第四話 春萌え

(1)

「参ったなあ……」


 ぽよぽよと春萌えが始まった野原をぼんやり見渡しながら、細い溜息を春風に吹き流している。俺一人のはずの野原に予想外の先客が来ていたからだ。


◇ ◇ ◇


 牟田のじいさんに調査を依頼したまではよかったが、そのあと本業が忙しくてしばらく動けなかった。なにせ、親父の死はともかく章子まであの世に行っちまうってのはまるっきり想定外だったんだ。書類関係の手続きだけでも、親父の分と章子の分のダブルは本当にきつかった。

 俺はもともと不器用でスローモーなんだよ。悲嘆の底でのたうち回りながら喫緊の手続きだけは辛うじてこなしたものの、他にも手をつけなければならないことが山のようにあった。その上本来なら雑事を手伝ってくれるはずの子供らは、孫の世話にてんてこ舞いでまるっきりあてにならなかったんだ。俺が追い詰められているのを知りながら、子守りまで押し付けようとしやがったからな。空気を読めないにも程がある。まったくろくでもないやつらだ。


 ともあれ、プライベートのごたごたがやっとピークを越したあとはおろそかにしていた仕事の遅れをしっかり挽回しなければならない。それでなくとも年度末は忙しいんだ。三月半ばからの一ヶ月間は、野原のことをあれこれ考える余裕がまるっきりなかった。もちろん現地を見にいく暇もなかった。人事異動が落ち着き、新年度の業務体制が見えてきたところでようやく一息ついた。

 多忙に全意識を支配されている間は、肝心のことがどたまからすっぽり抜け落ちやすい。そう、牟田さんの筋でじいさんを紹介してもらえたのは幸運だったが、俺は牟田さんの好奇心の弊害を何も考えていなかったんだよ。


 じいさんが「野原の査定を引き受けることにした」と事務的に流してくれれば、牟田さんの追求はなかったかもしれない。だがあの野原に人生を曲げられたじいさんは、感情の乱れをまだ制御できなかったんだろう。俺の前でもがりっがりに神経を尖らせていたんだから、過度の緊張がすぐに解けるわけがない。じいさんは黙るしかなかったんじゃないかな。牟田さんのことだ。じいさんの異変は絶対に見逃さないだろう。俺にいきなり突っ込んだみたいに、じいさんのおかしな態度にも容赦なく突っ込みを入れたに違いない。

 ごく普通の野原なら苦笑で済ませるが、永遠の野原はそうはいかないよ。あそこは奇妙を通り越して危険なんだ。穂坂さんや親父からしっかり由来を聞かされている俺や、怪奇現象を実体験済みのじいさんならともかく、何もご存知ない牟田さんが不用意に首を突っ込むと、彼女にどんな副作用が降りかかるかわからない。

 俺はもっと用心するべきだったんだが、多忙に紛れてその用心がどこかに棚上げになっていた。そして今、久しぶりに野原に来た俺の目の前になぜか牟田さんがいる。牟田さんのブレーキ役になってくれるはずのじいさんはいない。じいさんは牟田さんが野原に関わることを厳しく牽制したはず。それがかえって牟田さんの好奇心に火を点けてしまったと見た。


 あーあ。どうしようかなあ。こんなのはまるっきり想定外だよ。


◇ ◇ ◇


「一応うちの私有地なんで、来る前に連絡してほしかったなあ」


 ただの野原と言っても、私有地は私有地だ。無作法な突然訪問に嫌味を言うなら、それくらいしかネタがない。薮をつついて蛇を出すわけにもいかないから、やんわり牽制しておくくらいが関の山だ。やれやれ。


「済みません……」


 おやあ? いつもなら口での謝罪とは裏腹に好奇心むき出しの視線を四方八方に飛ばすはずの牟田さんが、珍しく俯いている。それも、俺の嫌味が堪えたという感じではない。変だなあと思いながら彼女の様子を仔細に見ると、違和感が倍増した。俺と同じで、ここには車で来たんだろう。だが、服装がよそ行きじゃないんだ。春らしく、オフホワイトのシャツにスリムジーンズの取り合わせだが、入念さがない。そこに服があったから着た、みたいな……。着の身着のまま飛び出してきたように見える。身だしなみにとても気を使う彼女らしくない。足元も履き古したスニーカーだし、髪もばさつくから仕方なく後ろで縛ってあるというぞんざいさだ。おまけにノーメイクじゃないか。きりっしゃきっぱりっという戦闘スタイルを見慣れているせいで、全力で戸惑ってしまう。

 うーん、わざわざ見に来たというよりも、ここを見に来るという名目でどこかから逃げて来たような。なんだよう。それじゃあ、ぼんぼろりんの陽花がここに来た時と大した変わらないじゃないか。


 牧柵の上に組んだ腕を置いて身体を預ける。今、一番何もかも放り出して心を空っぽにしたいのは俺なんだけどな……。まあ、いいや。やっと春らしい陽気になってきたんだ。久しぶりに野原を歩くとするか。


「済まんね、牟田さん。ちょいと敷地内を見回りしてくる。見回りが済むまでは中に入らんでくれ」


 いつもの彼女なら、なぜ中に入っちゃだめなんですかとすぐ突っ込んでくるだろう。だが、彼女は小声で答えた。


「わかりました」


 それだけだった。うーん……。

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