(3)

 じいさんの科白に驚いて振り返ると、奥まった目をいっぱいに見開いてじいさんが野原を凝視していた。


「あの、ここは初めてではないんですか?」


 思わず聞き返す。しばらく黙って俯いていたじいさんは、口を利くのもしんどいというようにぼそぼそ答えた。


「ここには一度だけ来たことがある。もう四十年以上前のことだ」

「じゃあ、私の親父と面識が?」

「ない」


 即座に、きっぱりと、だが苦々しい口調で、じいさんが言い切った。


「私が知っているのは、この地所の所有者が佐々木という人だということだけだ」


 四十年以上前……か。でも、親父が穂坂さんからここを買った後ということだな。

 じいさんが、目を伏せたまま小声でぼそぼそと話し続ける。


「最初、京香きょうかから話を聞かされた時に、心臓が止まるかと思ったよ。ついにこの時が来たかってね」

「あの、私には何が何やらさっぱりわからないんですが」

「……。親父さんから何か聞いてないのか?」

「何も。というか親父も私も不在地主です。ここに住んでいないので、ここで何があってもよくわからないんですよ。何かあったんですか?」


 俺が知っている野原絡みのトラブルは二つだけだ。穂坂さんが野原に持ち込んだ部材消失。そして、ここを調べようとした大学職員の消失。その二つだけ。穂坂さんのはわずかな経済的損失だけで大して実害がない。つまり、対外的には『神隠し』以外には何のトラブルも起きていないことになる。俺はそう認識していたんだ。だが、牟田さんは他の何かを知っている口ぶりだ。野原の値踏みはあとでもいい。俺はむしろそっちの方に突っ込みたい。

 再びしばしの沈黙を守っていたじいさんが、伏せていた顔を少しだけ上げ、上目遣いで俺を見た。


「……本当に知らないんだな」

「というか、知りようがないんです」

「そうか」


 次の沈黙には迷いがなかった。これから話すことを事前にしっかり準備立てているという雰囲気があった。俺は急かさずに待つことにした。

 数分して、じいさんがゆっくり顔を上げた。顔の強張りは取れていないが、怯えはいくらか薄れている。これまでとは違い、落ち着いた口調で言った。


「済まない。最初に謝らなければならない。私はここの地主であるあんたの親父さんにとんだ迷惑をかけている」

「うーん、親父がここで騒動に巻き込まれたことは一度もないんですが」

「本当か?」

「親父は正直な人間です。トラブルがあれば、ストレートに口にしますよ。母か私が必ず知っているはず。でも親父の代にも私の代にも、ここで何かトラブルがあったという話は一度もないです」


 言って、あ、そうでもないかと思い直した。


「あるとすれば、しつこいデベロッパーの売らないか勧誘があったくらいで。それもここのところはとんとご無沙汰ですし」


 土地の値踏みを依頼する者としては随分欲のないことだと思ったのだろう。じいさんが初めてわずかに苦笑し、その笑みをさっと消した。


「最後まで隠し通しておこうと思ったんだが、あんたからの打診があったということは、きちんと後始末していけという天の配剤なんだろう」

「そうなんですか」

「私的なことを迂闊うかつに口にするな。専門家としての矜持が足りなかった私に欠けていた心構えだ。口から出た言葉は取り返せない。そいつが一人歩きして、とんでもない影響を引き起こすことがある。私の後悔を……あんたとあんたの親父さんに、謝罪とともに聞いてもらいたい」

「はい」


◇ ◇ ◇


 ふっと一息ついて、じいさんが牧柵のロープを両手で握った。


「四十数年前。まだ若かった私は、とある不動産屋の社員だった。不動産鑑定士の資格を取ったのは、仕事で必要だったからだ」

「はい」

「ただ、資格があってもそれを使うってことは滅多になかった。下っ端社員は営業と客対応で手一杯さ。売る方を優先してこなさないとならないから、鑑定や買付けは管理職の仕事。私の出番はなかった。だから、プロとしての心構えが甘くなった」


 なるほど……。


「不動産屋は物件斡旋だけでなく、物件のケアやリフォームにも関わる。その関係で工務店の連中と付き合いがあってね。まあ、飲み友達だな。その中の一人に聞かれたんだよ。野原の値踏みができるかってね」

「まさか、それが」

「そう。ここだったというわけだ。私はここがどんなところかは知らないよ。その工務店の若いのが、たまたまこの地区の新築に関係していて、この野原に目をつけたらしい」

「なるほどなあ。下は開発が進んでいたから、ここも。そう考えてもおかしくないですよね」

「ああ。値踏みの結果が安値なら、仕入れて整備して高く売るつもりだったんだろう。他の不動産屋と同じだよ」

「その時の牟田さんの査定はどういう結果だったんですか?」

「市街化地域内の原野なら中間原野という形になるから、僻地の原野よりは値が付く。だが、ここは調整区域だ。宅地開発がそもそもできない。二束三文だよ」


 市街化区域内に不自然に調整区域が孤立していることは不思議に思わなかったんだろうか。俺の疑問を先取りする形で、説明が足された。


「ここみたいな例は珍しくないよ。遺跡や古墳がある、個人の墓所が置かれていた、とか。開発を行えない特殊事由はいろいろあるからね」

「あ、そうか」


 じいさんが、物憂げに野原を見遣る。


「地目変更の抜け道は各種あるんだ。所有さえしてしまえばどうにでもなる。俺に鑑定依頼したやつもそう考えたはずだ」

「ええ」

「だがそいつは、地元の人たちから地主がここを絶対に売らないと聞いて買付けを諦めた。事がそれで終わったら、私はもうちょっとましな人生を送っていたな」


 しゃんと伸ばしていた背を丸めて、じいさんが力なく溜息をついた。


「そいつは、私の鑑定結果だけを横流ししたんだよ。ろくでもない業者にね」

「はあ? 横流し、ですか」

「そうだ。地主がそこにいなくて、土地の管理が実質放棄されている。立木のない草地で、傾斜地ではあるものの傾斜は緩い。電気、水道といったライフラインが整備されておらず、宅地としては今後も使えない二束三文の土地。そういう情報だけが、悪質な土建屋に流れたんだ」


 急に話がきな臭くなった。


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