永遠の野原 TOWA NO NOHARA
水円 岳
第一話 会いに行く
(1)
カーポートの下で埃をかぶっていたグレイの軽に乗り込み、三ヶ月ぶりにセルを回す。バッテリーが上がっていないか心配だったが、拗ねたのはほんの少しの間ですんなりエンジンがかかった。
妻の
「やっぱり乗らないと調子悪くなるな。仕方ない。これからは定期的に出かけることにするか」
うっすらかぶった埃のせいで、メタリックグレイのボディが艶消しになっている。きれい好きだった章子の押さえが外れた途端に本来いい加減な性分が剥き出しになり、自分でもその落差に辟易してしまう。
まあいい。そんなことを気にして残り少ない気力を今目減りさせてしまうと、向こうで動けなくなるだろう。
「親父も、とんだものを遺してくれたもんだ」
ぶつくさと文句をぶちかましながらシートベルトを締め、空の助手席に言いようのない寂しさを覚えながら車を出す。
子供たちが独立して家を離れ、章子が他界したから、俺は一人暮らしになった。章子にどうしてもと拝み倒されて一軒家にしたんだが、こんなことなら親父たちと同じようにマンションにしておけばよかったと後悔しきりだ。
誰もいないことは承知の上で振り返り、『佐々木』の表札に向かって声を絞り出す。
「野原に。行ってくる」
◇ ◇ ◇
八十過ぎになって急に体調を崩した親父のケアと死去後の後始末でばたばたしていた間は、仕事をこなしながらの病院通いでどうしようもなく慌ただしかった。だが、まさかそのあとすぐ章子まで病魔に連れ去られるとは夢にも思わなかった。
親父と章子を相次いで失ったことの衝撃は寂しいとか悲しいという次元ではなく、ただただ呆然。はっと気づけばすでに一年以上の月日が経っていて、足元にはひたひたと打ち寄せる孤独の汀線が迫っていた。
大切な家族を失う辛さは息子の
章子に子供たちの面倒を見てもらう思惑が外れた優と由仁は、叔母……つまり俺の妹である
まったく現金なやつらだ……と文句を言ったところで始まらない。俺はまだ給料取りで会社勤めをしている。楽隠居の身分ではないので、事実子守りなどしたくでもできないのだ。
ただ……まだ仕事をしている間はいいが、このまま定年退職を迎えると膨大な時間を持て余すのは間違いない。墓に足を突っ込むまでの道筋をつける必要はないにしても、ぼつぼつ先のことをまじめに考えなければならない時期に来ているのだろう。
そんなこんなを。カーラジオからこぼれ出る女性ボーカルの甘ったるいラブソングを聞き流しながら、うつうつと考える。
もともと俺の家は郊外にある。十分も車を走らせれば住宅密度がぐんと下がり、家並みの一部が田畑や疎林に置き換わる。全て置き換わることはないけどな。都市と郡部の綱引きはまだ都市側優勢なのだ。それでも都心に比べればどの道もゆったり車を流す。観光シーズン以外は滅多に渋滞しない。車はゴーストップを繰り返すことなく、目的地に向かって順調にひた走った。
「おっと。行きすぎるところだった」
国道をひたすら北上していた軽のウインカーをぱちっと上げ、左折して県道、そして市道に入り込む。ゆるやかな丘陵を埋め尽くしている家々の間を縫って、ミステリーサークルのようにぽっかり空いた野原を目指す。
住宅地に入り込んだ途端、道は急に細くなり、かつ複雑に入り組む。俺は何度も来ているから目をつぶっても行けるが、案内板も町番表示もない野原にガイドなしで一発でたどり着ける人はそうそういないと思う。親父が偶然あの野原に出会えたのも道を間違えたせいだと聞いた。
カーナビの普及でファンタスティックな偶然が起こりにくくなっている今、野原を目指す連中には確たる目的がある。そいつらは概して歓迎できない。産廃の不法投棄を狙っているやつ、安易に肝試しようとするバカモノ、なんとかあの土地をガメようとする不動産屋とか、な。
そうは言っても住宅地のど真ん中だ。ヨソモノがうろうろしていれば必ず目立つ。不愉快な出来事だらけかと身構えていたほどには大きなトラブルに見舞われていない。
「よっと。着いた」
すがりつく家並みを振り切って緩やかな坂を登り切ると、少しだけ傾斜がきつくなり、その先がぽんと開ける。車ではとっつきまでしか上がれないので、ハンドルを切って車の尻を野原に向け、サイドブレーキをしっかり引いてエンジンを切る。
運転席から降りると、冷たい北風がのそっと吹き下ろして俺を押し返そうとした。好天だが風が強い。風圧に逆らって、懐手のままアプローチの小道をゆっくり登る。
登ると言ってもそれほど距離はない。高さが腰までしかない低い木杭と杭を穿って渡される太い灰色のロープ。それらがぐるりを囲んでいるささやかな野原が、冬枯れの草をざわざわとなびかせながらいつも通りの澄まし顔で俺を出迎えた。
「よう。いろいろあって、しばらく来れんかったんだ。久しぶりだな」
もちろん、相手は野原だから返事なんかするはずもない。
俺は牧柵にもたれかかったまま、吹き渡る冷たい風に顔を預け、目を細めていた。
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