(3)

 変わらない野原はともかく、牧柵の外は大変だーとげっそりしながら一周して戻ったら。牟田さんが全く同じ姿勢で牧柵に寄りかかっていた。陽花と同じで、目の焦点がどこにも合っていない。おいおい、あんたもかいと思いながら声を掛けた。


「牟田さん?」

「あ、佐々木さん、すみません。ぼんやりしてて」

「何かあったのかい?」

「……」


 一瞬間があって。俺には言いにくかったのか、全く別の質問が返ってきた。


「あの、佐々木さん。ここにはよく来られてたんですか?」

「よく、というほどではないけどね」

「奥様と二人で、ですか?」


 章子とのことは、心の中でまだ整理がついていない。思い出に押し込んでしまえるほど悲しさが風化していないんだ。それでも、少しずつは口に出せるようになった。今日はどうだろうか。


「子供らがまだ幼い頃に家族で時々来てたんだ。ほんの数年だけだったけどね」

「そうなんですか?」

「子供ってのは飽きっぽい。遊びものがないとすぐ退屈しちゃうんだ。中学生くらいになったら、ここには来たくないって拒否られてね。それからはとんとご無沙汰さ」

「あはは」

「いつも家族で来てたから、家内と二人だけでというのは一度もないかな」

「……どうしてですか?」


 純粋な疑問というより、いささか非難のこもった口調で理由を聞かれる。牟田さんのアタマの中では、野原が俺と家内の運命の出会いがあった場所に位置づけられていたんだろうか。いやいや、それは違う。


「そうだなあ。この野原に強くこだわっていたのは、俺じゃなくて親父だったんだよ。俺も家内もここ以外に行ける場所、行きたい場所があったからね。子供を遊ばせる期間が過ぎてからは、親父のお供でしかここに来てない」


 俺がはぐらかしたと思ったんだろうか、牟田さんの表情が曇った。その顔を見て、ふと出会い話をしてみようかと思い立った。俺と家内しか知らない、一風変わった出会い話を。 


「なあ、牟田さん」

「はい」

「俺はね、ものすごく鈍臭いんだよ」

「え? そうは見えませんけど」

「長く生きてりゃ少しましになるってだけさ。今だってそんなに変わっちゃいない。小さい頃からものぐさでスローモーでいつもぼーっとしてる。正直、結婚して家庭を持つことなんか絶対に無理だと思ってた」


 人の本質ってのは、そう簡単には変わらない。俺も陽花も……そして章子もそうだった。変わらなかった。いや、ずっと変えられなかったんだよなあ。


「ただ。俺は鈍だけど人の言いなりにはならない。マイペースなんだよ。家内はその正反対だった。なんでもちゃっちゃっとこなすんだが、押しに弱い。すぐに自分を曲げてしまう。だから人にいいように利用される」

「お人好しってことですね」

「いや、こう言っちゃなんだが意思薄弱さ。人に、嫌ですダメですが言えない」


 大学生にもなってノーが言えないんじゃ、それまでどうだったのかは想像すらできない。


「大学二年の時。家内は試験前、友人にノートを貸した。ノート持ち込みオーケーの試験でね。貸したノートが試験までに返ってこなくて、あいつはノートなして試験を受けたんだ。ノートを借りたやつは優。あいつは可」

「そんなあ」

「大事なノートだから早く返してくれ。家内はどうしてもその一言が言えなかったんだよ」

「……」

「俺と家内は学部が違ってて、面識はなかった。たまたま学食でノートの貸し借りでもめているのに出くわしたんだ。味をしめた連中が、二度三度同じことをやらかそうとしてた。家内が丸め込まれそうになっててね」

「ひどいですね」

「まあな。だめなものはだめで突っぱねりゃ済むことなんだが、家内にはそれがどうしてもできなかったんだよ。俺は見るに見かねたんだ」


 三十年以上も前の出来事が、鮮明に浮かび上がる。


「おまえら、俺の彼女に何しやがる。いい加減にしろって連中をどやした。だって、おかしいだろ? 貸す方が借りる方にぺこぺこするなんてさ」

「えと。本当に彼女だったんですか?」

「いいやー。嘘も方便」

「あーあ」


 今の俺からは想像できないんだろう。牟田さんが絶句している。俺だって、章子ほどじゃないが人に楯突くのは苦手だ。親父のようにスルーするスキルもないし。でも、あの時だけはどうしても我慢できなかったんだよ。


「あの……もしかして、それが出会いなんですか?」

「ははは。おもしろいだろ。俺を擬似カレシとして利用していいと家内に言った。何か押し付けられそうなら俺を通せと言えってね」

「用心棒みたいなものですね」

「使えない用心棒だけどな」

「じゃあ、そのあと擬似が取れたってことなんですね」

「そう。ゆっくりとね」


 押されるのが苦手な章子と、そもそも押さない俺の組み合わせなんだ。ゆっくりにしかなりようがない。


「全然知らなかったー」

「馴れ初めなんざ誰にも披露してない。いろいろあって結婚式をしなかったから、エピソード紹介がどうのってのはなかったし。子供らにも話してないんだ」

「ええっ?」

「想いっていうのはすごく大事なものさ。口にするには覚悟が要る。だから、牟田さんが抱えている悩みを言い出せない気持ちはよくわかるよ」


 一呼吸置いて、続きを話す。


「俺は生涯家内の防波堤になると決めた。決意は家内が死ぬまで変えなかったつもりだ。ただ、最初に言ったみたいに俺は鈍だ。器用にはできなかったんだ。どうしても、その分後悔が残る」


 章子の異変に気づけなかった後悔は、死ぬまで薄まらないだろう。お袋の認知障害に気づくのが遅れた親父も、俺と同じ後悔を抱え込んだんだろうな。

 前に豊島さんに指摘された通りだ。親父が穂坂さんと並んで野原を眺めていた頃は、頑なに不変に挑む野原にエールを送り、自分自身にイメージを重ねていたはずだ。だが年を重ねるごとに、変わらない野原と変わってしまう自分とのギャップが広がってくる。親父は決して弱音を吐かなかったが、老いに蝕まれていく肉体と家族の形の望まない変化を受け入れきれず、ここでこっそり本音を吐き捨てていたんじゃないだろうか。最後は、いつまでも若々しい野原を見るのが辛くなったのかもしれない。


 だけど、俺はこの野原に親父ほどの思い入れがないんだ。その分、野原を冷静に見ることができる。見て、どうするの部分が問題だけどな。


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