(5)

 豊島さんはそれ以上何も言わず、俺を手招きして泣き伏している陽花から数メートル離れた。


「なあ、信ちゃん。例の件、急がないんだろ」

「急ぎません。俺もゆっくり調べます」

「助かる。年寄りが一番堪えるのは急かされることだからね」


 振り上げた杖でロープを強く叩いた豊島さんが、ぎゅいっと眉を吊り上げる。


「ここ二、三日はずっとあったかかっただろ?」

「ええ。ぽかぽか陽気で」

「だから野原の外の草はよく乾いてるんだ。でも」


 杖がさっと野原の方に伸ばされた。俺も野原の草を注視する。それで、ここに着いた時の強い違和感が何から来ているのか、はっきりわかった。


「びっしょり濡れてますね」

「そう。今朝は朝から気温が高くてね。霜どころか露さえ降りてない。なのに」

「この濡れよう……ってことは」

「今朝、朝一で見回ったんだよ。霜で真っ白だった」

「う……わ」


 信じられないが、もし本当にそうだったとすれば変化の中身に幅があることがわかる。

 もともと、野原はちゃんと四季を追って変わっていく。今は枯れ野だが、もうすぐ若草が芽吹き、青々と茂り、実りをばらまいて、萎れて枯れる。自然のサイクルは忠実に再現されているんだ。そして、今の豊島さんの情報が事実だとすれば。


「ある一年だけをループしていると考えられるのか」

「そうなんだよ。ここが忌み地だったっていう話は前からあるんだ。でも、忌み地になった理由がわかんない。変化しない時間に幅があるってことに、何か意味があるんかなあと思ってさ」

「確かにそうだ!」


 豊島さんは、満足そうににいっと笑った。


「なあ、信ちゃん。ここは変わんないけど、徳さんや征さんがここに来る目的は変わってるんだ」

「はい、なんとなく気づいてました」

「あんただって変わってるだろ」

「ええ」

「もしかしたら、ここもそうかもしれないと思ったのさ」


 なるほど。野原が忌み地になった当初と今とでは、変化に抵抗する目的が違うっていう可能性があるのか。

 豊島さんが、まだ泣き続けている陽花を見下ろしながら俺に言い足す。


「陽ちゃんが自分を出さない理由も、子供の頃とは違っているかもしれない。だけど、理由は陽ちゃん自身が誰かに説明しないとわかんないよ。そこだけはもう変化させないと、このまま終わっちまうよ」

「俺も心配なんですけどね。まあ、膝詰めで話をしてみます」

「あんた方はちゃんと親子兄妹してる。なんとかなるだろさ。身内で殺し合いやってる馬鹿どもよりずーっとましだ」


 最後に物騒な褒め言葉を残して、豊島さんがのっそり坂を降りて行った。俺は野原にもう一度でかい溜息をぶん投げてから、陽花に声をかけた。


「陽ちゃん、帰るぞ」


◇ ◇ ◇


 帰路。車内でずっと黙り込んでいた陽花に小言を言った。


「陽ちゃんはサインを出さない。出してもわかりにくい」

「サイン?」

「そう」


 兄妹揃っていい年こいたおっさん、おばさんなんだ。今更俺が兄貴面して筋論ぶちかましてもしょうがないし、かと言って親父やお袋の代わりに擁護することもできない。陽花の状況に応じてアドバイスや援助を考えるのが関の山だ。

 ただ。手を貸すにしても闇夜の手探りにはしたくない。陽花からのリクエストなしに先回りして動くってのは、鈍の俺には出来ないんだよ。一人でなんでもかんでも抱え込み、最後に自爆するのはもう勘弁してほしい。それだけはストレートに言った。


「ホンネを隠し続けることで。得したことより損したことの方が多いだろ」

「……うん」

「全部言葉にしろとは言わないけど、サインだけはしっかり出してくれ。有美ちゃんみたいにわかりやすいならともかく、陽ちゃんのサインは身内の俺らですら読み取れない」

「……」


 ほら。また黙り込んじまった。それがダメなんだってば。まったく。


「さっき泣いたのだってそう。普通は、悲しいからとか悔しいからとか恐ろしいからとか、なんで泣いたのかだいたい見当がつく。でも、陽ちゃんのは泣いた理由がさっぱりわからん。泣くってのは一番わかりやすい感情表現なのに、その出どころがまるっきりわからないのは異常だよ」


 あえて異常という強い言葉を使った。このあとまた引きこもられると、サポートが困難になる。俺はお袋や子供らとやり取りしなければならないから、おまえを最優先には出来ないんだ。俺がなんとか補助できるくらいまではきちんと意思表示をしてくれ。ごまかしなしでな。


「変えられたくないって気持ちはよくわかる。だが変えられたくないなら、誰が見てもわかる形で変化に抵抗する努力が必要なんだよ。あの野原みたいにな」

「……どういうこと?」

「あの野原。もともとあるもの以外の存在を拒絶するんだ。本来そこにないものを置くと、翌日には消えてる」

「ひ……」


 真っ青になってやがる。なんだ、知らなかったのか。


「だからずっとそのまま残ってるのさ。変わらないんじゃない。誰も変えられないんだ。豊島さん以上に頑固なんだよ。親父が永遠の野原って言ってたのは、伊達や酔狂じゃないんだ」

「知らなかった」

「まあな。たまに野原に行くくらいの人にとっては、あそこはただの野原。それ以上でもそれ以下でもない。でも、豊島さんみたいに毎日見ている人にとっては、聖地でも墓地でもあるのさ」


 変化に抵抗することは、プラスとマイナス両方の作用をもたらす。壊したくない現在いまを保てるのがプラス、変化する潮流から取り残されてしまうことがマイナスだ。どちらかだけということはないにしても、変化を受け入れない限りマイナス面ばかりが膨らむように思う。

 変化を嫌っている豊島さんにしても、生きていけなくなるくらい変化に抵抗しているわけではない。だからこそ、人付き合いの窮屈さを乗り越えて今まであそこで暮らし続けていられるんだ。


 あの奇妙な野原を見て。少しだけでいいから変化との付き合い方を考えてほしい。偉そうなことは言えないよ。俺も全く同じ課題を抱えているからな。

 カーステのスイッチを入れる前に、思いつきを口にする。


「今日は霜の影響で草が濡れてて入れなかったが、次行く時は久しぶりに中を散歩するかな」

「……大丈夫なの?」


 不安そうな陽花にのんびり答える。


「大丈夫じゃなかったら、俺たちは今ここにいないよ。あの野原も、それくらいの変化は許容してるってことなんだろ」



【第二話 霜野そうや 了】

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