(2)

 変わっていない。何も。何一つ変わっていない。親父に連れられてこの野原に初めて来た時のことを、俺は鮮明に覚えている。


 牧柵の中には草っ原以外何もなく、自由に走り回れる。陽花と二人でへとへとになるまで駆け回った。何がそんなに楽しかったのかは当時の俺や陽花に聞かないとわからないが、たかだか一ヘクタールほどの野原と言ってもそこには草以外なにもないんだ。きっと、仕切りや構造物のない広々とした空間がとても開放的に感じられたんだろう。普段暮らしている街中には、そんなスペースなどどこにもなかったからな。


 だが俺ら子供と違って、親父やお袋は別の意味でここを利用していたように思う。ここは不変の場所。永遠とわの野原。親父は常々そう言っていた。子供の頃は全くわけがわからなかったが、俺や陽花が野原をただ走り回るだけでは満足できない年齢に至ると親父の言っている意味がしっかり理解できるようになった。


 そりゃそうだろ。この野原の周囲はどんどん宅地開発されて家だらけになり、裾野にぱらぱら家があるだけだった眺望があっという間にぎっしり家々で埋め尽くされた。土地バブルがもう弾け飛んでいたとは言え、東京近郊の宅地開発はまだまだ続いていた。宅地化の荒波からこの野原だけがすぽんと外れているのは、社会経験の足りない俺たちの目にも奇異に映ったんだ。

 前地主の穂坂ほさか徳治とくじさんも穂坂さんからここを買い取った親父も、ここをデベロッパーに売りたくなかったんじゃなく、売りたくても売れなかった。それだけ曰く因縁付きの土地だったということ。


 親父には何度も言われた。信郎のぶお、ここはいずれおまえに受け渡すことになる。面倒をかけて済まんが、ここの意味をおまえなりに考えて扱いを決めてくれ。俺はここを遺せとも手放せとも言えん。俺はここを変えられないし、変えるつもりもない。俺や穂坂さんにとって、ここはそういう場所だからな。


 俺は親父にだけではなく、我が家を何度か訪ねてきた前地主の穂坂さんにも往時の牧場のことを詳しく聞かされた。ぼさぼさの疎林と木々の間を気ままに埋め尽くす草々。かつてここは、誰も積極的に利用しなかった荒地に近い場所だったそうだ。周囲には農地が広がっていたので、ここは何か曰くがあって手つかずのまま残されてきた場所なのだろう。穂坂さんはそう推測していた。

 そんな土地を穂坂さんがあえて入手したのは、農地ではなく牧草地としてなら使えると判断したからだ。もともと草原だった緩やかな丘陵の頂部近くを牧野としてそのまま利用し、周囲の木々を伐り払って牧舎や器具庫を建てた。肉牛を育てる事業は予想以上に順調だったという。

 最初は何の支障もなかったんですけどね。穂様さんがやれやれという表情で何度も皺首をさする様子が思い出される。


 穂坂さんの計画が狂ったのは、牧場の周辺が急激に宅地化し始めたからだ。点在する農家しかなかった頃には、穂坂さんの牧場にけちをつける者など誰もいなかった。だが、宅地開発の波がひたひたと押し寄せるに伴い数少ない農家が土地を売って離農し、田畑は容赦無く住宅に置き換わっていった。

 宅地化の波が足元まで押し寄せると、牧場は外堀を埋められた大阪城さながらの状況に陥った。攻め寄せる新住人たちは文句しか言わない。臭い。汚い。うるさい。暗い。あとから来たくせに、一方的に文句を言うのはどうかと思うけどね。穂坂さんは力なく笑っていた。


 ただ穂坂さんにとって、切り拓いた牧場は絶対の存在ではなかったらしい。事業規模の小さい家族営農で、子供たちはすでに家を離れている。奥さんと二人だけでずっと牧場を続けるのは体力的にしんどい。そろそろ閉める頃合いが来たんだろうと達観していた。

 牧場を閉めると無収入になってしまうので所有する土地を裾野から順に切り売りし、最後に丘のてっぺんを手放そう。そう考えていたそうだ。てっぺんを最後にしたのは開拓者の意地だと言った。


「あそこは私が苦労して切り拓いた場所。丘のてっぺんから、苦労の跡が一望できるんです。あの丘だけしかなくなれば。裾野が全て家で埋まれば。私は本当の意味で諦めがつく。そう考えるのはおかしいですか?」


 いや、穂坂さんがおっしゃったのは当然の感情だと思う。親父も深く同情していた。

 しかし土地をまとめて売らなかったことが、とんだ災難を呼び寄せてしまったのだ。あの……永遠の野原だけがどうしても売れないという災難を。


◇ ◇ ◇


 今俺が寄りかかっている牧柵は、ここに元からずっとあったものではない。穂坂さんが牧舎と自宅を畳んで裾野を売り払い、残った土地に外部の者が勝手に入らないようにと仮の柵を作った。柵と言っても高くもなく頑丈でもない。私有地境界の目安になるというだけで、人の出入りを阻むほどの障壁にはなっていない。実際、近所の子供達が勝手に出入りして遊んでいたらしいが、その時には穂坂さんご夫婦が別の場所に移り住んでいたので、勝手な出入りを咎め立てすることはなかったそうだ。


「頭に来るんですよね」


 穂坂さんは渋い顔で、吐き捨てた。


「あれだけ私らの牧場にけちをつけておきながら、子供たちは野放しですよ。危険のないただの空き地だから子供たちを遊ばせるのにちょうどいい、ですからねえ」


 そうは言っても見張りに足繁く通うのも面倒で、半放置状態だったそうだ。ただ、一つだけずっと気になっていたことがあったと言った。


「まだ牧場を営んでいた時に、丘の一部に納屋を作ろうと思って材木と工具を少し運び込んだんです。でも、それが一夜で消えてしまったんです」

「消えた……ですか」

「はい。最初は盗まれたと思ったんですが、当時はもっと敷地が広く、自宅、厩舎、器具庫は丘の麓にありました。わざわざ丘の上に行って大して価値のない材木や工具を持ち去るのはおかしな話です。足跡も車輪の跡も残っていませんでしたし」


 その頃すでに新住民との軋轢が始まっていたため嫌がらせの線も考えたが、邪魔や嫌がらせなら本宅や厩舎に対してするだろう。どうにも不可解な出来事だった。けちのついた納屋作りを諦めたので、異変の追求はそれきりになった。

 野原の怪異に再度気づいたのが、牧柵作りの時だったと言う。


「仮柵は私有地が残っていることの目印に過ぎませんので、もっとコンパクトに囲うつもりだったんですよ。今の野原の四分の一くらいあればいい。あとは売りに出そうかなと。でも今の境界の内側のどこに杭を打とうとしても杭が刺さらない。まるで、下に固い岩盤があるかのようでどうにもなりません」

「掘ってみたんですか?」

「もちろんです。でもスコップもつるはしも立たない。それも、石や岩があるという感じじゃないんです。結界みたいのがあって、そこから先には絶対に通さないぞと拒絶されるんですよ」

「うわあ……」


 親父に概要をさらっと聞いてはいたが、穂坂さんから直接聞かされると怪異の生々しさが倍増した。


「丘の頂部からどれくらい外れれば杭が刺さるようになるかを実地で確かめ、柵で囲ったのが今の野原なんです」


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