


 豊島さんに「もっとあったかい日においで」と言われたし、実際この前は風が冷たくて難儀したので、前回からは少し日を空け、梅が綻びそうなうらうらと暖かい日を選んで陽花を迎えにいった。

 億劫だったが、出る前にすすぼけていた軽を洗車し、車内も掃除した。陽花を汚れたままの車に乗せれば、少しはきれいにしたらと突っ込まれかねない。俺は面倒くさがりなんだよで済めばいいんだが、章子のきれい好きを知っている陽花が本当の理由に気づいて落ち込むのは困る。気晴らしにならなくなるからな。

 陽花は最初助手席に座ってもいいものかと逡巡していたが、後ろに乗られると話がしずらいと俺が助手席に押し込んだ。あれから何度か使ったから、車のコンディションは前よりましになっている。しかし久しぶりに積載物が増えたせいか、エンジンが時折むせてぜいぜいと息をついた。次の定期点検の時には、バッテリーやらオイルやらあれこれ交換しないとならんだろう。


「やれやれ。まだすねてやがる」

「ずっと乗ってなかったの?」

「そりゃそうさ。親父の病院への送迎に使ってた頃は毎日乗ってたけど、章子が逝ってからはお地蔵様だ」

「買い物……必要なくなったもんね」

「そ」


 しまった。俺は本当に鈍だ。自分から薄暗い方向に話を持っていっちまった。慌てて話題を変える。


「それはそうと」

「うん? なに?」

「陽ちゃんと二人でドライブってのは、初めてじゃないか?」

「あ、そうかも」


 俺が運転免許を取って車を運転したのは、子供たちの通園や買い出しに必要だったからだ。章子は免許を持っていなかったから必然的に俺が運転手役になった。車は趣味や道楽ではなく、生活必需品だった。当然、車に乗るのは章子と子供たち、時々両親、それだけだった。友人知人どころか、妹の陽花ですら車に乗せる機会がなかったんだ。

 親父と章子が世を去り、子供たちが自分の車に乗るようになってからは、小さい軽ですら孤独の箱に成り果てている。野原のことがなければ、そろそろ車と縁を切りたいんだけどな。


「お兄ちゃんは、これが初めての車?」

「いや。前はワンボックス。軽にしたのは章子と二人になってからだよ。これで十分だったからな」

「そっか……」


 陽花が、車窓に流れる景観を物憂げに見つめた。結局、話がいつの間にか失ったものに引きずられてしまう。どんな話題に変えても喪失の蟻地獄に引きずり込まれるのなら、無音の味気なさをラジオのノイズで埋めるしかないだろう。俺は黙ってカーステのスイッチを入れた。ちょうどリクエスト曲が流れ始めたところだったが、こともあろうに死に別れの歌だ。今日はとことん巡り合わせが悪い。

 横を向いたきり黙り込んでしまった陽花の横顔にちらちら目を遣る。陽花は年子だから妹というより双子のようなものかもしれないが、顔貌はまるっきり違う。俺は親父似の下駄顔で、陽花はお袋似の丸系だった。ただ、その違いが五十を過ぎてから縮まった気がする。

 俺が年相応の容貌になったように、陽花も紛うことなくおばさんの顔になった。幼少時の丸顔は見る影もなく萎み、頬が削げ落ちて実年齢以上に老けた印象になっている。重ねられた苦労がしわや染みとして滲み出していて、陽花もそれらを隠そうとしていない。そして陽花の場合、苦労は生活苦ではなく度重なる心労だろう。苦労の質がよくない。


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