第18話 オーロラ



◆◇◆◇



世界で最初に打ち上げられた人工衛星は、ソビエト連邦が1957年に打ち上げたスプートニク1号だ。現在までに打ち上げられた数は世界中で12,000機を越え、特に近年は毎年1,000機以上が打ち上げられている。


打ち上げられた人工衛星が周回する軌道は、主に高度2,000キロまでの低軌道、約35,000キロまでの中軌道、そして高度35,786キロの静止軌道の3つに分けられる。


静止軌道には、地球の自転周期と衛星の公転周期が一致するため、同じ地点を観測したい気象衛星や通信衛星が多い。


そして、今――静止軌道上の静止衛星は、赤道上空に位置しているため、内側から押されるように膨らんだ磁気圏が、静止衛星のシステムにわずかな影響を与え続け、軌道を狂わせ始めていた。もうしばらくすると、地上からの制御信号も受付なくなり、地球の自転周期との同期もとれない状況になるだろう。


もしも、静止衛星が軌道を完全に外れると、地球へと落下を始めることになる。


もともと、人工衛星は常に落下した状態にあるが、地球から離れようとする遠心力とのバランスを保つことで一定の高度を維持している。軌道を外れた人工衛星は、そのバランスが保てない状況になる。


さらに、このまま地球磁気圏が正常な形を維持できない状態が続けば、静止衛星だけではなく、中軌道、そして低軌道の人工衛星も落下する列に加わることになるはずだ。


その列に並んだ多くは、大気圏突入の際の、断熱圧縮による高温で燃え尽きるが、地球を周回する衛星の数は多く、少なくない数の人工衛星が、燃え尽きずに地表に衝突することとなる。


もちろん、その衝突は今日、明日、というわけではない。仮に軌道を維持できなくなったとしても、地球を周回している以上、一定の遠心力は働いているからだ。少しずつ軌道を下げながら大気圏に突入するのは、まだ先になる。


だが先とは言え……それは遠い未来ではない。



◆◇◆◇


▼20XX年12月24日 地震雲予知研究所


夕方。


冬至を過ぎたばかりの今の時期、陽が落ちるのは早い。まだ6時前だが、外はすっかり暗くなっている。


電気を消した部屋は、応接セットのテーブルに置いた何本かのローソクのあかりが、ソファに並んで座る二人の短く濃い影を、穏やかに揺らしていた。


「クリスマスイブね」


「ああ」


預けられた香織の小さな頭を肩に感じながら、岡田は呟いた。膝の上に置いた手は重ねられている。


地震に関する研究を行っている関係上、防災の備品は事務所にしっかりと保管されている。飲料水や非常食も、数人が半年ほどは暮らせる分の備蓄がある。だが……備蓄に手を出すことになるかは分からなくなってきた……




オリビア女史に、地核と地磁気に関するデータについて二人の見解をつけた上で送ったのは数日前。そして昨日、アメリカ地質調査所USGSの予測データが送られてきた。


内容は、香織たちが考えていたよりも遥かに悪いものだった。そこには、ここ一両日以内に訪れる可能性が高い二つの危機的な状況が書かれていた。


一つが、地球磁気圏の深刻なダメージから生じるヴァン・アレン帯への影響。もう一つは、磁極の移動、いわゆるポールシフトだ。


USGSでも、監視体制を強めるが、香織の方で監視しているモニタリングデータに大きな動きが見られた場合、あるいはその予兆を感じた場合には、すぐに教えて欲しいとオリビアからは依頼されている。


今日は徹夜でモニタリングを行う予定だが、もしかするとこうして二人でクリスマスを過ごすことは最後になるかもしれない。そこで一時間ほどクリスマスの雰囲気を味わないか、岡田が提案してきた。もちろん香織に異存はなかった。


島田も気をきかせたのだろう、30分ほど前に「一度、家に帰ってきます」と言って出かけて行った。戻ってくるのは9時過ぎの予定だ。


香織は、備蓄してあった食糧の中からピクルスの瓶詰を用意した。1990年ものの、やや甘口の白ワインもテーブルの上に置いてある。さすがに今は飲むわけにいかないが、雰囲気作りにはなるだろう。



「信一郎、去年のイブは何をしていたの?」


「去年……?ああ、仕事してたな……」


苦笑いする岡田の言葉に、香織もクスッと笑った。


「私も同じね。地震が起きるたびに、地磁気のデータを見て、直近の確認できる雲の情報を探して……私たちが被災する可能性が高いのは地震か噴火がもっとも危険で現実味があると思っていたけれど……まさか、地磁気が関係することで、人類存亡の場面に立ち会うことなるなんて、思いもよらなかったわ」


「そうだな……」


岡田は、まだ現実味が薄い今の状況を思い出していた。


植物が新種のアルカロイドを生成し始めて、食糧の危機が訪れてからまだ数か月だ。その時も人類滅亡を真剣に考えざるを得ない状況だったことは確かだが、あの時は、そのタイムリミットは、かなり先だった。恐怖はもちろん感じていたが、今になってみれば、対応を考える時間、心を整理する時間は与えられていた。


だが……


今は、その危機が数日以内に迫っている。それも、その危機は全て推定でしかなく、もしかすると何も起きずに、「大山鳴動して鼠一匹」という結果に終わる可能性もある。しかし、磁気圏のダメージにしろ、ポールシフトにしろ、もし発生するようなことがあれば、仮に人類が生き残ることができたとしても、大勢の死は避けることはできない。例えそれが今まで経験したことがなくても、その道の専門家といえる二人には、未来図は容易に描くことができた。


アルカロイド生成を植物が止めたことで、一度は、希望が見えた直後の出来事だけに、余計に心が折れかけていることを感じる。まるで、現実と非現実の境をゆらゆらと行き来しているような、どっちつかずの心境だ。


しばらく考えてから、小さな声で岡田が尋ねた。


「……限界地点は、どこだろう?」


「地磁気の方?」


「ああ」


「そうね……地球磁気圏で同規模の磁気が内側から浸食した場合のモデルを急遽、作ってみたけれど、与えなければいけない変数が多すぎるからどこまで正しい数値が出たかは分からないけれど……」


香織は、オリビアにレポートを送ってからすぐに、モデルの作成に取り掛かっていた。だが、強磁性体となった植物は、種類ごとに磁力の強さが違っている。また、植物の分布も一定ではないため、少しでも正確なモデルを作成するための情報が少なすぎた。それでも、現在の観測データを元にして、半ば強引に作成したのだが……


「今、増加している低中緯度の地磁気の増加が75%を超えた段階で、元の地磁気への干渉が始まると推測しているわ」


「干渉?」


「ええ。ヴァン・アレン帯って、地球の磁気圏の中で二層構造を形成しているわ。でも、赤道付近を歪に押し出すように地磁気が増加すると、ヴァン・アレン帯も磁気圏の中でその二層構造の形を保てなくなりそうなの。それがさっきの75%よ」


「……今は何%まで増加している?」


「今は増加ペースが早くなっていて毎時0.5%以上で増えているわ。最新――2時間前のデータでは50%を越えていたから、75%を超えるまでは……長くても48時間ほどかしら。オリビアさんが送ってきたUSGSの予測データと、ほぼ一致したわ」


「あと二日ほどか……」


香織の言葉に、思わず握っている手にギュっと力が入る。


「そういえば、ポールシフトの方はどうなの?」


落ち着かせるように、岡田の手に自分の手を優しく重ねながら香織が尋ねる。


「さすがに、こちらで発生モデルは作れなかったが、外核の動きとN極からの磁力線の放出の減少割合は、USGSから送られてきた予測データと同じ推移で動いている」


「ということは……?」


「ああ。ポールシフトが発生するならば、残り時間は48時間ほどで全く同じだな。磁極の地磁気がゼロに限りなく近づいたときがタイムリミットだ。北極側の磁極は、おそらくアラスカ側に700キロ程度、移動することになる」


「地磁気の消失時間は?」


「全く分からない。USGSは、100年から800年と、かなり幅を持った予測をしていたが、果たしてどうなるのか……」


ヴァン・アレン帯の消失と地球磁気圏の消失……どちらか一つが発生しただけで、聖夜にレクイエム鎮魂歌が奏でられることになる。


揺れるロウソクの灯を見つめながら、香織はポツリと呟いた。


「……もしも、もしも……何も起きなかったら……」


「起きなかったら……?」


香織は、体を起こして岡田を正面から見つめた。


「……わ、私と……?」


何かを言いかけた香織は、窓の外の異変に気が付いた。


「信一郎……窓の外が変!」


岡田が、窓を見ると……


「緑色?」


最初は、クリスマスのネオンかと思ったが、何か雰囲気が違う。二人は、手を握ったままソファから立ち上がり、窓に近づいた。


すると……


窓から見上げる空には、赤紫色の淡いすそに彩られた緑のカーテンが垂れ下がっていた。


「まさか……これって、オーロラ?」


極点付近でしか見られないはずの美しいそのカーテンの煌めきを、香織は青ざめた顔で見つめていた。



◆◇◆◇



▼20XX年12月25日 ヌル島



アフリカ東部、ギニア湾には、パブリックドメイン公有地図の世界地図「Natural Earth」だけに掲載されている島がある。


ヌル島。


緯度、経度ともに0度に位置する1メートル四方の島は、実在する島ではない。地図ソフトで座標指定エラーが発生した際に利用するための架空の島で2009年に設定された。


しかし、その島が存在するはずの地点には、実際に一つのブイが浮いている。熱帯大西洋海洋予測研究アレイ(PIRATA)の18個の予測研究ブイ群の一つだ。大西洋近辺各国機関の協働によって運営されている。


そのブイには、通常なら海洋と大気の観測機器だけが取り付けられているだけだが、今は360度の監視カメラと磁気観測の装置も追加されていた。


その監視カメラが、今、美しい映像を送信していた。


夜空に浮く、緩やかな折り返しのカーブを持つ、すそが赤紫の色を帯びたカーテンは、神秘的な淡い緑の光を纏っていた。


360度カメラには陸地は全く映っていない。月明かりがない夜空はオーロラで覆われていて、波もない海面が、鏡となってその光を反射させている。


耳を澄ませば、波の音に紛れて、スース―、と絹なりのような音がかすかに響いてくる。


オーロラの音は、長い間、真偽が定かではなかったが、最近、地磁気に干渉することによる帯電による音、というのが有力な説となっている。いずれにしても、心を落ち着かせるこの音が、通常なら海では聞くことができない音であることは確かだった。


聖夜に上映された、赤道上でのオーロラによる壮大な鑑賞会は、カメラだけが記録していた。



◆◇◆◇



▼20XX年12月25日 アメリカ地質調査所USGS、ハザード対策監視ルーム



アメリカ地質研究所USGSのビルは、ワシントンD.C.郊外のバージニア州レストンに建てられている。水文学、生物学、地質学、地理学の科学分野について専門の科学者が調査・研究を行う機関だ。


その地下には、アメリカ合衆国を脅かすナチュラル・ハザード危機的な自然現象の対策チームがリアルタイムで、問題の事象イベントについて監視するための部屋が設けられている。各国の研究機関のデータだけではなく、民間が独自で行っている観測データも含めて、必要なデータが集約される部屋だ。


タイムリミットが迫る中、そのルームでは、イベントに関わる地球の地磁気をはじめとしたリアルタイムデータが集められていた。


特に地磁気の観測地点は、世界中の各国が協力して夜を徹した作業で増やした。地表と海――海上は船舶に設置してだが――に、FM-CWレーダーを設置、100か所に満たなかった地磁気の観測地点を一昼夜で10倍以上に増強、一気に強化することに成功した。


大統領はホワイトハウスで指揮を執っているため、この場の最高責任者は副大統領だ。植物の有機物生成のデータも送られてくるため、オリビアも参加していた。


「世界中で、オーロラの観測例が報告されています。赤紫のふちがついているオーロラが多いようです。赤道上の映像です」


10台のパソコンが並ぶ前に座るオペレータの一人が状況報告を行うと、モニターを操作、上部に3つ並ぶ巨大モニターの中央に緑の光が映し出される。


「これは……見事だな。紫色が混じったオーロラは初めて見た……ところでオーロラは赤道で観測されるものだったかね?」


副大統領が質問すると、対策チームチーフのアンソニーが答えた。


「オーロラとは、地球の磁場と密接に関わっています。本来なら、極域――南極と北極付近でしか見られないのですが、それが地球の全域で観測されている、ということは磁気圏の大きな乱れが生じていると推測されます」


実は、まだオーロラの発生原理は完全に解明はされていない。分かっていることは、地球磁気圏の夜側に広がるプラズマシートプラズマを溜める領域の中から、プラズマが磁力線に沿って加速、地球の電離層に高速で降下する際に、大気中の粒子と衝突することで起きる発光現象、ということは確認されている。


「低緯度でのオーロラは非常に珍しい現象です。というか、世界中でオーロラが見えるなど、あり得ない現象と言っても過言ではないと思います。国際宇宙ステーションISSが大型の磁気嵐の際に、南極からインド洋上に伸びるオーロラを宇宙空間で撮影した記録はありますが……赤道上で地上から確認されたことは過去に例がないですね。一応、今回の事象は地球磁気圏の乱れで説明はできると思いますが、確実な理由は分かりません」


オーロラの発光の原理だけで言えば、蛍光灯と同じと考えてよいが、プラズマシートが作られる過程、プラズマシートからプラズマが加速する理由など、肝要な部分はまだ未解明のままだ。オーロラは謎が多い。


「ちなみにオーロラの色は、高度と励起れいきする原子や分子の組み合わせで変わります」


高度が数百キロメートルと高いところでは窒素分子、150~200キロ付近では酸素原子というように、励起する原子や分子の種類と高度によって見える色は変化するのだが、赤い縁がついたオーロラは、主に高度90~100キロ付近で窒素原子が励起することで生じる。


「赤紫のふちを持つオーロラは、高度100キロ以下で見られるのですが、この高度までオーロラが降りてきている、ということは、オーロラ活動が強くなっていることを意味しています。つまり……」


「つまり?」


「世界中で観測されていることも加味すれば、今、地球磁気圏は、正常な状態ではなくなっています」


「そういえば……そんな磁場が乱れた状況で航空機は運航していても大丈夫なのかね?」


副大統領は、ふと思いついた疑問を口にした。


「確かにオーロラの元はプラズマですから、プラズマが流れる直角方向に地球の磁場が作用することで、MHD電磁流体力学発電と同じ原理の超電力が生じます」


「超電力?それはどれくらいの強さなのかね?」


「オーロラの超電力は電圧は数百万ボルト、そして電流は数百万アンペアと言われています。ただし、オーロラが発生する地上100キロ以上の高度を飛べる飛行機はありませんし、今は荷電粒子の対策も進んでいますから、航空機への影響がもしあったとしても通信障害ぐらいかと……ただし、これだけ全地球規模での影響が現れていることを考えると、人工衛星は深刻な問題を抱えるかもしれません」


「そうか……もっとも、今さら各国に警告を出すわけにもいかんから、航空機に被害がないのは幸いといったところか……」


アメリカは、今回のクライシス危機を公表してはいなかった。前回の新種アルカロイドのときは、そのタイムリミットがかなり先だったこともあるし、何より身の回りにある植物を口にしないように警告が必要だった。


だが……


今回は、タイムリミットが近すぎた。さらに有効な対策も思いつかない。起きたことがない現象を予測しただけに、その実現性まで担保することは難しく、公表することで起きる暴動などの人的な被害を考えれば、公表する選択肢を取れなかったのは責められないだろう。


もっとも、主要な各国政府には、モニタリングの協力要請も必要だったため、伝達していたのだが……


一部の国ではリークされる形で情報が漏れていたが、今のところ大きな騒ぎにはなっていない。


「チーフ、報告します!低緯度での地磁気の増加率が72%を越えました!」


「同じく報告します。地球の昼側の部分で、宇宙放射線の被曝量が毎時30~60マイクロシーベルトに増加中です。通常の約50倍に増加しています!」


「まずいですね……」


次々上がるオペレーターの報告に、アンソニーが呟く。


「やっぱり、ヴァン・アレン帯が消失するの?」


オリビアの問いに、アンソニーは首を横に振った。


「いいえ……磁気圏が消失しない限り、ヴァン・アレン帯が完全に消失することはありません。しかし、このまま植物が作り出している磁気圏の干渉を受け続ければ、間もなく、宇宙放射線の地表への到達率は10,000倍を超えます」


「10,000倍……確か、平時は1マイクロシーベルトぐらいよね。ということは毎時10ミリシーベルト、ってこと?」


「そうです。もちろん地球の昼側と夜側で、宇宙放射線の到達率は変わりますから、その数値の影響は、見た目よりも軽くなります。ただし、それは、増加率が上がらなかった場合ですが……」


「確か、当初の見込みでは増加率はもっと高かったんじゃ……」


「ええ。当初の想定通りなら、放射線の増加率は、最大10万倍までとなります。万一、そうなると……」


アンソニーは言い淀んだ。「滅亡」「絶滅」の二文字は口に出せなかったのだろう。


「放射線なら、防ぐ方法はあるんじゃないのかね?」


アンソニーが頷く。


「はい。アルファ線は紙で、ベータ線は薄い金属で防げますから、室内にいればかなり軽減されるでしょう……ただし、ガンマ線は特別な遮蔽物がないと防げませんが……」


「特別な遮蔽物とは?」


「一番効率的なのは鉛です……しかし、これから用意しようとしても、量的、時間的に世界中の人々に準備するのは不可能です。準備できる量を考えると、おそらく救えるのは、10万人でも難しいかもしれません」


「磁極での地磁気は減少率が85%を越えました!」


さらにオペレータが新たな報告を告げた。


「すまないが、タイムリミットは表示可能かね?」


副大統領の言葉に、あまり気が進まない様子だったアンソニーだが、少し逡巡しゅんじゅんした後、「分かりました」と答えた。


そしてアンソニーがオペレーターに指示をすると、正面の大型モニターの右側と左側に数字がそれぞれ上下二段で表示された。%で表示されている数字の小数点以下は3桁の表示だ。


「右側上部の数字が、低中緯度付近の地磁気の上昇度を%で示しています。175%がデッドラインとなります。下はタイムリミットまでの時刻です」


その上に表示されている数字は、数秒で小数点3桁目が上昇している。今は「172.138%」の表示だ。タイムリミットまでの時刻は「02:08:25」となっている。


「このタイムリミットは、ヴァン・アレン帯が宇宙放射線を遮蔽できなくなると予測されている時間です」


「残り2時間しかないのか……」


突きつけられた制限時間タイムリミットに、副大統領の顔色が明らかに悪くなった。


「左側は、磁極付近での地磁気の通常と比較した場合の割合になります。同じく%表示で上部が北極、下部が南極です」


上部の数字は14.533%、下部の数字は14.971%だ。


「ポールシフトでどのような減少が引き起こされるのかは全くわかりません。またどこまで減少すれば、ポールシフトが起きるのかもわかっていません。おそらくリミットは0%と考えていますが……地球の外核の動きがわずかに遅くなっていますが止まる気配はありませんから、おそらくゼロになることはないと思うのですが……」


数値の減少は右側のモニターよりも明らかにスピードが速い。


「やっぱり、同じタイミングでタイムリミットを迎えそうね」


「そうですね。何が起こるのか……何も起こらないのか……」


「いつの間にか、植物のことで頭を悩ませていたのが、地磁気に変わってしまうとわね……」


そう、今となっては植物をどうこうしようという話はなくなっていた。新種アルカロイドの生成を止めた放射性物質核爆弾は、今回は効果がないことが確認されている。逆に核からの放射性物質が有機磁性体の生成を促進させている恐れがあった。


そのため、一部の識者からは、LBWW作戦が今回の出来事を引き起こしたのではないか、という非難も出たが、あのまま新種アルカロイドの生成が続いた際のタイムリミットが設定されていたことは確かであり、人類が生存できる結果に導いていくことができないことは非難を口にしたものも理解していたので、その声は自然と小さくなっていった。


そして、地磁気という人が手出しできない領域の問題に昇華したことで、この場にいるスタッフの多くも、まだこの問題が自分たちを滅ぼす恐れがあることを、現実のものとは考えづらい状況にあった。


もちろん、今近づいているのは、人類が経験したことがない事象だ。訪れようとしているクライシス危機は、経験則に基づくものではなく推測でしかない。


もしかすると、何も起きないのでは……


そんな希望に縋る気持ちがオリビアの心の奥底で蠢いてうごめいている。だがその希望は、冷静な科学者の目で見れば、おそらく叶うものではないことは認識していた。


刻一刻と変化する映し出されている数値を、フィルターを通した目で見ているような現実味がない感覚に、オリビアは小さなため息とともに軽く頭を振った。



◆◇◆◇



▼20XX年12月26日 地震雲予知研究所



クリスマスが過ぎ、日付が変わってからも香織たちは事務所に詰めていた。一昨日から、軽く仮眠をとっただけで、ずっとデータの解析を行っている。


昨夜、オリビア女史から、現在、アメリカの地質調査所で監視を行っている観測データを処理した結果を、リアルタイムでそちらに共有してよいか、という連絡を受けた。日本とアメリカ東海岸の時差は14時間ほどある。現在、向こうはまだクリスマスの夜を迎えていない時間だ。もっとも、今、祝う暇は彼女にはないだろうが……


香織たちも、独自の観測データを収集、検証していたが、アメリカが持つ情報量と、その分析力はさすがと思わせるものがあった。


平時ならばアメリカの国家安全保障に関わってくる問題でもあるから、リアルタイムのデータ共有など望むべくもないのだが、今は平時ではない。オリビアはデータから香織や岡田が何かに気が付いた場合、すぐに連絡してもらうことを対価に、データ共有についてアメリカ政府の許可を取ってくれていた。


そして……


モニターに表示される数値を見ていると、今、自分たちが置かれている現実を否が応でも実感させる。


タイムリミットのカウンターは残り30分ほどを示している。


「岡田さん、ポールシフトって、地震を起こすことはないんですか?」


島田の質問に岡田が苦笑いして答える。


「それは、小説とかの話だろう?自転軸が突然移動することで生じる加速度で、地表にある全てのものが吹っ飛ぶ、ってやつじゃないか?」


「そう、それです」


「少なくとも、過去の痕跡で、そのようなものが見つかっていないことだけは確かだな」


「その通りよ。今回は自転軸じゃなく、磁極の移動になると思うけれど、南極と北極が入れ替わる、っていう極端な移動にはならないと思うわ。少し場所がずれるくらいの予測よ」


香織が岡田の言葉に同意する。


「そうですか……」


「ああ。香織の言うとおりだと思う。今は磁極からの磁力が減少しているが、その磁力は地球の自転が止まらない限り、ゼロになることはない。そして地球の自転が止まることもないから、島田君が想像していることは起きないと思うぞ」


「それなら良いのですけれど……」


とはいえ、正直なところ、岡田は心の中で何かが起きるのではないかと不安視していた。磁極の移動は、時間をかけてゆっくりと行われると思う。磁力線もゼロになることはなく、磁界も完全に失われないと考えていた。しかし、もともと地球磁気圏内の磁気は強くはない。その弱い磁気で及ぼしている影響だけに、わずかな「ぶれ」が、思いもよらぬ結果が現れる可能性はあるだろう。


「そういえば信一郎、ポールシフトの開始は、何か判定できるものはあるの?」


「そうだな……」


岡田は少しの間、考えていた。


「……おそらく、上昇している地磁気の値が目安になると思っている」


「地磁気の値?」


「ああ。地磁気が減少に転じた時、それが合図になるんじゃないかな。この前、香織が教えてくれた磁性体が持つ性質を考えると――」


そして岡田は、自分が考える合図の意味合いを二人に説明した。


「――そうね。確かにそうなる可能性はあるわね。オリビアさんに教えておいた方が良いかしら?」


「そうだな」


岡田が頷いたのを確認した香織は、パソコンの前に座り、メールを打ち始めた。


相変わらず窓の外は、緑の光が溢れている。一昨日おとといの夜から見ていると珍しさはなくなっていた。


明日の夜も、この美しい光を見ることはできるのだろうか……



◆◇◆◇



▼20XX年12月25日 アメリカ地質調査所USGS、ハザード対策監視ルーム



三つ並んだモニター右側の下段に表示されている、ヴァン・アレン帯が失われるまでのタイマーの残時間は10分を切っていた。


カタカタカタカタ――


監視ルームの室内は静かで、幾人ものオペレーターが、キーボードを打つ音だけが響いている。


タイマーを表示させてから、間もなく2時間が経過しようとしていた。そのタイマーをちらりと横目で見たオリビアが、ポツリと呟く。


「――大統領は、なぜ人類が植物に嫌われたのか、と話されていたわ」


「そうですね」


オリビアと並んで座っていたアンソニーが頷く。確かにあの時、そう話していた。


「私の研究は藻類が専門だから、厳密にいえば地上の植物とは生体そのものが異なるわけだけれど……藻類にも『集団の意思』のようなものを感じることがあるわ」


「集団の意思、かね?」


さらに横で聞いていた副大統領が話に加わってきた。


「はい、副大統領。感覚的なものにしか過ぎないのですが……」


例えば、ある研究室の藻類に細胞周期を合わせるような制御を与えた場合、別の研究室で栽培している藻類が同じ制御を行った、というケースがあった。意識的に、そういった現象を起こそうとしても同調することはなく、単なる偶然ともいえるのだが、逆に考えれば、人の意図がそこに加わったから藻類が「無視」をしたのかもしれない。


「――そういった事例が実際に起きうるという前提で考えれば、おそらく植物は人類を嫌ったのじゃないと思います」


「では、何なのかね?」


「植物に『個』があるとすれば、同じ人類の『個』に対して好き嫌いの感情があっても良いかとは思いますが……例えば、植物に褒める言葉をかけると成長が早い、という実験はよく聞きますし……」


植物の感情については、ポリグラフ嘘発見器を使ったバクスター効果が有名だろう。ポリグラフの専門家だったアメリカのクリーヴ・バクスターが発見した現象で、仕事中に室内にあったドラセナという観葉植物にポリグラフを接続、組織内の水分の動きを調べようと思いついた。作業中、バクスターがふと燃やしてその反応を試そうとしたら、実際に燃やす行動を取っていないのにポリグラフが強い反応を示した。その後、研究を続けたバクスターは「植物は他者の思考を読み取り、感情的に反応している」と結論付け、1967年に超心理学会で研究成果を発表した。


この「バクスター効果」については、使用したポリグラフがアナログだったことによる精度の不足を指摘して、真っ向から反対した科学者もいるが、同調する意見や研究も多く出て、賛否両論であることは確かだ。


「ただ、植物は人類が好きだから嫌いだから、といった個の感情を基準にしてはいないように感じているんです。どちらかというと、その行動は人に敵対するためではないように思えるのですが……」


「敵対してないなら、なぜ植物はそうした行動に出たのかね?」


「分かりません。ただ植物が新種のアルカロイドを生成したのも、有機磁性体を作り始めたのも、いずれもその対象は人類ではないように感じています」


ここしばらくオリビアはずっと考えていた。何度かカオリとも意見交換を行ったがオリビアと似た意見だった。


以前に大統領は、植物をエネミーと言ったが、植物は人類の存在など目に入っていないのではないだろうか……


そう。


「植物が行いたいのは――」


その時、オペレータの一人が振り向いた。


「地磁気の値が、デンジャーゾーン危険領域に入ります!」


上を見ると、右側のモニターの数値が赤くなっている。示している低中緯度の地磁気の増加率は174.785%。タイムリミットも残り4分を切っている。


オリビアは唇を噛み締めた。


「祈るしかなさそうね……」


副大統領も、モニターを睨みつけるように見ている。


その時、オリビアのスマホがメールの着信を知らせた。カオリからのメールだ。長い文章をだったのだろう、しばらくの間、メールに目を通していたオリビアがアンソニーを呼んでメールを見せている。


何かを確認しているようだ。アンソニーは少し驚きの表情を見せた後、オリビアに、幾度も頷いていた。


「ヴァン・アレン帯の維持率が5%を切りました。間もなく、崩れます!」


オペレーターの酷な知らせを耳にしたオリビアは、再度、モニターに目を向けた。


中央のモニターには地球磁気圏とヴァン・アレン帯がグラフィックを用いて表示されている。通常なら地球を中心に「8」の字を描くようにヴァン・アレン帯が囲み、その周りをさらに地球磁気圏が覆っている状態だ。だが今は、赤道付近から縦に圧縮される縮んだ磁気圏に押される形でヴァン・アレン帯も細く形状を変化させている。


「磁極の減少率も90%を越えました!数分以内にポールシフトが発生する確率が99%を超えています!」


N極である南極からの磁力線も、細くなっていて、磁極を示す地点がゆっくりと赤く点滅している。点滅が消えれば、磁極の消失=ポールシフトの発生、となるだろう。


アンソニーが跪いて祈りを捧げる。


「奇跡は起きないのか……」


私たちに今、行えることは何もないが、このまま破滅を受け入れたくはない。足掻きたい。生き残りたい。


オリビアは、奇跡を願うアンソニーの気持ちが痛いほどわかった。立ち上げりモニターを見ながら両手を組み、アンソニーと同じように祈った。


神様、奇跡を……


「地磁気の上昇率、175%を越えました!」


しかし、オペレーターからの無情な声が、血液が足に向かってすっと抜けていくのを感じさせた。


終わりが始まった。


今、地磁気を上昇させているのは植物からの磁気によるものだ。地上の植物は地軸と同じように自ら移動することはないが、海水中の藻類は海水の流れであちこちを移動する。磁界の方向は常に一定にはならないのだが、地球の磁気圏が維持されていることで、磁界の向きをある程度コントロールできている。


だが、地球が作り出している磁界磁場が失われれば、その統率も失われる。


磁界同士を近づけると、磁力線の向きが同じであれば磁力は高まるが、向きが逆ならば相殺される。磁石のN極とS極を近づければ、磁力の向きは同じ方向を向いているから引っ付くが、N極同士、S極同士の場合、磁力の向きが向かい合うことになるため反発するのと同じだ。


つまり、ポールシフトが起きて地球が作り出している地磁気が一時的にでも消失すれば、植物が作り出している「植物磁気圏」も大きくその力を減少させることになる。


先ほど送られてきたカオリからのメールには、上昇している地磁気が減少を始めた時――それはポールシフトが始まったことを意味することになるのではないか、とのことが書かれていた。


アンソニーに確認したところ、その推測に驚きの表情を見せていたものの、十分考えられるし、その可能性は高いとの答えだった。


地磁気が上昇すれば、ヴァン・アレン帯が奪われ、減少すれば磁極が失われる。磁極が失われれば、結局、ヴァン・アレン帯も失われるし、何より地球磁気圏が失われる。


どうあがいても、助かるルートが想像できない……


その時、オペレーターが声を上げた。


「地表での地磁気は、全観測地点で大きく減少し始めました!」


ああ……


モニターを見上げたオリビアは、大きなため息をついた。


カオリの推測は正しかった。


映し出されている地球磁気圏の姿は見る影もない状態だ。激しく点滅する磁極からの磁力線の流れは細い糸のような状態になり、低中緯度の地磁気だけが歪な輪のように地球を横に囲んでいる。赤道の両側に大きな房の状態で引っ付いているヴァン・アレン帯も、房がはじけたような形でかろうじて地球を囲っている状態だ。


間違いない。これはポールシフトが始まったサインだ。


「磁極も……間もなく消失します」


終わった……オペレータの弱々しい声に膝の力が抜けたオリビアは、崩れるように椅子に座った。


結局、奇跡は起きなかった。モニター上に表示されているいびつな地球磁気圏も、弾けたヴァン・アレン帯も間もなく消えることになるだろう。


これから訪れることを考える。


太陽を向いた昼側の地域から破滅は始まる。強い太陽風は、プラズマの嵐を地表まで届け、焼き尽くすだろう。夜側の地域も安穏とはしていられない。宇宙放射線は太陽側からしか来ないわけではないからだ。


何より地球は自転しているから、全ての地域がいずれ「昼側」になる。


当初、想定されていた地表の生命体の99.99%が48時間以内に消滅する、というのも頷ける話だ。


今、アメリカは地球の昼側に位置している。オリビアは、いまにも襲い掛かってくるであろうプラズマの嵐を、目を閉じ手を握って待ち構えた。


「――!!ま、待ってください!磁極は移動中です!地球磁気圏、消失していません!」


え?


オペレーターの叫びに、目を開けたオリビアがモニターを確認すると――


モニターに描かれているグラフィックが、ゆっくりとその姿を変えていった。


やがて……


これまでは、リンゴを二つに割った断面のような形で種となる部分の地球を、ヘタとなる磁極から大きく弧を描く形で磁気が覆う形だったが、今は、赤道付近が最も厚くなったレンズ状の形をした磁気が覆った形になっている。


夜側の方では磁気が流されている形状は同じで、地球全体はしっかりと磁気でカバーされている。さらに、ヴァン・アレン帯も赤道付近で厚みがある磁気圏の中に、房の大きさは少し小さくなっていたが、維持された形で保たれている。


そして先ほどまで、激しい点滅で磁極を示していた赤点は、間隔を長くした点滅状態で、ゆっくりと移動していた。北極側はアラスカ方面、南極側はアフリカ方面を向いているようだ。ただし、その動きは一直線ではなく、蛇行していた。さらに、南極側のN極からの磁力線は間欠泉のように、時折、吹き出す形で磁力を放出しているようだ。


「……助かったのか?」


副大統領が、ポツリと呟いた。


「……分かりません。分かりませんが……地球磁気圏もヴァン・アレン帯も、大きさや形は変わっていますが、維持されているようです」


「ということは……?」


副大統領の方を向いたアンソニーは力強く頷いた。


「磁気圏とヴァン・アレン帯が無事なら――地球は助かりました!」


本当に!!……ついさっき、死を覚悟したはずなのに……


オリビアは口に手を当てて、目を丸くした。


「ウォオオオオッ!」


少しの間をおいて、室内いるスタッフ全員から大歓声が上がる。次々に、立ち上がりハイタッチして、そしてハグをするスタッフたちの姿に、オリビアの目尻に涙が滲んできた。


良かった――




その時……




バチッ



――えっ?


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